『死配者』

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第1話

一人目 『死を受ける男』






 とうとう来てしまった。

 塚本浩二は、歳を重ねるごとに痛むようになってきた腰に手を当て、自分の目の前にある建物を見据えた。そして、躊躇いとも諦めともつかない溜息をゆっくりと吐きながら、冒頭のように思ったのだ。

 目の前にあるのは、白い直方体のシンプルな建物。一階部分しかなく、大きいとも小さいとも言えない大きさのそれは、一見すると白いのだが、雨風や土埃で汚れているのか、よくよく見ると灰色や黒色といった汚れで薄くくすんでいた。外装の掃除はあまりしていないのだろうか。

 塚本がこの場所に来たのは、自分の意思だ。自分の意思で、自分の足を動かして、自分自身で決意をして、この場所に来たはずだった。塚本にとっては、清水の舞台から飛び降りるほどの、一世一代の決意だったと言えるだろう。しかし、それほどの決意をしても、実際に建物を目の前にすると躊躇いが生まれてしまった。先程まで堂々と動いていたはずの足は、地面にがっちりと縫い付けられ、その上から接着剤で塗り固められたのかと思えるほどに、上手く動かず進まない。

 当たり前だ、と塚本は自分自身に言い訳をするように内心でぼやく。

 塚本はそのまま、建物のエントランスらしき入り口の真横の壁に取り付けられた木製の看板を、忌々しげに睨みつけた。睨みつけられた看板は、塚本のそんな視線など気にもしていないようで、相も変わらずいつも通りに、その身体に書かれた大きな墨文字をこれでもかと言うほどに主張していた。


『K県K市南区K町役場住民課 終生係』


 何てことない、簡素な木の看板だ。大きな木の板に墨のようなもので文字が書かれているだけの、昔ながらの簡素な木の看板。建物自体は(薄汚れているものの)比較的綺麗だというのに、そこだけは過去にタイムスリップをしているようにも思え、全体として、建物の雰囲気とはまるで合っていないように見えてしまっている。けれども、そんな中でも埋もれずに自己主張をしている看板のことが、今の塚本にはやけに憎々しいものに思えてしまった。

 ……帰ってしまおうか? ここで、今来た道をまっすぐと引き返したとしても、誰も何も言わないだろう。いや、むしろ自分の気持ちに同調する人間の方が圧倒的に多いはずだ。

 塚本はそう自分の行動を正当化するかのように思いながら、目の前の建物に対して背を向けようとすると、

「おや……ご利用の方ですか?」

 ちょうど建物の入り口から出てきた男と目を合わせてしまい、挙句、声を掛けられてしまった。塚本はその声に対して、反射的に身体の動きを止めてしまう。

 塚本に声を掛けてきた男は、もう七月だというのにスーツのジャケットもきっちりと着こなしており、見ているこちらが暑くなってくるような格好をしていた。真っ黒なスーツに真っ白なシャツ、真っ黒なネクタイ。黒と白しかない鯨幕のようなその姿は、まるで喪服だ。いや、本当に喪服なのだろう。そんなことを考えながら、塚本は声を掛けてきた男をまじまじと観察した。男の手には箒と塵取りがあり、この建物の周囲を掃除するために外に出てきたのだろうということは、簡単に推測が出来た。

 男は、じろじろと舐めるように己を見てくる塚本のそんな態度に気を悪くしたようでもなく、むしろ、顔ににこやかな笑みを貼り付けながら塚本に近づき、再度声を掛けていた。

「もしかして、年金などのご相談でしょうか?」

「えっ、いや……」

「それでしたら、住民課の別の係が担当ですので、この道を真っ直ぐ行かれたところにある町役場本館の受付にどうぞ。こちらは終生係のみしかない分館のような場所ですので、今後お間違いの無いようお気をつけください」

 男は流れるように言葉を紡いだ。その顔には先程と全く変わらない笑みが貼り付けられているが……口から紡がれた言葉には、塚本のことを拒むかのような冷たさが含まれているように思えた。その物言いに、塚本はカチンと頭に来てしまった。男の言葉が、目の前の建物の雰囲気に飲まれて及び腰になってしまった自分のことを嘲笑っているようなものに思えてしまったからだ。だから、塚本はその挑発に乗るかのように、黒スーツの男と正面から向かい合って、言葉を返した。

「いえ、間違いではありません。私は、ここに用があって来たのです」

 塚本がどうだとばかりに言い返すと、男はきょとんとした表情になり、驚いているのか呆けているのか、目を丸くしていた。しかし、その次の瞬間、男は無邪気な子供のように笑みを深めた。塚本は男のそんな笑みを見ながら、先程までの笑みは作り物だったのだと知った。それほどまでに、今の男の笑みは自然で、楽しそうで、心の底から嬉しそうだと思えたのだ。急変した男の表情に、今度は塚本の方が若干の戸惑いを感じていると、男はやや興奮しているのか声音さえも変え、塚本を建物の中に誘うように身体を開いた。

「これはこれは、失礼致しました。当係にご用でしたか」

「あっ、いや……まだ利用すると決めたわけではなく……」

「構いませんよ。そう簡単に道端で決められるようなことではありませんので、一先ずは是非、中でお話を。町民の方が当係に興味を抱いてくださったということだけでも、我々にとっては非常にありがたいことなのです」

 さあさ、こちらへどうぞ。

 男は道案内をするように左手をゆったりと建物に向け、塚本に歩みを促した。実に嬉しそうで楽しそうな男の様子を見ると、たった今建物に背を向けて帰ろうとしていたなどと、塚本は言うに言えなかった。そして、男の言葉に押されるがまま、渋々と歩みを進めてしまう。不思議と、つい数分前まではビクともしなかったはずの足はすんなりと動き出していた。

