第11話:今までごめんね

 仲良くなったきっかけなんて覚えていない。物心ついた頃には、私の隣にはいつも二人がいた。男勝りな女の子と、甘いものや可愛いものが好きな男の子、そして男と女の間で生きる私。世間の言う女性らしさや男性らしさとは違う世界で生きてきた私達は、周りからよく『男らしくない』『女らしくない』と揶揄われた。しかし、私達三人それぞれの親は私達の個性を尊重して育ててくれた。『女らしく生きる必要も、男らしく生きる必要も無い。自分らしく生きろ』それが私の母の教えだ。私はその教えに従って生きてきた。


『俺は二人と、大人になっても親友でいたい』


 最初にそう言い出したのは望だった。中学に上がる少し前、私と満ちゃんと三人で、桃園の誓いを真似て桜の木の下で盃—ただ紙コップで乾杯しただけだが—を交わした。男女三人の関係は恋愛感情の縺れで長続きしないとよく言われていたが、私たちに限ってはそんなことはないと思っていた。

 望の私に対する好意が、満ちゃんに対するそれと違うことに気づいたのは、私が同性愛者だと二人に告白した時だった。『なんとなく気付いてた』と笑う二人の表情にどことなく差があった。その後、彼が泣きながら『俺は海菜が好き』と満ちゃんに打ち明けているところを目撃してしまった。

 異性から好意を向けられたり、恋心を打ち明けられたりする度に私は内心、嫌悪感を抱いていた。同時に、私が異性愛者だと、付き合える可能性があると疑わずに『付き合ってほしい』と簡単に口に出来る彼らに苛立ちを覚えていた。だから私は自ら自分が同性愛者だと公言し始めた。それでも告白してくる男子は居た。男性に興味ないと言うと『付き合ってみたら変わるかも』とか『男除けのための嘘なんだろ』と言ってきた子もいる。


『海菜、俺といて平気なの?』


 ある日、望にそう言われた。理由を問うと彼は『俺の気持ちに気づいているんだろ』と悲しそうに笑った。彼の口からだけは『恋愛対象として好き』という言葉を聞きたくなくて、私は彼にこう言った。


『君は私を恋愛的な意味で好きになったりしないでしょう?だから、平気だよ。だから…』


 君はこの先もずっと私の親友でいて。私を好きだなんて言わないで。

 私はそう、彼に呪いの言葉をかけた。酷いわがままだと分かっている。それでも彼は私の想いを察して『人としては好きだけど恋愛対象としては見てないよ』と、嘘をついてくれた。

 私はあれ以来ずっと事あるごとに『私達は幼馴染で親友だから恋愛対象にはならない』と彼に言い聞かせ、復唱させてきた。それでも彼は一度も私を責めたことはない。奴隷のように忠実に、私に尽くしてくれる彼の献身的な愛が重苦しくて仕方なくて、次第に少しずつ、わがままはエスカレートした。それでも彼は文句一つ言わずに私に尽くした。それが心地良くて、気持ち悪かった。

 もはや、私に対する嫌がらせなのかと思うほどに、彼は私に愛を捧げ続けた。実際、嫌がらせなのかもしれない。私が『もうやめて』と言うのを待っているのかもしれない。けれどお互いに引けず、関係を壊すことを恐れて、もういい加減彼を解放すべきだと何度も言い聞かせながら今日まで来た。


「…満ちゃん、すまん…手握っていい?」


「…ん」


 自宅の最寄駅が近づくにつれて怖くなる。彼の本音を聞くのが怖い。


「…私達三人は切っても切れない腐れ縁だろ。だから大丈夫だよ。今までだって、何度も喧嘩したし。…本音で話し合えばいいだけ。…わがまま言ってごめん、八つ当たりしてごめんって、謝ってこい。お前だってなんだかんだで罪悪感抱えてんだろ?」


 満ちゃんの言う通りだ。私は彼に対して酷いことをしている自覚がある。だから、満ちゃんに『クズだ』と責められると少しほっとしてしまう。望の『君は悪くない』という嘘より、よっぽど優しい。


「…満ちゃんに甘えるのも、今日で最後にするからね」


 異性愛前提の世の中で、自分一人が除け者にされているみたいで、辛かった。寂しかった。誰かに寂しさを埋めてほしかった。だけど、新しい恋に進める自信が無かった。まだ、彼女に対する想いを捨て切れなかったから。付き合えても、彼女の代わりにしてしまいそうで。

