第20話:恋を知りたい彼女

「…おはよう。お母さん」


 朝。いつものように台所に立つ母に挨拶をする。いつもならこっちを向いて、笑って挨拶を返してくれるが、今日は何も返してくれない。スープに火をかけたままボーっと突っ立っている。もう一度、少し声の音量を上げて挨拶をする。母はハッとしてこちらを向いて「おはよう」と返してくれた。が、笑顔は一瞬にして消え、気まずい空気が流れる。


「…百合香…お母さんね…」


 紡がれかけた母の言葉は、母の中に引っ込んで消えた。代わりに、謝罪の言葉が出てくる。


「…それは何に対する謝罪?」


「…イヤリングを捨てなさいって言ったこと」


「…それだけ?」


「…他に何があるの?」


「…私の想いをただの憧れだって決めつけたことに対する謝罪はないのかしら」


「…私は間違ってないわ。百合香のそれは思春期特有の一過性のものだから。…今は分からなくても、大人になれば分かるわ。あなたも…私も、同性愛者じゃないもの」


「…両性愛者…バイセクシャルって聞いたことない?同性でも異性でも恋愛対象になる人のこと。…私は多分、それだと思う」


「…なら尚更、男性を選んだ方が良いわ。同性との恋愛なんて、傷つくだけよ。残るのは後悔だけよ」


 まるで経験してきたように母はいう。


「…経験してきたみたいな言い方するのね」


 私がそう指摘すると、母はぴたりと手を止めた。明らかに同様している。嫌味のつもりだったが、まさか図星のような反応をするとは思わなかった。


「…前に、憧れの先輩の話をしたでしょう。…私はあの人と付き合ってた。…今となれば若気の至りってやつよ」


「嘘ついてごめんなさい」と母は私の方を見ずに呟く。


「…その先輩は今は男性と付き合ってるの?」


「…知らないわ。別れてから会ってないもの。…けど、もう良い年だし、きっと、結婚して母親になっているに違いないわ。そうよ。先輩もあの時のことは間違いだったって、後悔してるに違いないわ」


 早口でまくし立てる母。まるで自分に言い聞かせているようだ。そうであってほしいと言っているようにしか聞こえない。


「…知らないのに決めつけるのね」


「っ…私は悪くないわ…先輩だってそう言ってたもの…『全部私が悪い』『ごめんね』『君は被害者だから私を責める権利がある』って…そうよ…先輩が悪いのよ…私は悪くないわ…」


「…そう」


 母がその先輩に何をされたかは分からない。しかし、彼女が母にかけたその一見優しいように思える言葉が、逆に今の母を苦しめているように見えた。ずっと、その残酷な優しさに苦しめられてきたのだろうか。


「…私はお母さんのこと責めるから。簡単には許してあげない」


「っ…」


「…ごちそうさま」


 それだけ告げて、洗面所で歯を磨き、着替えて家を出る。母からの「行ってらっしゃい」の声はなかった。大丈夫だろうかと心配になり、戻りそうになる自分を止める。今母に必要なのは同情ではない。ちゃんと叱ってくれる人と、自分と向き合う時間だ。

 家のドアに背を向け、駅へ向かう。


「おはよう、夏美ちゃん、はるちゃん」


「おはよう。…昨日、ちゃんと帰った?」


「えぇ。ちゃんと帰ったわ」


「なーんだ…王子の家に押しかけてお泊まりしなかったんだ…」


 残念そうな顔をする夏美ちゃん。

 ふと、私のカバンを見て違和感を覚えたように首を傾げた。


「大事なストラップどしたん?まさか無くした?」


「あ、本当だ。なくなってる。昨日帰るときにはあったよね?」


「大丈夫よ。海菜に預けてあるの」


 昨夜海菜が送ってきたぬいぐるみの写真を二人に見せる。


「ぬいぐるみのネックレスにされとるやん。可愛いことすんなぁ王子」


「これって、ゆりちゃんが作ってたやつ?」


「えぇ。あげたの」


「王子にあげるために作ってたん?…にしてはちょっと不細工な顔だな…もうちょっと可愛い表情にしてあげなよ。なんでこいつこんな不機嫌そうなのよ」


「こういう顔が好きなんですって」


「海菜ちゃん、ブサかわが好きなのか…」


 彼女が私に似てると言ってくれたぬいぐるみをと表現されてしまうと少々複雑な気持ちになる。


「おはよう、三人とも」


「おはよう」


「おっす」


「おう。おはよ…」


 車両に乗り込んできた海菜達を見て、正確には海菜を見て夏美ちゃんとはるちゃんは固まってしまう。二人の反応に海菜は複雑そうに笑うが、私が「可愛い」と褒めると、複雑そうな苦笑いは照れ笑いに変わった。