 話を聞くだけ聞いて、そのまま帰ろう。

 塚本は目の前で嬉しそうにしている男に対して、ほんの少しの申し訳無さを覚えながら、そのように考えていた。

「ああ、そうだ。申し遅れました」

 塚本を先導していた男は、たった今思い出したと言わんばかりに演技がかった言葉を落とす。男は歩きながら、首だけを塚本の方に向け、目を細めつつ塚本を視線で絡めた。


「住民課終生係の鯨場と申します。あなたの担当をさせていただくことになると思いますので、よろしくお願い致します」


 男……鯨場は名乗り終えると、また前を向いて歩みを進めた。

 変わった男だ。

 塚本は、目の前でスキップを始めそうなぐらいに浮かれている男からそんな印象を受けつつ、白色とも灰色とも言えない無機質な建物の中に、とうとう足を踏み入れた。その足取りからもわかるのだが、いつの間にか、塚本の中にあった建物に対する怯えは消えていた。しかし、塚本自身がその変化に気づくことは全くなかった。



 塚本が足を踏み入れた建物の中は、至って普通の町役場のような場所だった。『ような』も何も、ここは町役場にある係の一つなのだから、内装が町役場のようなのは当然のことだとも言えるだろう。

 入り口の自動ドアをくぐると、蛍光灯で照らされた室内が広がっていた。床はリノリウムなのか、蛍光灯の明かりを適度に反射している。入口から向かって正面には、受付のカウンターと、受付の番号札を作り出す小さな機械が置かれていた。その機械の左側には、緑色の三人掛けのベンチが三台。誰も座っていない。そのベンチの正面にはテレビが置かれており、ニュース番組が流されていた。ベンチがある側の反対側……先程の受付の右側には、受付と繋がった同じカウンターに、郵便局や銀行の窓口のような衝立が立てられたスペースがあり、個別に相談が出来るようになっているようである。その相談スペースは三つあった。そこにも誰もいない。その相談スペースのような場所の更に奥には銀色のドアノブがついた扉があり、何処に繋がっているのかが分からない。全体をパッと見たところ、階段のようなものもないので、外装どおり一階部分しかない建物なのだろう。

 右奥にある扉は職員が利用者のスペースと職員の作業スペースであるカウンター内を行き来するための扉なのだろうか、と塚本がキョロキョロと辺りを見渡しながら考えていると、鯨場は右手にある相談スペースへ塚本を誘導した。塚本は言われた通りに、相談スペースの一番奥の椅子に座った。気になっている扉の真横のスペースだ。鯨場は塚本の背後を通り、そのまま塚本が気になっていた扉の中に入っていくと、少ししてから職員の作業スペースの方に現れた。どうやら塚本の予想通り、真横の扉は職員の移動のためのものらしい。関係者以外立入禁止、というものなのだろう。

 塚本の前に戻ってきた鯨場の手には、先程まで持っていた箒はなく、その代わりにいくつかの書類を入れたクリアファイルがあった。鯨場は、そのままカウンター越しに塚本の正面に座る。

「お待たせしてしまい申し訳ありません。建物の構造上、何故か職員の移動手段がその扉だけなのですよ」

「い、いえ……」

「改めまして、担当の鯨場です。本日はよろしくお願い致します」

 鯨場は場に萎縮している塚本に笑いかけながら、名刺を一枚カウンターに置き、それをそのまま滑らせるように塚本の前に差し出した。マナーとしてその渡し方は良いのかと思いながら、塚本はその名刺を受け取る。名刺は至ってシンプルで、小さな四角い紙には『K県K市南区K町役場住民課終生係 鯨場優悟』と書かれていた。

「くじらば、さん」

「はい、鯨場です」

 名前を呼ばれた鯨場はニッコリとした笑みを塚本に返した。鯨場は手に持っていたクリアファイルの中から一枚の書類を取り出し、それを塚本に向けた状態でカウンターの上に置いた。書類を塚本の前に置いた後、鯨場は衝立の横に置かれているペン立てから黒のボールペンを一本取り出し、それも塚本の方に持ち手を向けて置いた。

 書類は太線と細線で囲まれた部分がいくつかあり、氏名や住所などを書く用紙のようだった。太枠内の必要事項を記入せよ、というやつだろう。

「こちら、利用者の方全員に書いていただいております。太枠内の必要事項の記入をお願い致します」

「えっ、あの、まだ利用すると決めたわけでは、」

「ああ、それはもちろん分かっております。こちらは来庁者の記録に用いるだけですので、そう構えずに」

「な、なるほど」

 何も今すぐ取って食うわけじゃない、と言いたげに鯨場は軽く笑った。それはまるで、周囲から見た自分の怖さを十分に理解しているかのような笑い方だった。

 塚本は変に構えてしまった自分に対して僅かな羞恥を感じつつ、目の前に置かれたボールペンを手に取る。そして、鯨場に指示をされた通り、太枠内に必要事項を書き込んでいった。名前や住所等を書き込みながら、塚本は建物の中に入った時から気になっていることを鯨場に訊いた。

「職員は鯨場さんお一人ですか?」

「いいえ、まさか。他の職員は業務の関係で休憩を取り損ねてしまったため、ちょうど今お昼休憩をいただいているのです。当係はご覧の通り利用される者が非常に少ないので、短時間だけなら私一人でも業務を回せるのですよ」

 鯨場は笑みを崩さず言葉を返した。先程から建物の中が閑散としていると思っていたが、どうやら塚本が訪れた時間の問題だったらしい。午後の業務開始時間直後に来てしまったからだろう。塚本は人気が無くひっそりとした建物の一角で黙々とペンを走らせ、必要事項を全て埋め終えた。所々に黒い文字が書かれた紙を鯨場に向けて返す。