 いっそ、私を見てほしいと望まない、都合の良い、彼女の代わりがほしかった。だから『私の中には恋愛感情が存在しないかもしれない』と寂しそうに言う彼女と、お互いに孤独を埋め合うように、何度も身体を重ねた。それでも彼女は私を好きだとは言わないし、私も彼女と付き合いたいとは思わない。見返りを求めずお互いに孤独を埋めるために利用し合うだけの関係が、酷く心地良かった。だけど、それももうおしまい。元々この関係は『どちらかに好きな人が出来るまで』という約束だったから。私のわがままで延長してしまったが、今日で終わり。


「今までありがとう」


「おう。頑張れよ」


「お、おう…」


 利用しあうだけの関係が心地良いとは思っていたが、こうもあっさりとしていると少し拍子抜けしてしまう。


「何驚いてんだよ。言ったろ。私はお前に執着したりしないって。で、ユリエルのどこが好きなの?」


「百合香の好きなところか…見た目と雰囲気かな」


「…性欲とどう違うんだ?それ」


「いやいや、中身も好きだよ。優しいところが好き。あと、揶揄った時の反応が可愛い。けど、どこか危うくて…守りたくなるんだ」


「…両想いに見えるけど、告白しねぇの?」


 百合香は気になる女の子が居ると言っていた。それが私かもしれないという期待は大きい。だけど、今はまだ打ち明けるべきではない気がする。


「まだちょっと様子見。あんまり迫ったら怯えて逃げちゃいそうだから。今はまだ、言わない」


 出会って日は浅い。もう少し彼女のことを深く知ってからでも遅くないだろう。


「彼女じゃなきゃ駄目な理由とかあんの?」


「んー…ありのままの私を受け入れてくれるところとか」


「それは私もだろ」


「あははっ、自分で言う?確かにそうだけど、恋は理屈じゃないんだよ。するものじゃなくて、落ちるものだから。始まりは一目惚れだけど…彼女、私に対してモナリザみたいって言ったでしょう?」


「あぁ、言ってたな」


「あれが凄く嬉しかったの」


 なんで?と彼女は首をかしげる。


「モナリザは私の憧れだから」


 私は女性として生まれた。背が高く、中性的な顔立ちをしていて、胸もほとんど膨らんでいないおかげで、初対面の人は私を男性だと判断することが多い。そのことを、嫌だとも、失礼だとも思ったことはない。むしろ『彼女は女性だから男性と間違えるのは失礼だ』と私の代わりに勝手に怒る人の方が不快だ。

 私は女性として生まれたが、他人から女性と認識されたいとは思わないし、女性らしくなりたいとも思わない。かといって、男性になりたいとも思わない。モナリザの話を聞いて、女性であり男性でもある"の人"を羨ましく思った。私も、両性の魅力を兼ね備えた人になりたい。そう思っていた。だから、女性にも男性にも見えると彼女に言われたことが酷く嬉しかった。

『髪を伸ばした方が女性らしい』という一言に『ただの感想であってそうしろと言っているわけではない』と弁明を付け足してしてくれたことで、私の『女性扱いも男性扱いもされたくない』という自己紹介を聞いてという言葉が私の気に触るかもしれないと考えてくれる優しさに気づき、ますます彼女に惚れた。


「そうか。…うみちゃん、空美さんに対してはがきっかけだって言ってたよな」


「うん」


「…どうやって、からに変わっていったの?」


「難しい質問だなぁ…」


「…じゃあ…空美さんに対して恋をしてるって確信を持ったきっかけってある?」


 彼女は私のことに関してほとんど無関心だ。誰と何をしようが、どうでもいいという感じだった。私の話を聞いてはくれるものの、こんなにも自分から私に対して質問をしてくることはほとんど無い。知りたいのはきっと、私ではなく恋愛感情というものについてだろう。


「きっかけかぁ…なんだろうなぁ…みぃちゃんに抱きつかれてドキドキしたことかなぁ…『うみちゃん体温高いから暖とらせてー』って。そんなこと、しょっちゅうだったのにいつの間にか女性の身体になってきてるなぁって気付いちゃって。それで意識するようになった」


