第8話:別に大したことではない

「じゃあ、また後でね」


 別れてそれぞれ教室に入り、カバンから教科書を取り出していると、はるちゃんが教室に入ってきた。私を素通りし、後ろの席の机をバンッと叩く。


「……海菜ちゃんに話があります」


「お、おぉ……どうした?」


「正直に言って。海菜ちゃん、星野くんのことどう思ってる?」


「望?……あぁ、もしかして私が望のこと好きかもしれないって心配してる? 大丈夫だよ。私は彼のこと恋愛対象として見れない。彼も同じだと思うよ」


「……本当にそう思ってるの?」


「ん? うん。ずっと一緒に居たんだから、彼が私をどう思ってるかくらい分かるよ。知り合ったばかりの君より、私の方がよっぽど彼のことを分かってる」


「……それは嫌味?」


はるちゃんが顔を顰める。私にもそう聞こえた。今のはなんだか嫌な言い方だった


「……そう聞こえちゃった? ごめんね。けど、これだけは信じてくれるかな。私は君の恋路を邪魔するつもりはないよ。むしろ応援してる」


「……そう。分かった。……ありがとう」


 不機嫌そうな顔をして、教室を出ていくはるちゃん。私の違和感は勘違いではないと確信する。


「……海菜。なんであんな喧嘩売るような言い方したの?」


「……小春ちゃんが望と付き合ってくれた方が、私にとっては好都合だから」


「好都合?」


私の疑問には答えず、彼女は目を逸らす。


「……満ちゃん、今日の放課後空いてる? 望と三人でちょっと遊びに行かない?」


「あぁ?私も巻き込むつもりか?」


「このまま私と望が拗れて気まずくなるのは嫌だろ?」


「……ほんと良い性格してるな。お前」


「褒めないでよー。照れちゃう」


「褒めてねぇよクソが」


 悪態をつく満ちゃんだが、二人の空気はそこまで悪いようには見えない。さっきの星野くんと海菜ほどではない。


「……やっぱり星野くんと何かあるのね?」


「……まぁ、ちょっとね。私達の問題だから今は詳しくは話せないけど、心配しないで。こんなことで簡単に切れる縁じゃないよ。拗れる前にちゃんと話し合ってくるから」


「切りたくても切れない腐れ縁だからな」


「切りたいなんて思ったことないくせに。望は大丈夫だと思うけど、問題は小春ちゃんだよなぁ……嫌われちゃったかな」


「そりゃさっきのあれ、はるちゃんからしたら嫌味以外のなんでもないからな」


「でもほらぁ、初恋の話で好感度上げたし……チャラにならない?」


「……お前……まさかそのためにあの話を…?」


「いやいや、振られたから答えただけだよ。でもまぁ……小春ちゃんの好感度は上げておかないと後々めんどくさそうだとは思ってる。望の件もあるし」


「……さっさと話した方がいいんじゃないか? あのこと。どうせ隠す気はないんだろ?」


「……いや、とりあえず望に代弁してもらおうと思ってるよ。私の言葉は届かないかもしれないから」


「あのこと?」


「……私が望のことを絶対に恋愛対象として見れない理由だよ。……君は察しが良さそうだし、これだけ言えば気付くんじゃない?」


「……星野くんを……恋愛対象として見れない理由…」


 幼馴染として、幼い頃からずっと一緒に育ってきたと聞いている。恋愛ドラマで幼馴染に振られる理由は『兄弟のような存在にしか思えない』というものが多い気がする。けれど、海菜の理由はそんなに単純ではない気がした。


「当てにきていいよ」


 ニコニコしながら彼女は言う。彼女にとっては知られて困ることではないのだろうか。むしろ、知ってほしいのだろうか。私の想像通りなら、否定されるかもしれないとは思わないのだろうか。