 鯨場は返された紙を手に持ちながら、内容の確認を始めた。

「ありがとうございます。お名前は、塚本浩二様、ですね?」

「はい」

「六十二歳……定年は迎えていらっしゃいますが、再雇用などは?」

「いえ、自営業のようなものですので定年などは……」

「ああ、なるほど」

 鯨場は塚本が書いたものを口に出し、一つ一つ確認をしていく。名前、住所、家族構成などを一つずつ拾い上げて、ゆっくりと確認をする。しんとした建物の中とはいえ、鯨場の声はよく通る声だと塚本は思った。決して大きい声を出しているわけではないのだが、そういう声質なのだろう。

 一通りの確認を終えると、鯨場は手にしていた紙を再びカウンターに置き、カウンターの上で手を組みながら塚本と正面から向き合った。

「塚本様。まずは当係が担当している制度についてのご説明をこれからさせていただきたいのですが、その前に『制度』について……塚本様は、何を、何処まで理解していらっしゃいますか?」

 鯨場は神妙な顔で塚本に訊ねた。

 何を、何処まで?

 塚本は、鯨場が一体何を訊きたいのか、何を意図しているのかが分からないまま、とりあえず訊かれたことを正直にそのまま答えた。

「その、恥ずかしながら、制度が可決された時にニュース番組で取り上げられた程度のことしか……」

「では、どのような制度か、といった、ざっとした概要ぐらいですかね?」

「ええ、そうだと思います」

 鯨場の言葉に塚本は頷く。実際に、塚本はこの制度について、詳しくは知らなかった。ざっとした、本当に外側の概要程度。細かいことは全く知らないと言っても過言ではなかった。鯨場は手元のクリアファイルの中から、カラーで印刷された冊子を取り出し、それを塚本に差し出しながら言う。

「それでは、まずは本制度……『円満終生制度』について、詳しく説明をさせていただきますね。質問や疑問などがございましたら、その都度おっしゃっていただければお答え致します。どんな些細なことでも、気になることがあればすぐに口にしていただけると助かります」

 塚本は鯨場に差し出された冊子を受け取りながら、その表紙を眺めた。A4サイズの冊子の表紙には、大きく丸い縁取りをされたポップな字体で『円満終生制度のしおり』と書かれていた。その文字列の下には、老若男女問わず様々な人間が笑い合いながら手を取り合っているイラストが載せられている。実際の内容からは考えられないほどの明るさだ、と塚本は若干引いた気持ちでそれを見た。塚本がそのように思ってしまうのも全く不思議ではないだろう。何故なら。


 『円満終生制度』は、日本国民の間では『安楽死制度』と呼ばれているからだ。



 『円満終生制度』。

 この制度が制定されたのは、六十二年分ある塚本の記憶の中では比較的最近のことだった。おおよそだが、十年ほど前のことだっただろうか。

 六十五歳以上の老年人口が増加し、全人口の六十%以上が高齢者となった超高齢社会の日本政府が制定した比較的新しい制度の一つだ。何十年も前から少子高齢化が問題となっていた日本の行き着く先だったと言えるだろう。問題として取り上げるばかりで何も打開策を生み出してこなかった、日和見の当然の報いとも言えるかもしれない。

 日本は時間の流れと共に、以前よりも深刻になってしまった老老介護や農業の後継者問題など、典型的な諸問題を多く抱えた。しかし、その中でも群を抜いた問題にまで急速に発展したのは、日本全国で多発した高齢者の孤独死だった。人で溢れた都心では(孤独死後の異臭等の異変に気づきやすいので)発見が比較的早いが、過疎化した地方では、孤独死が社会問題という言葉では収まりきれないほどの問題になっていた。

 老人が孤独死を迎えていないかと、全人口の六割以上を占める高齢者の家を、全人口の四割未満(労働人口はもっと少ないだろう)の若者が定期的に一軒一軒訪ねることなど当然出来ず、だが、出来なければ孤独死を迎えた遺体がどんどん増えていく。

 遺体が増えれば、それが事件か自然死かの検分から始まり、警察などの仕事も増える。孤独死問題が世間で話題となった時に、孤独死を装った強盗殺人事件が多発したという不穏な背景もあり、徹底した検分がほぼ義務化されてしまったからだ。更に、警察などの組織には当然だが通常の業務もあるので、孤独死に関する業務にばかりに人員を割くわけにもいかない。結果として、どう考えても人の手が足りないということが、これ以上ないほどに明瞭な事実として露呈したのだ。

 孤独死に対することをつらつらと書いているが、もちろん、社会は遺体の相手だけをすればいいというわけではなく、生きている人間の相手が最優先事項である。その結果、超高齢社会の日本では、深刻を極めた介護問題も浮上した。介護職は超高齢社会である日本では必要不可欠な職ではあるのだが、労働条件上、誰も就職したがらない職業の一つになってしまっているのが現実である。

 重労働。低賃金。

 しかも、介護相手が認知症を患っていたりする場合には、身の危険さえ浮上する。体力的にも精神的にも、誰も介護をしたがらないのも当然だと言えるだろう。実の親の介護でさえも拒む人間がいる時代なのだから。

 老人を支えようにも、それを支える若者がいない。質だけではなく、量が圧倒的に足りていない。かつては国を支えていただろう人々を支えきれなくなった国が国民に問い掛けた選択は……実に非情なものだった。

 『円満終生制度』を採択するか否か。

 『円満終生制度』とは、国から指定された病や障害を患っていたり、国から指定された年齢に達していたり、国に一定の金額を納めた者に限り利用することが出来るという、今までにない新しい制度のことである。

 つまり、制度を利用すると決め、国から許可が下りた者は死ぬことが出来る。

 死ぬための制度。それが『円満終生制度』だった。

 国から制度の利用許可が下りた者は、薬剤を投与され、安らかに眠る。俗に言うところの『安楽死』をさせる。抱えきれなくなった国民を切り捨てようというのが、日本政府が、この国で生きる人間に対して提案した制度だった。