「…やっぱ性欲との違いがわからん」


「あはは…恋愛感情の中には性欲も含むからね」


「けど、恋愛感情はあるけど他人に対する性欲はない人もいるんだろ?…アセクシャルだっけ、アロマンティックだっけ」


「えっと…それはノンセクシャルかな」


「ん?アセクシャルは?」


「他人に対する性欲も恋愛感情も両方ない人」


「じゃあ、性欲はあるけど恋愛感情が分からない私はアロマンティック?」


「そうだね。多分」


「…もし、私が誰かに対して恋愛感情を抱いたら、私はアロマンティック?じゃなくなるの?」


「んー…そうだねぇ…その場合はグレーセクシャルになるのかな…」


「…難しいな…」


「そうだね」


 ずっと同性愛者だと自認していた母が父に恋をして私達を産んだように、自認するセクシャリティは何かのきっかけで変わることもある。人の心は複雑だ。そう簡単にカテゴライズ出来るものではない。


「セクシャリティが変わっても満ちゃんが満ちゃんじゃなくなってしまうわけじゃないから…あまり気にすることはないんじゃないかな。めんどくさくなったらセクシャルマイノリティってことにしておけばいいよ」


「…まぁ…そうだな…異性愛者でないことは確かだもんな…」


「うんうん。で、実さんに実際会ってみた感想は?」


「まだよく分からん。てか直接話してねぇし。けど…彼女が弾くヴァイオリンの音をもっと聴いていたいとは思った」


「あくまでも興味の対象はなんだ?」


「うーん…そうだな…ヴァイオリンの音は元々好きだし…ただ、生音に感動してるだけなのかも…」


「そっか。じゃあ今度、ヴァイオリンのコンクール見に行かない?実さんも出てるやつ。みぃちゃんと行く約束してるんだ」


「…コンクールか…」


「うん。実さんが弾くヴァイオリンの音が好きなのか、ただヴァイオリンの音が好きなのか、確かめに行こうよ」


「…うん」


 私も彼女の感情の正体には興味がある。それが実さんに対する恋愛感情なら応援したい。恋する彼女を見てさみたい。

 

「…ニヤニヤすんな気持ち悪い」


「ふふ」


 彼女の話で少し気が和んだが、駅が近づいてくると再び緊張が戻ってきた。握った手に力を込めてしまい「痛いんだけど」と睨まれる。


「…すまん…」


 扉が開き、電車を降りるとしっかりしろと背中を思い切り叩かれる。周りの人が振り返るほど、パコーンといい音が鳴り響いた。叩かれた背中をさすりながら駅の階段を上がる。駅の近くの公園のベンチに彼女と座り、望に電話をかける。応答はせず「今いく」の一言メッセージが送られてきた。


「…今私、人生で一番緊張してる」


「…空美さんに告白した時より?」


「…うん」


 重たい腰を持ち上げ、私達が友情を誓い合った周りの木より少し大きな桜の木の下へ移動する。


「…我ら、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う」


 桜の木に手を当て、あの日、桃園の誓いを真似て誓った言葉を呟くと、満ちゃんが「同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん」と続け「あの誓い、重いし暑苦しいよな」と苦笑いした。


「あの時は深く意味を考えずにそのまま引用して言ってたもんね」


「痛いよな」


「あははっ、小学生だもん。よく分からないけどカッコいい!って感じだったんだろうね。ちょっと早い厨二病だね」


 二人で懐かしみながら笑い合っていると、「海菜」と、私を呼ぶ望の声が聞こえた。振り返ると、走って駆け寄ってくる彼が見えた。深呼吸をし、近づいてきた彼を真っ直ぐ見え据え、緩んでいた空気を引き締める。


「…お待たせ」


「…うん」


「…」


「…望、私はずっと、君に酷いことをしてきた。君の気持ちに気づいていながら、君に恋愛感情を向けられるのが怖くて、君の気持ちを否定し続けてきた。…ごめん」


 深く、頭を下げて謝罪をする。彼は何も言わない。見上げると、大粒の涙を溢す彼の顔が視界に入る。満ちゃんに私に対する想いを打ち明けていた時も、こんな顔していたのだろうか。


「…分かってる。それでも俺は、もうどうしようもないくらいに…」


 言葉を詰まらせる望。顔を上げると彼は『言っても大丈夫?』と不安そうな顔をしていた。


「本音を打ち明けて。もう…否定したりしないから」


 うん。と頷き、大きく深呼吸をして、真っ直ぐに私の目を見て、言葉を続ける。


「俺は、君が好きだ。何をされたって許してしまうほど。側にいられるなら自身の想いを否定する言葉を吐けるほど。俺だけを見てほしいと、叶わないと分かっていても願ってしまうほど。君が好きだ。愛してる」