「当ててよ。君は私のこと否定しないでしょ?」


 私の心を読むように、彼女は言う。どうして、知り合ったばかりの私のことをそこまで信じられるのだろう。まさか本当に心が読めるのだろうか。まさか。


「……海菜が……星野くんを恋愛対象として見れない理由……よね……」


「うん。……分からない?」


「……幼馴染だから……じゃないの?幼い頃からずっと一緒に居たから……」


「残念。不正解。わざと外したでしょ」


「……」


「答え言うね。私、。望は幼馴染である前に男の人だから、そういう目で見れない。望もそれを知ってる」


 教室のざわめきに紛れて、他愛もない話をするように普通に、誰に聞かれても構わないという顔で、彼女は私にカミングアウトする。幸いにもクラスメイト達は誰一人として、私達の会話など聞いてはいない様子だが、こういう話はもっと、深刻な空気の中でされるものだと思っていた。言いづらい話だと思っていた。だけど、冗談といえる空気でもない。彼女の真剣な表情が、冗談でしょと言わせない雰囲気を作り出していた。


「……私が同性愛者だと困る? 気持ち悪い?」


 そんなこと、君は言わないよね? と彼女の笑顔が圧をかける。もとより、そんなことは思っていない。思えない。


「……そういうこと言わないって分かってるから、打ち明けてくれたんでしょう?」


そう返すと、彼女はどこかほっとしたように柔らかく笑った。


「……うん。遅かれ早かれ君には打ち明けるつもりだったよ。というか、誰に知られても別にもうお構いなしなんだ。気付いた時は戸惑ったけど、大したことじゃないって分かったから。病気でもなんでもなくて、個性の一種であることはもう散々証明されてるしね」


「……えぇ。私もLGBTは障害でも何でもないって思ってるわ」


 私が当事者であっても、無くても、それは変わらない。

 母の前では堂々と自分の意見を言えない。押し殺して、母に合わせてしまう。だけど——私を信じてくれる彼女の前では誠実でありたい。


「……私ね、女だからってスカートを穿くことを強制されないから、この学校を選んだの。スカートが嫌いなわけじゃないけど、ズボンを穿いてもいいっていう選択肢があるところに魅力を感じて……」


「うん。分かるよ。私も同じ理由でここを選んだ」


「うん。けど……結局、ズボンは買ってないの。母に、要らないでしょって言われて、買ってもらえなかった。『女の子なのにそんなの穿いてたらLGBTの人だと思われちゃう』って」


「……すげぇ偏見だな」


「……百合香は私を見て、最初からそうだと思った?」


「いいえ。ただ、私と同じようにズボンを穿きたい人だと思った」


「……そっか」


「あなたがそうであると知っても、全員がそうであるとは思わないわ。母の考えが偏見であることは分かってる」


「うん。ありがとう。君はそんな気がした」


「何? 鈴木くんってやっぱLGBTなの?」


 たまたま近くを通りかかったクラスメイトの山田くんが彼女を茶化すように、周りに聞こえるような大きめの声で言う。一瞬にして教室が静まりかえり、ほぼ全員が彼女に注目する。


「確かにそうだけど、だからズボン穿いてるわけじゃないよ。スカートが苦手なだけ」


 サラッと答える彼女。教室がさらにざわつき、茶化しに来た彼の顔が引きつる。冗談のつもりだったのだろう。


「は、はぁ!? そうだけどって……」


「クラスに一人の割合で居るんだから、私がそうであっても何もおかしくないでしょう? まぁ、細かいこと言うとLGBTじゃないんだけど……異性愛者じゃないことは確かだよ。恋愛対象は女性なんだ」


「は……はは……マジか……。……え? 体育の着替えどうすんの? 男子の方来られてもちょっと困るんだけど」


「トイレで着替えるよ。いつもそうしてる」


「……」


「ふふ。なぁに? ショック受けたような顔して。あ、まさか私に気があった? ごめんねー男性は恋愛対象外なんだ」


 肘をつき、揶揄うように笑う海菜。海菜に向けられていたクラスメイトの視線が男子生徒の方に集まる。


「バッ…! 誰がお前みたいな男女おとこおんな好きになるか!」


「あははっ!それ、よく言われるよ。でも、そう言われるの嫌じゃないよ。ありがとね」


「残念だったね山田くん」と、どこからか野次が飛ぶ。調子を狂わされた彼は悔しそうに席に戻っていった。


「ね? 私がセクシャルマイノリティであることなんて大したことじゃないでしょ?」


 海菜が私に笑いかける。実際、冷ややかな目で見られているのは海菜ではなく、茶化してきた彼の方だった。


「山田、鈴木くんに何か言うことないわけ?」


「謝りなよ」


 責めるような声に耐えきれなくなったのか立ち上がり、海菜の前まで来て頭を下げた。


「……悪かった」


「うん。良いよ。でも、もう二度とああいう揶揄い方しちゃ駄目だよ。私はオープンにしてるけど、そうじゃない人も居るから。笑い者にされて、ストレスで自殺しちゃう人も少なくはない。言葉や態度は時に人を殺すこともあるから、使い方には気をつけてね」