 国のために自分の意思で死んでくれというのが、平和を祈り続けた国が国民に対して出した結論だったのだ。

 この制度が公的に提案された時は、当然とも言うべきだろうが、様々な物議を醸した。制度の内容が内容だっただけに、仕方がないことだったのかもしれない。けれども、いざ蓋を開けてみれば……あっさりと、採択された。

 国民が、国民を殺すことを受け入れた瞬間だった。

 無論、制度自体は強制・強要されるものではない。あくまでも権利であり、利用するかしないかは自身の意思で選ぶことができる。制度を利用するものは安楽死し、制度を利用しない者は今までと変わることなく、持ちうる寿命の終わりまでを生きることが出来る。しかし、それでも、長く生きることが疎まれるという風潮は残ったままだった。制度が採択された時に、数として明らかになってしまった。

 長く生きることは、誰にも望まれていない。

 世界でも有数の長寿大国として喜ばれていた時代はもう……とうの昔に、終わりを迎えていたのだ。



「……簡単に述べると、以上です」

「は、はぁ」

「まとめさせていただきますと、本制度を利用するには条件がございます。一つ、国から指定された病・障害を患っていらっしゃる方。二つ、国から指定された年齢に達していらっしゃる方。三つ、国に五千万円以上をお納めいただいた方。他にも様々ございますが、基本的には、この三つのいずれかの条件を満たした方のみが利用可能です。ここまでは大丈夫ですか?」

「は、はい」

 塚本は鯨場から渡された冊子を開きながら、ゆっくりと説明を受けていた。冊子の中身は、高齢の利用者が圧倒的に多いからか、全体的に文字が大きく書かれていた。塚本は自分は歳の割に若いと自負しているので、この冊子の配慮を少し煩わしく感じていたが、大人しく説明を受けていた。

 鯨場は塚本の返事を聞くと、更に話を進める。

「塚本様はこのようにコミュニケーションも問題なく出来ていらっしゃいますので大丈夫かとは思いますが、病状などにより意思の疎通が難しくなった場合には、代理の方に制度を利用するか否かを選択していただきます。当方といたしましては、ご自分の命という非常に大切なことですので、意識がハッキリとしているうちに、弁護士などの立ち会いのもとで委任状を作成していただくのをお勧め致します」

 鯨場は塚本と共に冊子を見ながら、自分が口にした注意事項が書かれている箇所を指して示した。塚本はその指先を目で追う。鯨場が言った内容がそっくりそのまま記されていた。

 塚本がその注意事項を見たと確認した鯨場は、冊子から指を離し、ニッコリと笑みを浮かべながら塚本の顔と向き合った。

「塚本様は、ご年齢は条件を満たしておりませんが、どういったご事情で当制度をご利用でしょうか?」

「えっ?」

「当制度は命に関わることですので、しっかりとした吟味が必要なのです。プライベートなことですので非常に訊きづらいのですが、そういう規則ですのでご理解とご協力をお願い致します」

 鯨場は申し訳なさそうに眉をハの字にさせながら塚本に言う。鯨場が言うには、塚本の話を聞いてメモを取り、そのメモを元に作成した申請書を国に送って、国の機関が理由等を審査し、審査結果を渡され、その渡された結果を鯨場が後日塚本に伝えるという流れになるらしい。確かに、地方の町役場の職員の独断で左右されては困る問題ではあるので、至って自然なことだと言えるだろう。

 塚本は鯨場の言葉に納得をしながらも……何故ここに来たのか、理由を話せずにいた。現時点で鯨場のことをまだ信用していないというわけではなかった。制度について説明をする姿は実に誠実で、職員としては信用するに値するものだろうと思っていた。

 しかし……塚本は、それでも話せなかった。

 塚本が目を泳がせたり、口を中途半端に開閉させたりしていると、鯨場は塚本の内心を察したのだろう。塚本の目の前に広げていた冊子や書類を、一つに纏めて手に取り、端を揃えるように、カウンター机で叩いてそれを整えた。

「人生で最も大きな決め事だと思いますので、ごゆっくりお考えください」

「あっ、いや、」

「焦らずに。生き急いでも、行き着く先は変わりませんよ」

 鯨場は塚本に変わらず笑みを向けていたが、先程までの笑みとはどうにも質が違うもののように思えた。まるで、塚本が初めて鯨場と対峙した数十分前のような、そんな作り物の笑みのようだった。鯨場との間に見えない壁が急にそびえ立ち、距離が出来たようだと塚本は感じた。

 何か、気に障るようなことをしただろうか。

 鯨場の変わりように対して、塚本は自然とそう考えた。

 塚本は鯨場の態度が急変した原因を考えたが、終生係を、『円満終生制度』を前にして考えを改める人間など掃いて捨てるほどいるだろう。

 役人だというのに、何て態度なんだ。こういうこともあると対応マニュアルには書いていなかったのだろうか。

 塚本は自分を正当化するかのように、そのように考え始めた。

 これ以上ここで考えていても、何も変わらないだろう。それなら、鯨場に言われた通り、生き急ぐことなくゆっくりと考えればいいのだ。

「わかりました。ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ、わざわざ当係にお越し下さり、ありがとうございました。お帰りはお越しいただいた扉からどうぞ」

 鯨場はその場で立ち上がり、手を出入り口に向けながらカウンター越しに塚本に声を掛けると、ちょうど、建物の中に一人の女性が入ってきた。

 フォーマルスタイルのグレーのジャケットが印象的な、非常に若い女性だった。長い髪を高い位置で一つに括り、結び目には白いシュシュをつけている。清潔感が感じられる服装だった。

 女性は建物に入ってくるなり、塚本の方に真っ直ぐと視線を寄越した。そして、ハッとしたような表情を浮かべてから、パタパタと音を立てて小走りで塚本の前に駆け寄ってくる。女性が履いているパンプスの、低いヒールが床を叩く音が建物内に硬く反響した。