「なぜ急にスカートに?」


「百合香がデートするから今日はスカート穿いてきてって」


「デートって…部活は?」


「有休取るから大丈夫」


「そんなものはない」


「じゃあ生理休暇で」


「…はぁ…普通に体調不良って伝えておくよ」


「さっすが望。私に甘いね」


「うるさいな……。しかし、昨日あれだけ怒られたのによく堂々とサボれるな」


 星野くんがため息を吐く。私がわがままを言ってサボらせたのだと正直に白状すると「庇わなくていいよ」と苦笑いされてしまった。


「庇っていないわ。今回は本当に、私のわがままなの」


「てか、散々言ったじゃん。デートしたいからスカート穿いてきてほしいって百合香に頼まれたって」


「あー…そうだったな…当たり前のように君を疑って悪かった」


 素直に頭を下げる星野くん。とはいえ、当たり前のように疑われてしまうほど日頃からサボりの常習犯だったということだろう。


「てか、部活サボってデートとかちょっと青春っぽくていいな。あたしも一回くらいやりたいなぁ」


「…森くんと?」


「な、なんで森っちが出てくるんだよ!別に誰ととか言ってないじゃんかー!」


 顔を真っ赤にしながら、ニヤニヤするはるちゃんをぽこぽこ叩く夏美ちゃん。散々はるちゃんをわかりやすいと揶揄っていたが、夏美ちゃんも人のことは言えないようだ。




 夏美ちゃん達と別れて教室に入ると、教室がどよめいた。クラスメイト達の視線が海菜のスカートに集まる。彼女が席に座ると近くの女子生徒が「急にどうしたの?」と話しかけて来た。


「別に大した理由はないよ。今日はスカートの気分だっただけ。似合わない?」


「いや、似合わなくはないけど…なんかすっごい違和感」


「あははっ、これでも中学生の頃はスカート穿いてたんだよ」


「つか、それしか選択肢が無かったからな」


「ほら、これ」


 海菜がスマホに表示した写真に写っていたのは髪の長かった頃の海菜。


「えっ、鈴木くんロングヘアじゃん。意外と似合ってるし」


「モデルさんみたい」


「ありがとー」


 だんだんと彼女の周りにクラスメイト達が集まってきた。人に囲まれて見えなくなってしまう。彼女は人気者だ。私はそれを快く思うことができない。気に入らない。私だけを見ていてほしい。

 だけどそんな醜い独占欲が、私が彼女に恋をしていると証明してくれる。そう考えると、この醜い感情も少しだけ愛おしく感じてしまう。

 ふと、教室の入り口で誰かを探しているようにきょろきょろしている実さんと目が合う。手招きされ、行くと、飴を二粒渡された。


「昨日のお礼です。一つは柚樹から」


「昨日…あぁ、動画の件ですか」


「えぇ。…鈴木さんはまだ来てませんか?」


「海菜ならあの人混みの中に…」


 振り返ると、私の席が彼女を囲っていたクラスメイトに奪われてしまっていた。思わずため息が漏れる。


「…人気者ですね。彼女」


「…そうですね。彼女は優しいですから」


「不満そうね」


「…そう見えますか?」


「えぇ。とっても不満そう。…ねぇ、少し、聞いてほしいことがあるのだけどいいかしら」


「なんですか?」


「…ここでは話しづらいのでこちらへ」


 連れていかれたのは音楽部の部室。少し待っていてと言われ待っていると、鍵を持って戻ってきた。誰もいないか周りを確認してから私を部室に招き入れると、鍵をかけた。


「…鈴木さんとは、お付き合いされているの?」


「いえ。…といっても…ほとんど付き合っているようなものですが」


「付き合っていないの?」


「…待ってもらっているんです。この人は私の恋人だと堂々と宣言できる覚悟が出来るまで。…私はずっと、母の言いなりになって生きてきました。…以前付き合っていた男の子とも、母に反対されたからという理由で切り捨てました。…好きだったのに、自分の気持ちより母の気持ちを優先して。…だから…堂々と恋人だと公言する勇気がなくて…」