 優しく諭すようににこやかに話す彼女だが、静かで穏やかな声色の中に含まれる僅かな緊張感が、教室の空気を張り詰めさせる。教室に入ってきた担任の三崎みさき先生が異様な空気を察して立ち止まってしまうほど。


「な、なんだ? このお葬式ムードは…」


「三崎先生おはようございまーす」


 空気を読まない海菜の明るい挨拶とは対照的な、あまり元気のない挨拶がまばらに飛び交う。


「お、おう……おはよう……」


「ちょっと換気しますねー。こんな空気にしちゃったの私なんで。ごめんねー。窓開けまーす」


 窓際の生徒に断りながら窓を開け始める海菜。空気とは対照的な態度を不気味に思っているクラスメイトもいるかもしれないが、私には無理をしている様には見えない。


「……分かりづらいかもしれないけど、あいつはお前のさっきの失礼な態度で傷ついたりしてないよ。無理して明るく振る舞ってるわけでもない。保育園からずっと一緒にいる幼馴染の私が言うんだから間違いない。だから、いつまでもそんなしけた面しなくていい」


 ボーっと突っ立ったままの山田くんに、満ちゃんがそう声をかけることでようやく少しだけ空気が和らいだ。


「おっ。……まこちゃーん! おはようー!」


 換気していた海菜が、地声ではない高めの声で窓の外に向かって叫ぶ。しばらくして『まこちゃんって呼ぶんじゃねぇー!』という藤井先輩の声が微かに聞こえてきた。


「誰? 鈴木くんの彼女?」


「ううん。一つ上の幼馴染。ツンデレヒロインみたいな可愛い男の子だよ」


「……鈴木、今の、安藤さんの声真似か?」


「ふふ。似てました?」


「あぁ、めちゃくちゃ似てる」


 苦笑いする三崎先生。今の海菜らしからぬ声は従姉妹の声真似だったようだ。緊張感が、外から入ってくる爽やかな春の風と入れ替わり、流れて消えていく。

 やはり彼女は不思議な人だ。そして、強い人だ。自分が正しいことに自信を持っているが、母と違って間違いを責めたりはしない。きっと、上に立つにふさわしい人だ。


「じゃあHR始めるぞー」


 今日1日の流れを説明し、そのまま一時間目のLHRの時間に突入する。今日はさっそく学級委員と委員会を決めるようだ。


「学級委員とか、鈴木くんしかいなくね?」


 誰かの声で、一斉に海菜に視線が集まる。


「構わないよ。ね? 百合香?」


「……え? えぇ……って、待って、私も巻き込もうとしてる?」


「え? 私がやるなら君もやるでしょ?」


「どうしてそうなるのよ。そこは満ちゃんじゃないの?」


「満ちゃんは断るの分かりきってるからね。どれだけ説得したって嫌だしか言わないよ。今まで散々断られてきたから。…というわけで百合香、どう? 強制はしないよ。お願いはするけど」


 断ったりしないでしょう? と彼女の笑顔が私に圧をかける。お願いなんかじゃない。もはや脅迫だ。こんな状況で断れるわけがないだろう。見かねた満ちゃんが溜息を吐き、呟く。


「やりたくないならやりたくないってはっきり言った方がいい。特にこいつには。流されてばかりいたら良いように利用されるよ」


 やりたいかやりたくないか。そう問われると、学級委員自体はやりたくはない。クラスをまとめるのは大変そうだから。だけど…海菜と二人で何かをすることに関しては、興味を惹かれてしまう。それは別に、学級委員じゃなくても構わない。なんだって構わない。彼女と一緒に何かできるなら。そんな理由で立候補していいのだろうか。いや、誰もやらないのなら別に良いのでは?だけど——彼女と一緒がいいから学級委員をやるなんて、そんなの、彼女が好きだと認めてしまうようなものではないか。