「りっ、利用者の方ですか? 席を外しており、申し訳ありません! ただいま戻りましたのですぐに、」

「水島さん。塚本様は今からお帰りです。お見送りをお願いします。私は書類をまとめなければなりませんので」 

「は……? あっ、は、はい!」

 水島と呼ばれた女性は、鯨場の言葉に一瞬だけ呆けるも、すぐに我に返ったように返事をして動いた。塚本の傍に付き、扉の方に誘導するように、腕を広げて行先を示す。塚本は水島が誘導する方に足を向けた。鯨場は水島に告げた通り書類をまとめるようで、そのままカウンターの奥の方に消えてしまった。

 そんな鯨場の姿を、塚本が肩越しに視界の端に入れていると、困ったように笑う声を横から掛けられた。

「すみません……鯨場さん、何か失礼なことをされましたか?」

「え?」

 塚本が声の方に振り向きながら聞き返すように言うと、そこには眉をハの字にした水島がいた。そして、水島は盗み見るかのように、チラリとカウンターに目を向けてから、少しだけ声を潜めつつ続きを口にする。若い女性にしてはやけに枯れている声だった。

「鯨場さん、ちょっと変わっている人なので。あっ、仕事に支障はありませんよ! そこはご安心ください! むしろ仕事はとても出来る人です! ただ、言葉がストレート過ぎて、人によってはそれをキツく感じることがあるので……。もちろん、全然悪い人ではないんです。本人に悪気は全く無いですし。鯨場さんは自分にとって興味のあることにしか心を動かせないと言いますか、何と言いますか……」

 水島は言葉を繋げながら、わたわたと両手を動かして、自分の言葉が悪い意味のものではないと主張をする。塚本からしてみれば結構な物言いに思えたものだったが、水島が鯨場を疎んでいる様子は無さそうである。水島も水島で、自分の発言に全く悪気はないのだろう。

「いえ、大丈夫ですよ」

 塚本が見たところ、水島は人が良さそうに見えた。第一印象で決めつけるのは良くないことなのだろうが、その水島が鯨場のことを決して悪い人ではないと言っているのだから、彼女の言う通り、『悪い人』ではないのだろう。案外、こういう直感めいたものがよく当たるということを、塚本は経験上わかっていたので、鯨場のことを『悪い人』ではないと思うことにした。

 建物の出入口の自動ドアから外に出て、敷地内のギリギリまで水島に送られる。すると、水島は緊張したような面持ちで、建物に背を向けて帰路に着こうとしていた塚本に対し、硬い声を掛けた。

「あ、あのっ……制度、ご利用をご検討中でしょうか?」

「……? ええ、そうですね。一先ず、帰ってからまた考えようかと」

 塚本が答えると、水島は切羽詰まったような表情で、辿々しく言葉を紡いだ。

きっと、頭の中ではまだ上手くまとまっておらず、思いついた言葉をただただ並べているだけなのだろう。

 そのようなことを思わせるほどに、それは拙い口振りだった。けれども、水島は真っ直ぐと、塚本の目と向き合っていた。真っ直ぐ過ぎる視線が、塚本には沁みるように眩しく感じられた。

「出過ぎた真似とは承知しておりますが、命の、自分の命の選択なので、その、悔いのないように、自棄になることもないように、お願いします。命は不可逆です。一度失えば、二度と、戻ってきません。だから、えっと……世の中には、やらない後悔よりもやった後悔が良いとか言う人もいますけど、死んだ後には後悔も何もできないので、その……あぁ、もう私、何言ってんだろう……」

 水島は自身の右手でグシャグシャと頭を掻き回し始めた。綺麗にセットされていただろう髪が乱れ、高い位置で一つに結ばれていた髪の束は緩んで位置が少し下りてしまっていた。塚本は水島が何を言いたいのか、言葉は拙くとも何となしに汲み取ることが出来た。

「ありがとうございます。えっと……水島さん?」

「あっ、はい! 水島です、水島かおり」

「元気があって何よりだ。新人さんかい? こういう仕事場だと色々と大変そうだけれども、頑張って。また来るよ」

「お、お待ちしております!」

 水島は塚本に対して、腰を九十度に折って頭を下げた。愚直に一途に懸命なその姿勢に、塚本は若さを感じた。それと同時に、そう感じる自分の老いも実感してしまった。歳は取りたくないと思っていたが、若いエネルギーを感じてそれを楽しめるようになったのは悪くないとも思えた。

 塚本は水島に軽く頭を下げてから、自宅への帰路を辿る。

 もう少し、制度の利用について深く考えなくては。

 塚本は死にたいわけではない。死にたいわけでは決してないのだが……死ななければならない、確かな理由があるのだ。

 変えられない結果は既に出ており、その過程を一体どうするのか。塚本は深く息を吐きながら、正解が存在しない答えについて、頭の中で悶々と考えていた。



「鯨場さん、『また』やっちゃったんじゃないんですか?」

 塚本を見送った後、終生係の建物内に戻った水島は、カウンター越しに鯨場に抗議した。鯨場は水島の方を見ること無く、カウンター奥にある自分のデスクに着いて、塚本に関する資料をまとめているようだった。鯨場のデスクは非常に整っている……というよりも、物が非常に少ない。デスクの上にあるのはパソコンのディスプレイとキーボードぐらいで、他には何も置かれていなかった。鯨場は色がついたクリアファイルに資料を入れて仕分けながら、水島の声に答える。