「…うん」


「…君の恋人になりたかった」


「…うん」


「好きになってごめん」と、彼は俯き小さく呟く。


「…こっちこそ、好きだと言わないでなんて言ってごめん。謝らせてごめん。私は、私が異性愛者であることを前提で話すみんなに、打ち明けたのにも関わらずキャラ設定でしょと決めつける一部の人間に苛ついていた。性別を理由にフラれるかもしれないなんて微塵も思わずに好きな人に告白出来るみんなに嫉妬していた。…だから君に——性別というどうしようもない要素を理由に私に叶わない恋をしている君に、その苦しみをしばらく私と一緒に味わってほしかった。異性愛者というマジョリティに対する羨望と嫉妬を、君にぶつけてたんだ。八つ当たりをしていたんだよ」


 本音を全て打ち明ける。誰が聞いたって、非があるのは私の方だ。それでも彼は私を責めない。うんうんと頷き「分かってたよ」と呟くだけ。分かってるなら叱ってほしい。怒ってほしい。最低だって、俺に八つ当たりするなって。私を簡単に許さないでほしい。私のしたことを肯定しないでほしい。


「…望。怒らないのか」


 満ちゃんの言葉に、彼は何も言わずに俯いてしまう。やはり、彼はどこまでも私に優しい。残酷なまでに甘い。

 すると満ちゃんが深いため息をつき、私の前に立った。なんだか嫌な予感がした。「手加減はするから」と呟き足を振り上げ、腰の回転を利用して私の横腹を狙った。思わず、咄嗟に彼女の足を受け止めてしまう。


「ちょっ、たんまたんま!」


「あぁ?素直に蹴られろよ」


「いやいや、流石に腹はいかんよ。私、女の子だし」


「ならケツにする」


「きゃー!やめてー!女の子のお尻蹴るなんて最低!」


「うるせぇ!都合の良い時だけ女になってんじゃねぇよ!クズが!」


「ゔぁっ!」


 尻の辺りに彼女の蹴りが直撃し、パコーンッ!と良い音が響いた。尻に激痛が走り、バランスを崩し、膝をつく。


「手加減するって…言った…」


「しただろ。ほら、望も一発殴っとけ」


「えっと…じゃあ…」


 ぽんっ。と、頭を優しく叩かれる。叩かれたというよりは、もはや、ただ手を置かれただけだ。満ちゃんが舌打ちをし、私の頭に手を置く望を突き飛ばして私の頭を思い切り叩いた。

痛い。絶対、個人的な恨みもこもってる。


「…手が出せないなら、言葉だけでも全部こいつにぶつけてやれよ。お前のそれは優しさじゃねぇ。ただの甘やかしだ」


 彼は頷き、何かを言おうと口をぱくぱくさせる。しかし、何も言えずに俯いてしまった。


「…望、言ったよな。『俺は二人と大人になっても親友でいたいって』今でもそう思ってんのかよ」


 彼女の問いに、彼は弱々しい声で「思ってるよ」と答える。すると彼女は「本音も言えないくせによく言うよ」と鼻で笑った。


「…望、私は今日、どんな罵詈雑言も受け止める覚悟で君を呼び出した。ちゃんと向き合いたいんだ。君と、自分自身と」


 ずっと、彼の優しさが辛かった。同情が心地良くて、同時に痛かった。散々彼の優しさに漬け込んでおきながら勝手なことを思っているのは分かっている。始まりは全て、私の身勝手な八つ当たりだ。非は私にある。彼には私を責める権利がある。

 俯いていた彼は深く、震える息を吐き、顔を上げた。泣きそうな顔で私を真っ直ぐ見据え、途切れ途切れに言葉を放つ。


「他の人の告白には誠実に対応するくせに、俺には好きだと伝えることさえ許してくれない君が、ずっと憎かった」


「…うん」


「君を好きになってしまったことを何度も後悔した。だけどどうしても嫌いになれなかった。君が、俺に対して酷いことをしてるって自覚があることは気付いていたから。君が自分の非を素直に認められる人間だって知っていたから」