「……別に私が代わってやってもいいよ」


「えっ? 満ちゃん、どういう風の吹き回し? はっ……まさか百合香に私を取られるって心配してる? 可愛いやつめー」


 へらへら笑いながら揶揄う海菜。そんな彼女にたいして満ちゃんはゴミを見るような冷たい視線を向け、舌打ちをした。空気が凍りつくが、海菜は変わらずへらへらしながら「すまんかった」と静かに謝った。


「鈴木の他に学級委員やりたいって人」


 手をあげるかあげないか悩んでいると、スッと男子の席から静かに手が上がったのが見えた。挙げかけた手を机の下にしまう。


「……あっ……えっと……その前に質問なんですけど、学級委員って、前期だけですよね?」


「あぁ。けど、後期の方が学校行事多いから忙しいぞ」


「……じゃあ……前期だけやってみたいです」


「おぉ。挑戦するのは良いことだ。頑張れよ」


 名乗りを挙げたのは加瀬かせくんという大人しそうな男子。とても前に出たがるタイプには見えない。意外だ。


「なんだよ加瀬くん、鈴木くん狙いか?」


「そんなんじゃないよ。ただ、ちょっと挑戦してみようかなって思っただけ」


「女子の好感度アップ狙ってんのか?」


「違うってば」


「とかなんとか言って本当はー?」


「もー……しつこいなぁ……」


「はいはい。茶化すな茶化すな。他に立候補する人は? 居ないなら鈴木と加瀬で決まりだけど」


 特に誰も手をあげない。私の方をちらちら見るクラスメイトも居たが、首を横に振って意思を示す。私は別に学級委員をやりたいわけではない。ただ…彼女の隣に並びたいだけ。そんな理由なら、やりたい人に譲るの方が良い。

 そのまま誰も手を上げず、学級委員は海菜と加瀬くんに決まった。二人並んで意気込みを述べる。それにしても、隣に人が並ぶと海菜の背の高さ、スタイルの良さがよく目立つ。加瀬くんは海菜に比べて華奢で小柄な可愛い系といった感じの男の子だ。


「なんか対象的だね。あの二人。女子校の王子と男子校の姫って感じ」


 誰かが私と似たような感想を呟いた。聞こえたのか、加瀬くんが苦笑いする。


「とりあえず決めなきゃいけないのは委員会だけど、来週中に決めれば良いから、残りの時間で決められるところまで決めてくれ」


「俺が板書するね」


「……上、届く?」


「……流石に届きますけど」


「ごめんごめん。じゃあまずは……」


 委員会と係決めは来週に持ち越しになり、LHRが終了した。休み時間に入ると、海菜の周りに人が集まってきた。『私がセクシャルマイノリティであることなんて大したことじゃない』と彼女が言っていた通り、みんな普通に彼女と接している。


「ねぇ、鈴木くん彼女居るの?」


「今は居ないよ」


「今はって、前は付き合ってたの!?」


「いやいや、まだ恋人が出来たことはないよ。長い初恋を終えて、やっと前に進めるようになったばかりだから」


「初恋もやっぱ女の子?」


 県外から引っ越してきた転校生のように、質問責めに合う海菜。嫌な顔せずに一つ一つ丁寧に答えていく。

 声をかける隙がない。いや、別に話したいことがあるわけではないのだが。彼女が人に囲まれているのを見ていると、モヤモヤしてしまう。気持ちを紛らわせるために、教室を出る。


 そういえば、この学校には中庭があることを思い出した。階段を降りて向かうと、ベンチに先客がいた。先客が振り返る。思わず隠れてしまった。足音が近づいてくる。ひょこっと顔を覗かせた先客の正体は、やはり星野くんだった。