「…そう。キープしてるのね」


「…自分でも最低だと思います」


「…わたしは貴女の気持ち、分からなくはないわ。わたしも中学生の頃、女の子と付き合っていたの。…けれど親にバレて、別れさせられた。…親はわたしを彼女に誑かされた被害者だと決めつけて、わたしの声なんて一切聞いてくれなかった。…わたしには、自由に恋愛する権利なんてないの」


 諦めたように笑う彼女が少し前の自分に重なる。


「…私もそう思ってました。…でも…海菜を好きになって…変わらなきゃって思ったんです」


「…そう。羨ましいわ。そう思えるほど好きになれる人に出会えて。羨ましくて…妬ましい。貴女も…堂々と女性が好きと言えてしまう鈴木さんも」


 そういうと彼女はすがるように私に抱きついてきた。


「…実さん…?」


「…羨ましくて、妬ましくて、嫉妬でおかしくなってしまいそう」


「わたしも自由に恋愛する権利が欲しい」と、どこか憎しみと妬みが篭った声で彼女は呟く。かける言葉が見当たらない。

 ふと、こんこんっと部室のドアをノックする音が聞こえた。


「実さん、ユリエル、もうすぐHR始まるよ」


 満ちゃんの声だ。鍵を開けて部室を出ようとすると、実さんは私の腕を掴んで引き留め、壁に押し付けた。


「み、実さん…?HRに遅れますよ」


 彼女は何も答えない。何かを待っているように見えた。再び、扉がノックされる。返事をしようと扉の方を向くと、顔を無理矢理彼女の方に戻され、そして…

 彼女は扉が開いたタイミングを見計らい、素早く私の唇を奪った。


「…え」


 扉を開けた満ちゃんが唖然とした顔で私達を見つめる。突き飛ばすと彼女は唖然とする満ちゃんを見てからふっと笑ってわざとらしくこう言った。


「あら、見られちゃった」


 反射的に振りあげられた私の手を満ちゃんが咄嗟に止める。掴まれた手は縫い付けられたように動かなくなってしまう。


「…実さん、昨日、音源、ありがとうございました。…私、初めて聴いた時からあんたの演奏が好きで」


「…そう。貴女が鈴木さんが言ってたファンの子なのね」


「…うっす。それ伝えたくて追いかけてきました」


「…幻滅したでしょう。私が貴女の友達の好きな人にこんなことするなんて」


 自嘲するように笑う実さん。対して満ちゃんは首を横に振った。


「…ユリエル、返してもらいますね。この子、うみちゃんのなんで」


「…あら、付き合ってないって聞いたのだけど」


「まぁ…今は付き合ってないって言ってますけど、ほとんど付き合ってるようなもんですよ。だから、あんまちょっかいかけないでやってくださいね」


 満ちゃんはそれだけ言って、私を連れて部室を出ようとするが、実さんは「待って」と私達を引き止めた。


「その子にはちょっかいを出さないって約束してあげる。代わりに、貴女がわたしの相手をしてくれない?」


「…相手?」


「えぇ。…わたしね、女の子が好きなの。貴女みたいな可愛い女の子が」


 そう言いながら、実さんは満ちゃんに詰め寄る。しかし彼女は一歩も怯むことなく、ふっと笑って「あざっす」とお礼を言った。私の身代わりになれと言っているのにもかからず、的外れで間抜けな返事をする満ちゃんのせいで、実さんはきょとんとしてしまい、彼女が作り出した緊迫した空気は一瞬にして崩れる。