「何をです?」

「何をって……もう、鯨場さん、もうちょっと他人に興味を持ってくださいよ。よく公務員になろうと思いましたね? 言ってみれば接客業ですよ、この仕事」

「私は国から与えられた職務を全うしているだけですよ。公務員ですので」

 鯨場は手を止めること無く、淡々と業務に勤しみながら言葉を口にした。水島はそんな鯨場の態度に溜め息を吐いた。先程自分で掻き乱した髪を正すために、結んでいた髪を解きながら、建物の入り口側から見て右手にあるカウンター横の扉を開け、水島も鯨場と同じカウンター内に入った。

 水島は、二つずつ向かい合うように配置された四つの机のうち、鯨場のデスクから見て、右前の対角にあるデスクに座る。終生係の職員の中では水島が一番若いので、下手と呼ばれる側に水島は座っている。鯨場も水島もくだらない風習だと思っているが、わざわざ席の移動をするのも面倒で、特に不満があるわけでもなかった(むしろ水島は扉の近くで移動が楽だと思っている)ので、その場に居座り続けていた。ちなみに、係長のデスクを除き、この四つのデスクのうちでは鯨場の席が一番上手側にある。鯨場は終生係の所属歴が最も長い職員なので、当然と言えば当然の配置だった。

 水島は自分の席に腰を下ろした後も、鯨場との会話を続けた。

「鯨場さんってちゃんと話せば分かる人なのに、相手を拒絶するような態度を出すから勘違いされちゃうんですよ」

「拒絶をしている覚えはないのですけどね。この町の住民でしたら、どなたでも当係の利用は可能ですから。利用率を上げなければ、国民からタダ飯食らいの税金泥棒と揶揄されてしまいますし」

「そういうことじゃなくて……って、ほら! そういう態度ですよ!」

「そういう、とはどういう態度でしょう。まあ何でもいいですけれど、水島さん。利用者の方がいらっしゃらないとはいえ、業務中ですよ。私語を慎めとまでは言いませんが、手を動かすことを止めないように」

 鯨場に指摘された水島は、明日までに提出しなければならない精算関係の書類を、デスクの引き出しからいそいそと取り出した。パソコンのディスプレイの電源を点けて、本体のスリープも解除すると、立ち上げたエクセルに精算対象のデータを打ち込みながら先程までの会話を再開させる。

「さっきの方、」

「塚本様」

「……塚本さん、利用されなくなったらどうするんですか?」

「おや、意外……でもありませんかね。水島さんは塚本様に制度を利用してほしいのですか?」

「利用率を上げなきゃって言ったのは鯨場さんでしょう?」

 精算回りの作業を終えた水島は、今度は今月の利用率や来庁者リストをパソコンに打ち込んでいく。会話をしながらでも間違えることなく次々と事務作業をこなしていく水島の様子を視界の端に捉えながら、鯨場は書類の仕分けを続けた。

 鯨場は手元のクリアファイルから、先程塚本に記入させた書類を一枚取り出す。

「そうですね。利用者を増やさなければ……少なくとも来庁者を増やして『利用を検討した』という爪痕を残さなければ、我々の立場は増々苦しくなる一方でしょうし」

「お役所仕事ですからね。憎まれ役を買うってものです」

「水島さんは、この仕事を憎まれ役だと?」

「だって、そうじゃないですか」

 水島はパソコンに向けていた視線を上げて、鯨場を見た。鯨場は変わらず視線を上げていない。水島は、話し相手のことを見ない鯨場に慣れているからか、鯨場が見ていないにもかかわらず、自身の右人差し指を挙げて口を尖らせた。

「私達は国から言われた通りの仕事をしているだけなのに、傍から見れば自殺を促している人達ですからね? 人を殺すことでお給料を貰ってるって、世間様からは言われているぐらいですよ」

「それが、憎まれ役だと?」

「違うんですか?」

 水島が言うと、鯨場はようやく顔を上げた。鯨場は水島の顔を真っ直ぐと見ながら、しかし水島の目を見ていないようで、少し視線を下げながら淡々と言葉を連ねた。鯨場は不思議そうな表情を浮かべているだけである。

「水島さんは、医者を憎まれ役だと思いますか?」

「え? 何ですか、急に。医者って……お医者さんですか?」

「そうです。お医者さんです」

「いいえ」

「何故?」

「お医者さんって、人の病気や怪我を治す職業じゃないですか。そりゃ、自身や身内が医療事故とかに遭った方なら憎むかもしれないですけど……基本的に、お医者さんは人を助ける人なのに、どうして憎まれ役になるんですか?」

「……医者とは、果たして、人を助けるという側面だけを持つ職業でしょうか?」

 鯨場は椅子から立ち上がり、カウンターとは反対の方向……職員スペースの奥の方に足を進め、休憩時などに使う菓子や食器が収められている棚のやや上の段に置かれていたマグカップを取り出す。そして、マグカップが入っていた棚のすぐ下の段にあったコーヒーサーバーから、黒い液体を注ぎ込んだ。保温性に優れているのか、淹れてからしばらく時間が経ったコーヒーであっただろうに、注がれたそれからは緩く湯気が立ち上っていた。そんな鯨場に、水島は続けて問い掛ける。

「どういうことです?」

 空間にコーヒーの香りが広がり始める。その香りと共に、鯨場は自身のデスクに戻って椅子に座り直した。鯨場はコーヒーをブラックのまま一口含み、口の中を十分に潤した。

 鯨場はマグカップから口を離すと、若干茶色みを帯びた黒い液体を見つめながら、独り言のように呟く。

「あくまでも私の個人的な考えなのですが、医者は人の不幸を願う職業でしょう?」

「……え?」

「誰も怪我をしなければ、誰も病気にならなければ、医者という職業は全く必要がないのです。医者全員が廃業できるようになることが、理想の世界というものではないでしょうか。医者は人の怪我や病気を治す? まあ治しはしますが、怪我や病気という不幸が無ければ食べていけない職ですので、人の不幸を願っているとは考えられませんか?」