「なんで隠れるの。小桜さん」


「……ど、どうしてここに……」


「なんだ? 居たら悪いのか?」


「い、いえ……別に……」


「……」


「……」


 他に人はいない。彼と二人きり。はるちゃんの好きな人と考えると、少し気を使ってしまう。あまり二人きりで居て誤解されたくはない。それに——なんとなくだが、彼は私のことをよく思っていない気がする。


「きょ、教室……戻るわね」


 居た堪れなくなり、戻ろうとすると腕を掴まれ止められてしまった。


「待って」


「な、何?」


「そんな怯えないでくれ。別に何かするわけじゃない。ちょっと話がしたい」


「話……?」


「……小桜さん、海菜のことどう思ってる?」


「どうって……」


「……俺はあの子が好きなんだ。恋愛的な意味で」


 そんな気はした。だけど私は彼の恋が絶対に実らないことを知っている。彼女が言っていたから。男性は恋愛対象外だと。きっと、星野くんもそのことを知っているのだろう。


「……間違ってたらごめん。小桜さんも俺と同じなんじゃないか?」


「……同じ?」


「……あの子のこと、好きなんじゃないかなって」


「!」


 星野くんの一言に、心が酷く動揺した。動揺する私の代わりに、もう一人の私がにこやかに答える。


「確かに好きだけど、あなたの好きとは意味が違うわ。だって——」


 "女の子だから"。出掛けた言葉がつっかえる。別に言えば良いじゃないか。私が女性は恋愛対象にならないことは事実なのだから。


「だって? 何?」


「……私は……女の子を恋愛対象として見たことないもの」


「……ふーん。そうか。……俺の思い違いか」


「……えぇ。思い違いよ」


 胸が痛む。想いを否定しないでくれと心臓が泣いている。


「……思い違いよ。"あなた"の」


 心臓に言い聞かせる。ぎゅうっと締め付けて、反骨の意思を示してきた。いつからそんなわがままになったのだろうか。今までは素直に私の——母の言うことを聞いていたくせに。


「……思い違いには見えないんだけどな」


「……勝手に決めつけないで」


「……そうか。恋だと認めるなら、俺は全力でサポートするつもりなんだけど」


「……恋だと決めつけないでって言ったはずよ」


 私がそう言うと、彼は冷たく笑った。向けられた冷たい視線に、心を射抜かれる。本当は彼女のこと、好きなくせに。叶うかもしれない立場にいるくせに。そんな嫉妬の念が真っ直ぐに伝わってくる。


「……別に、あの子を拐ってくれるなら、俺の不毛な恋を終わらせてくれるなら、誰でも良いんだ。君があの子に惚れてそうだから、押し付けようと思ったけど……違うなら別を当たるよ。じゃあね、小桜さん」


 皮肉っぽく笑って、彼は去っていく。嫌味を沢山吐かれたが、不快感は彼ではなく自分自身に向かう。母の言いなりになりたくないと散々言ってるくせに。自分の心に正直に生きたいと言うくせに。彼女達に誠実でありたいと言うくせに。本当はもうどうしようもなく彼女が好きだと、気付いているくせに。

『俺の不毛な恋を終わらせてくれるなら誰でも良い』彼はそう言っていた。誰かが彼女を拐ってしまってもいいのか? と煽っているように聞こえた。いや、実際そうなのだろう。彼は私の気持ちを恋だと確信している。私も本当は——


「ゆーりーかっ!」


「!」


 突然ひょこっと視界に入り込んで来た彼女に、思考を遮られる。驚く私を見て彼女はにっと悪戯っぽく笑った。彼女のその可愛らしい笑顔を見た瞬間、心臓がはしゃぐ。知り合って数日、彼女のことはまだほとんど知らない。信用に値する人物かも、分からない。それなのに、笑顔を向けられただけで、心をかき乱されてしまう。


「……海菜」


「うん? なぁに?」


 星野くんの言う通りだ。私は、彼女が好き。どうしようもないくらい。知り合ったばかりなのにとか、そんな理屈は通用しないくらい。苦しいくらいに、泣きたくなるくらいに彼女が好き。この気持ちを恋でないと言い張るのは無理がある。