「…貴女、今どういう立場か分かってる?なにに対するお礼よそれ」


「いや、可愛いって言われたんで。で、私が彼女の代わりになればいいんすよね?」


「構いませんよ」と満ちゃんは笑う。「意味分かって言っているの?」と実さんが呆れたように問うと、彼女は「分かってますよ」と表情を変えずに答える。


「要するにセフ……になれってことでしょう?別にいいですよ。私、実さんのこと嫌いじゃないですし」


 唖然としてしまう実さん。すると満ちゃんはしたり顔をして、彼女の耳元で何かを囁いた。動揺して真っ赤になってしまう実さんを余所に、満ちゃんは私を連れて部室を出る。


「…実さんと何話してたの?」


「…私と海菜が羨ましいって話。羨ましくて、妬ましくて、嫉妬で狂いそうだって」


 私も、あの頃は自由に恋愛をする周りが妬ましかった。気持ちは痛いほど分かってしまう。きっと、私に同情なんてされたくはないとは思うが。


「…あの人、悪い人じゃないと思う」


「無理矢理キスされたうえに、殴ろうとしてたくせに庇うんだ?」


 今更ながら、唇を手の甲で拭う。


「…手が出そうになったことは反省してる。止めてくれてありがとう」


「どういたしまして。私もあの人が悪い人だとは思わないよ。…なんか、凄く辛そうに見えた。…そんな顔を見たら、私も辛くなった」


 キスをされた瞬間を海菜に見られなくて良かったと思う反面、彼女に迎えに来てほしかったという気持ちの方が強い。そんな私の心を読んだのか「王子じゃなくてごめんね」と苦笑いした。


「…別に気にしてないわ。海菜は人気者だもの」


「めちゃくちゃ気にしてんじゃん。一応弁解しておくと、うみちゃんも行こうとはしてたんだけど、学級委員だからって先生の手伝いで借り出されちゃってさ」


「…それは仕方ないわね」


「…なぁ、ユリエルはうみちゃんが自分以外の誰かとキスしてたら嫌だよな?」


「嫌に決まってるじゃない」


「…だよなぁ」


 以前から彼女は『恋を知りたい』と言っている。そして実さんに対して、正確には彼女が奏でるヴァイオリンの音色に対して、特別興味があるとも。


「…私、さっきの見てわかった。別に実さんが誰とキスしようが、セ…いちゃいちゃしてようが、気にならないんだって。あの人に恋人が出来たってきっと、あの人が望んだ人なら素直に祝福できる。…けど、興味はヴァイオリンだけじゃなくて、あの人本人にも向けられてる。彼女のこと、もっと詳しく知りたいって思ってる。あんな…辛そうな顔しないでほしいって」


「…私はそれは恋だと思うわ。逆に恋だと言い切れないのはなぜ?」


「…あれだけ近寄られてもドキドキしなかったから」


 寂しそうに、彼女は自身の胸に手を当てる。


「…あと、独り占めしたいとも思わない。彼女の心の支えになれるなら、どんな関係でも良いんだ。友人でも、都合の良い関係でも」


「そうね。確かに、恋をするとドキドキするわ。私も海菜の近くに居るとドキドキする。けど、このドキドキはきっと、彼女と過ごす時間が長くなるにつれて失われていくものだと思うの。それが無くなっても私はきっと、彼女と一緒にいたいと思っていると思う。私はこのドキドキを味わうためだけに彼女と一緒にいるわけじゃないから」


「…えっと…つまり?」


「つまりね、恋って、例外はあるだろうけど、いつかは愛になるものだと思うの。満ちゃんはきっと、その過程をすっ飛ばしちゃうくらい実さんを愛してしまっただけなんじゃないかしら」


「…すっ飛ばしちゃっただけ…」


「えぇ。あくまでも私の意見だけどね」

 

「…恋の過程をすっ飛ばすほど好きって…」


 満ちゃんの顔がみるみるうちに赤くなっていく。


「…なんかそれ、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど…ベタ惚れじゃん」


「ふふ。そうね。だから満ちゃんの実さんに対する気持ちはきっと、恋じゃないとしても、恋愛感情の一種ではあると思うわ」


「…そう…なのかな…」


「あくまでも、私の見解ね。最終的に答えを出すのはあなたよ。でも、あまり周りと比較比較したって答えは出ないと思うわ。周りと比べて焦ったって、余計に答えが遠ざかるだけだと思う。あの人のこと、好きなんでしょう?」


 私がそう問うと、彼女はきょとんとしてしまった。そして、おかしそうに腹を抱えて笑い出す。


「…恥ずかしいこと言ったかしら」


「いや…昨日うみちゃんに同じこと言われたから…なんかすげぇデジャブ」


「…そ、そう…」


「ふふ…ありがとう。もうちょっと悩んでみるよ。実さんとの繋がりもできたことだし」


「…身代わりになるって話、まさか本気じゃないでしょうね」


「…あの人は多分本気じゃないよ。『私も寂しいから相手してくれる人が欲しかったんです』って言ったら真っ赤になってたし」


「半分は冗談なのに」とくすくすと笑う満ちゃん。その笑い方がどこか妖艶に見えた。

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