「それは……」

「憎まれ役、なんて……善悪の基準なんて、人によって大きく異なるものですよ。現に、私と水島さんは異なる価値観を有していました」

 鯨場の言葉に水島は言い淀む。鯨場の言葉が、一概に間違いとは言えない言葉だったからだ。無論、全面的に正しいとも言えないが。しかし、一個人の主張としては十分に理解ができるものであり、そういう考え方もあると、不思議と納得できるものであった。

 水島が言い淀んでいると、鯨場は手元のコーヒーから視線を上げて、口角を横に引っ張るような不器用な笑みを水島に向けた。その笑みは、先程まで塚本に見せていた笑みよりもずっとぎこちないものであったが、それが鯨場の心からの笑みだということを水島は知っていた。だから、水島は鯨場に笑みを返した。同じように、綺麗には笑えていないだろう不器用な笑みを。

「あくまでも、個人の考えですよ、水島さん。あなたにはあなたの考えや価値観がある。それを、まずは大切になさってください」

「……はい」

 鯨場は、決して他者の意見を頭ごなしに否定はしない。今も、自分と対立した水島の意見への疑問を口にしただけで、それが悪いとは決して言わなかった。

 しっかり話せば、分かる人なのにな。

 水島はそう思いながら目の前の作業に意識を戻す。勘違いされやすい人間や敵を作りやすい人間とは、鯨場のような人間のことを言うのだろう。水島は鯨場と出会った時のことを思い出しながら、自分だけは味方であり続けようと、ひっそりと考えていた。やや薄まったコーヒーの匂いが充満する空間には、書類を整理し、パソコンのキーボードを叩く音だけが響いていた。



「……ただいま」

「あら、おかえりなさい」

 塚本が家の玄関を開けると、居間に通じる廊下から、塚本の妻である灯里が顔を出した。何か水仕事をしていたのだろうか。灯里は布巾で手を拭きながら、パタパタと塚本に近寄ってきた。

「お昼は外で食べましたか?」

 塚本は玄関で腰を下ろして靴を脱ぎつつ、灯里からの言葉に答えた。

「いや……まだだな」

「そう思って、作ってありますよ。茹でるだけの素麺ですけど。薬味は?」

「生姜だけでいい」

 灯里は塚本の言葉に頷くと、またパタパタと足音を立てながら居間の方に消えていった。そんな灯里の後ろ姿を見ながら、塚本は仄暗い気持ちになる。

 灯里には、ただ散歩に行くと伝えただけだったからだ。

 もし、塚本が終生係で『円満終生制度』について話を聞いてきたと知ったら、灯里は一体何を思うだろうか。塚本は決して灯里を傷つけたいわけではない。結婚して何十年、滅多に口にすることはなかったが、塚本は灯里のことを心から愛しているのだから。灯里も塚本のことを献身的に愛していると、塚本には自惚れではない絶対的な自信がある。

 そんな灯里が、塚本が制度を利用しようと考えていることを、知ったら。

 塚本は、想像をするだけでも暗い気持ちになった。仮に逆の立場だったらと考えても、同じように暗い気持ちになった。もし、逆の立場で、灯里が塚本に黙って『円満終生制度』を利用しようと終生係に相談しに行っていたら、塚本は裏切りとまではいかないまでも、それに似た何かを灯里に感じてしまうだろう。

 何か不満があったのか。

 何か、生きたくないと思わせるようなことがあったのか。

 自分には言えないことなのか。

 自分では……お前の生きる糧にはなれないのか。

「どうかしましたか? 何かありましたか?」

 いつまで経っても玄関から動かないままの塚本を心配したのか、灯里が台所から声を張って呼び掛ける。塚本はその声によって我に返って、現実に引き戻された。引き戻された勢いのまま、慌てて答える。

「な、何でもない。今行く」

 塚本は脱ぎかけだった靴を脱ぎ、立ち上がって居間に向かう。蒸し暑い季節だからか、居間にはエアコンによって作り出された冷たい空気が満ち満ちていた。

「大丈夫ですか? 外の暑さにあてられました?」

「あぁ……そうかもしれないな」

「あらあら、大変。麦茶も用意しますね」

 塚本は灯里からの質問に対して言葉を濁すように答えながら、ダイニングテーブルの席に着く。目の前には、氷水が張られたボウルの中を泳ぐ絹糸のような素麺と、ガラス碗に入った麺つゆ、擦り下ろしの生姜がちょこんと乗った小皿があった。実に夏らしい昼食である。塚本が食事に風情を感じていたら、素麺が入ったボウルの横に、麦茶が入ったガラスコップを置かれた。置かれた拍子に、コップの中に入っていた氷がカラリと涼やかな音を立てて回る。

「もう、私達も歳が歳なんですからね。熱中症と脱水には気をつけないと」

「そうだな」

「歳を取ると、感覚が鈍って自分では気づきにくくなるらしいですよ。嫌ですねぇ。歳は取りたくないわ」

 灯里はカラカラと笑いながら塚本の向かいに座る。灯里の手にも、塚本に差し出したものと同じように、麦茶と氷が入ったガラスコップがあった。

 塚本は一番手前に置かれていた箸を取り、両手を合わせる。

「いただきます」

「はい、どうぞ」

 結婚してからの塚本の習慣だ。食事前は必ずいただきます、終わればごちそうさまと言う。習慣というよりも、暗黙の了解だったのかもしれない。塚本は箸を右手に持ち、ボウルの中に浮かんでいた素麺を一掬いした。掬い取った真白の麺を、出汁の香りがする麺つゆに半分ほどつけてから、控えめに音を立てて口内に啜り入れる。鰹出汁の麺つゆが素麺に豊かな風味を与え、何度か咀嚼をしてから飲み込むと、つるりと喉の奥を通っていった。暑い日はやはりこれだと、塚本は満足だった。