「……海菜は……ずっと女の子が好きなの?」


「うん。そうだよ」


「……そう。……私は男の子が好き。……なはずだったの」


「……気になる女の子が居るんだ?」


 嬉しそうに彼女は私の近くのベンチに座った。座りなよと自分の隣を叩く。引き寄せられるように、腰を下ろす。


「……分からないの。これが、大好きだった元彼に対する感情と同じなのか。私はずっと、当たり前のように異性を好きになるって思ってたから……そうじゃなきゃ駄目だって、思ってたから、今すごく、混乱してるの」


 それはきっと一過性の感情だと、否定してほしい。母の望まない私になろうとしている私を止めてほしい。だけど彼女はそうは言わないことはわかり切っている。この想いを否定して欲しいなら別の人に相談すべきだ。例えば、母とか。母ならきっと、芽生え始めているこの感情を、根っこから焼き切ってくれる。そうしないのは誰かに——彼女にこの感情を認めてほしいからだ。それはきっと、恋だよと。


「……LGBTのBの意味は分かる?」


「……バイセクシャル。……女性も男性も好きになれる人のこと」


「そう。そういう人も居るんだ。だから、初めて好きになった人が男の人だったからって、今好きな人への想いを否定する必要はないんだよ。初めて好きになった人が男の人だっただけかもしれないし、男の人が好きだけど、その人は例外ってこともある」


「……例外?」


「私の知り合いに、同性愛者だったけど結婚して子供を産んでる人がいるんだ。その人は、男性には興味ないけど旦那さんは例外なんだって。その人も今の君みたいに悩んだみたいだよ。今までずっと女性にしか惹かれなかったのに、今まで好きになった女の子への感情と彼への感情は本当に同じなのか、優しくされて勘違いされているだけじゃないか、否定されるのが怖くて、彼を利用して自分を誤魔化そうとしてるんじゃないかって」


「……自分を……誤魔化す……」


「彼女も悩みに悩んで結論を出した。最終的に自分の感情に答えを出すのは君だよ。私に出来るのは、一緒に悩んであげることだけ」


「……海菜も悩んだの?」


「悩んだよ。すっごく悩んだ。悩んで悩んで勇気を出して、さっき話した知り合いに相談したら、僕もそうだよーって打ち明けてくれたの。だけど、同じようにいつか異性を好きになるよとは言わなかった。異性に恋をすることが正解じゃないし、君の悩みは大した悩みじゃないんだよって教えてくれたんだ」


「良い人ね」


「ふふ。でしょ。でも……正直、心が男なんだろとか、女が好きなんだろって、馬鹿にするように言われると辛いよ。心は男じゃないけど、女の人が好きだよって認めた時の『冗談だろ』って空気も辛い。でもね……違うよって、自分を否定する方が辛い。自分だけでなく、相談に乗ってくれた彼女や、昔の私みたいに誰にも打ち明けられずに悩んでることも否定してしまうから。だから私は堂々と、何が悪いんだって笑いとばすの。自分に、否定されるのが怖くて隠れているみんなに、何も間違いじゃないよと言い聞かせるために」


 そう言って笑う彼女は、残酷なまでに、美しく見えた。この人には人を惹きつける魔性の魅力がある。彼女の魅力に落ちてしまう人はきっと、この先沢山現れる。

『俺の不毛な恋を終わらせてくれるなら誰でも良い』星野くんの言葉が反響する。いつまでもこのまま認めずにいたら後悔する。母の言いなりにならないと決めたのなら、この想いを認めるべきだ。


『私がセクシャルマイノリティであることなんて大したことじゃないでしょう?』


 そうだ。彼女の言う通りだ。セクシャルマイノリティであることは、大したことじゃない。私がそうでも、大したことじゃない。


「……ありがとう。少し……すっきりした」


「ふふ。元気になって良かった。さ、教室に戻ろう」


「……えぇ」


 私は海菜が好き。それはもう、認める。認めざるを得ない。だけど、本人に告げるのはもう少し先延ばしにしたい。急がないと誰かに取られてしまうのは分かっている。分かっているけど——彼女とはまだ、知り合ったばかりだ。それにきっと、仮にこの恋が実っても、私はまた元カレと同じように傷つけてしまう。優しい彼女を傷つけたくない。だから、伝える前にまずは母とちゃんと向き合わなければ。

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