「…うん」


「だから…だからいつか『ごめんね』って君が言うまで八つ当たりに付き合おうって思ったんだ」


「…ありがとう。私の八つ当たりに付き合ってくれて」


「…本当は…君を責めたら…君が俺から離れて行ってしまいそうで怖かったんだ。恋愛感情は無いと嘘をついてでも、君の側に居たかった」


「…うん。私も…君を失いたくはないよ。あれだけ八つ当たりしておいてどの口が言うんだって思うかもしれないけど」


「ほんとだよ」と満ちゃんが苦笑いする。


「親友のままでいたかったから、君が私と恋人になりたいと望むことが嫌だった。…告白してもらって、フった方が良いことは分かっていた。けれど…あの時の私には君の想いを受け止める余裕がなかったんだ」


 望が私に『俺といて平気なの?』と聞いてきた数ヶ月前、私に告白してくれた女の子が居た。恋の告白ではあったが私に対するものではなく、別の女の子に対して恋をしたという相談だった。私は彼女に応援すると約束した。不謹慎だと分かっていても、仲間ができたみたいで、少しだけ嬉しかった。

しかし、数ヶ月後、再び彼女に呼び出された。『好きな人に"彼氏"が出来た』という報告と『自分の想いはただの憧れだったのかもしれない』という報告。彼女は、彼氏が出来た好きな子に対して、特に嫉妬するわけではなく、むしろ嬉しかったらしい。そして『自分にも気になる異性が出来た』と嬉しそうに報告してくれた。"同性に対する恋愛感情は憧れを恋と勘違いしているだけ"と決めつける人はいるが、本人が恋ではなかったと言うのなら、それを否定する権利は私にはない。私と同じではなかったことに少し寂しさを感じながらそうなんだとにこやかに聞いていたが、彼女は私にこう言った。『鈴木さんもいつかきっと男の子を好きになれるよ。大丈夫』と。裏切られた気分だった。

何を根拠に?と聞くと彼女は『私がそうだったから』と答えた。『それは君がそうだっただけで、私は君とは違う』と主張するとハッとして謝ってくれたが、私の怒りは簡単には治らなかった。


「…それが、君が私に『俺と一緒にいて平気なの?』って聞いてきた前日の話」


 満ちゃんとの関係が始まったのもその日からだ。私が間違いじゃないことを証明してほしいと、彼女に迫ったのが始まりだった。


「…タイミングが悪かったんだな」


「…うん。そう。最悪なタイミングだった。…君は何も知らないから、完全に八つ当たりだけど」


 私は女性愛者で、男性に恋心を抱くことは想像出来ないが、母の例があるため私が異性を好きにならないとは一概には言えない。だけど想像は出来ない。男性と付き合うなんて、考えただけで気持ち悪い。だから同性から恋愛感情を向けられて気持ち悪いと感じてしまう異性愛者の気持ちは分かる。私も男性から恋愛感情を向けられることに対して嫌悪感を抱いているから。そのことは誰にも打ち明けたことはないが、おそらく望と満ちゃんは気付いているだろう。


「今まで本当にごめん」


「…うん。…小桜さんとのこと、応援する。むしろ、早く付き合ってくれ」


「…うん。君も、新しい恋が芽生えたら教えて。全力で応援する」


「うん。…ありがとう」


「次はこれみたいなクズに引っかかったりすんなよ」


「気付ける」


 ようやく、彼はぎこちないが笑顔を浮かべてくれた。しかしその笑顔はすぐに歪んでしまう。


「…望、私は先に帰るね」


「…うん…また明日」


 望に背を向けて家の方に歩き始める。緊張が切れたのか溢れ出る涙を袖で拭う。


「私は居たほうがいいか?望」


「ううん…一人にしてほしい。また明日、いつも通りの時間にね」


「おう、遅刻すんなよ」


 満ちゃんが隣に駆け寄ってきた。涙を流す私の顔を覗き込み、ティッシュを差し出した。


「…なんでお前が泣いてんだよ」


 そういう彼女も少し涙目だ。


「君も泣いてんじゃん」


「…泣いてねぇよ」


「…今日、このままうち来るよね?」


 隣に並ぶ彼女の手に、指を絡める。彼女はびくりと跳ね、驚いたような顔で私を見た。今日はそういう日ではないと思っていたのだろうか。


って言ったじゃん」


「…ユリエルのこと好きなんだろ?」


「うん。好きだよ。だから、今日で君との関係はおしまい。…今日は嫌だった?」


「いや、別に嫌ではないけど…聞いていい?」


「うん」


「こういう関係を終わらせるのは、付き合えてからじゃ遅いの?」


 彼女のその疑問にはきっとほとんどの人が『当たり前だ』と呆れながら答えるだろう。『何を馬鹿なことを言っているんだ』と。しかし彼女が本気でそう疑問に思っていることを、私は理解している。


「例え割り切った関係でも、付き合えなくても、付き合いたいと本気で望むことを決心したのなら、君との関係は終わらせた方が誠実だと私は思う。私は彼女に対して誠実でありたいんだ」


 恋人が居ても、恋人以外の人間と肉体関係を持つこと自体は悪だとは、私は思わない。ただしそれは、恋人が許容していればの話。私は自分が嫉妬深い方だと自覚しているから、いくら割り切った関係でも、お金を払って買ったサービスでも、容認はできても許容は出来ない。『自分がされて嫌なことを人にするなら、同じことをやり返されても文句を言う資格はない』と母に教わった。だから私は自分が嫌なことは人にはしない。望の件は例外だが。


「…それでも今日はするんだな」


「今日くらいは許してよ。最後なんだから。満ちゃんだって、最後に一回くらいしたいでしょ?」


「一回で済まないだろ。毎回…」


「えー?まだやめないでーって甘えてくるのはいつも君の方じゃないか。可愛いネコちゃん」


 そう揶揄うといつもなら舌打ちをするのだが、今日はただため息を吐いただけだった。彼女なりに何か悩みがあるのだろう。


「おう。お帰り。満ちゃん、いらっしゃい」


「こんばんは。お邪魔します」


 彼女を泊めることは両親には話してある。流石にであることは打ち明けていないが、付き合っていないことは理解してもらっている。幼少期からよく泊まりにくることが多かったから特に気にしてもいないのだろう。

 食事と風呂を済ませて部屋に入ると、珍しく彼女の方から甘えるように抱きついてきた。


「…先に話聞いてほしい」


「うん。いいよ」


 彼女と一緒にベッドに入り、彼女を抱きしめる。


「…ごめん。執着しないって言ったけど…本当は少し寂しい。うみちゃんは、私を理解してくれる数少ない人だから」


「…うん」


「…うみちゃんに対して恋愛感情があるかって聞かれたら、多分、無い。…こうやって抱きしめられても、落ち着きはするけどドキドキはしない。…実さんのヴァイオリンの音を聴いた時のような感覚はない。けど、今のところ、うみちゃんの代わりはいない。だから…手放すのが惜しい。うみちゃん、よく言うだろ?『好きだけど恋人にするのは勿体ない』って。私も同じ気持ちなんだよ。私は、うみちゃん以外とセックスしたって平気だし、うみちゃんが誰とセックスしようがどうでもいい。執着されんのは面倒」


「うん。分かるよ。割り切った関係って楽だもんね」


「…寂しいんだ。恋愛感情があることが当たり前の世の中で、私だけ恋愛感情が分からないことが。私は恋愛感情を理解したい。普通に恋がしてみたい。けど、理解出来ない。うみちゃんが私と同じなら良かったのに」


 彼女の気持ちはよく分かる。ずっと、異性愛が当たり前の世界で、自分だけが異質のように感じていたから。満ちゃんは私とは少し違うが、少数派マイノリティであるという共通点で繋がりを得ていた。しかし、"恋愛感情がある"という点だけ見たら私は多数派マジョリティ側にいる。


「…満ちゃん。今日はたくさん質問してくれてありがとう」


 他に彼女にかける言葉が見つからない。彼女はしばらく待って、私の口からそれ以上言葉が出てこないことを察すると、私の胸に頭を埋めたまま『いつか必ず理解できるなんて無責任なこと言われるよりは全然マシ』と言ってお礼を言った。

 恋愛感情がわからないという彼女に『いつか理解出来る』と言ってしまう人は多い。私はそう言われる辛さを既に知っている。

 しかし、恋愛感情を持たない人がいることを知らなかったら私も『いつか分かるよ』と言ってしまっていたかもしれない。

『差別心は無知から生まれる。それを忘れてはいけない』私は母からそう教わった。


「これからもたくさん質問していいからね。私が分かることならなんでも答えるよ」


「…恋愛感情はまだ分からないけど…うみちゃんがモテる理由はなんとなく分かる。…お前の吐く言葉は心地良い」


「珍しい。今日はデレの日なんだね。いつもツンツンしてるのに」


「…色々考えすぎて疲れた。早く…頭の中、空っぽにして」


 彼女は泣きそうな顔をして、私の耳元で誘うようにそう囁いた。

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