「美味いな」

「茹でただけですよ?」

「茹で時間が良いんだろうな」

「ふふっ、褒めても何も出ませんからね」

 灯里は手を口に当てながら笑う。食事の時には第一声に感想を言うのも、塚本と灯里の間にある暗黙の了解だった。これまでに何度も繰り返された半分冗談のような会話だが、塚本も灯里もこの穏やかな時間が堪らなく好きだった。二人の間に授かった子供は既に全員が独立して巣立っており、それぞれが離れた場所で、それぞれの家庭を持っている。この家に残されているのは、塚本と灯里だけだった。

 再び灯里と二人ぼっちになってから、もう何年が経っただろうか。

 塚本はふと考えたが、もう忘れてしまった。それぐらい、灯里が隣にいることが『普通』になってしまっていた。灯里も、塚本が隣にいることが『普通』になっているだろう。

 だから……もし、塚本が『円満終生制度』を利用してしまったら、灯里は一人になり、この『普通』が崩れてしまうのだ。誰でもない、塚本自身の手によって。

「……あなた? どうかしました?」

「えっ? あ、いや……しょ、生姜を入れ忘れていたな!」

 塚本は取り繕うように笑いながら、小皿に乗っていた擦り下ろしの生姜を麺つゆの中に落とし、箸で溶かす。生姜の繊維が麺つゆの液面に広がっていった。あからさまに不審な塚本の態度に灯里は少しだけ怪訝な顔をしたが、すぐに何もなかったかのように麦茶を一口飲み下した。細かいことまで気にしていたら夫婦生活を保てないということを、灯里はよく知っていた。

 灯里から訝しまれながら、塚本は再び箸で素麺を掬い取って、麺つゆに浸してから口に入れた。生姜を麺つゆの中に溶かしたからか、先程よりもさっぱりとした香味が口の中に広がっていく。塚本が灯里と目を合わせないように食事に集中している振りをしていると、灯里は思い出したように声を出した。

「そういえば、裏の中西さん。奥さんが腰を悪くされて入院されるそうよ」

「そうか。庭の薔薇が見事なんだが、今年は見られないのかな」

「何でも、そのまま寝たきりみたいで。毎年楽しみにしていたのに、残念ね」

 歳は取りたくないわぁ、と灯里は再び溢す。何気ないその言葉が、今の塚本には何よりも重く響いた。

 『円満終生制度』のことについてもだが、実は塚本には、まだ灯里にも……誰にも言っていないことがある。順番としては、制度利用を考えていることよりもまずはそちらを先に話すべきなのだろうが、どうにも踏ん切りがつかない。頭では分かっているのに、心が拒んでいるような感覚だった。

 その告白によって、灯里が自分の元から離れていくのではないか。

 ありもしないそんな不安が塚本の身体と心に纏わりついて、首を絞めているのだ。不安によって絞められた首は喉を潰し、声を出すことすらも許してくれない。塚本は残りが少なくなったボウルの中の素麺を箸でちまちまと集めながら、声が裏返らないようにと気をつけつつ、灯里に話し掛けた。

「な、中西さん、旦那さんが奥さんを面倒見たりしないのだろうか」

「え?」

 灯里の不思議そうな返答を聞いた塚本は、慌てて取ってつけたように理由を述べ繋げる。

「いや、その……旦那さんが、腰を悪くした奥さんの面倒を見るなら、自宅で療養も出来るんじゃないかと思ってな」

 塚本が言うと、灯里はパチパチと数回瞬きした。塚本がそのようなことを言うとは思っていなかったのだろう。それから少しだけ考えて、諦めるような笑みを浮かべながら、灯里は問い掛けに答えた。

「それは難しいんじゃないかしら……出来なくはないだろうけれど、中西さんもお年だから。介護って、身体を抱えたりもするから体力を使うって言うじゃない? そういう面も考えると、流石に厳しいと思うわよ」

「そ、そう、だよな」

 当たり前だ。灯里の返答は、誰が聞いても当然の模範回答だった。介護には体力も技術も必要だ。配偶者だからと言って、簡単に出来るものではない。それに、介護は介護をする側だけではなく、介護をされる側にも負担がかかってしまうものだ。配偶者に介護をされるとなれば、精神的負担は特に大きいだろう。迷惑を掛けてすまないと、そのようなことを考えてしまうかもしれない。少なくとも、塚本はそう思うだろうと考えた。

 灯里は手に持っていたコップの底を机の天板に付けると、塚本に向けてクスリと少しだけ笑う。

「だからあなたも、私に何かあったら、変に気を遣わずに病院なり施設なり、そういう所に入れてくださいね。それぐらいの貯金はしてありますから」

「え、縁起でもないことを言うな!」

「あら、大事なことですよ? 私達、もうそういう歳なんですから。いつそうなるか分からないんですから、今のうちにちゃんと話し合っておかないと」

 灯里のその言葉に、塚本は妙な寂しさを覚えた。若い頃は、二人で始めることばかりを考えていた。しかし、今は二人で終わることを考えなければならない。灯里との暮らしに終止符を打たねばならない。生きているのなら、いつかは死ぬ。そんなことは分かりきっていることなのだが、この平穏な暮らしを終わらせたくなくて、塚本は精一杯に藻掻いているのだ。まだ、灯里の隣で生きていたいという一心だった。

 灯里は柔らかな笑みを浮かべつつ、塚本のことを真っ直ぐと見る。昔と比べれば皺もシミも白髪も必然的に増えているのだが、それでも、塚本はそれを世界で一番美しく、愛しく思っている。どれもこれも、塚本と共に生きてきた証のようなものなのだから。

「それで、あなた。何か私に言うことがあるんじゃないですか?」

「……えっ?」

 ザァっと、塚本は全身から血の気が引くのを感じた。青くなっている塚本とは対称的に、灯里は面白そうにクスクスと、口元に手を当てながら笑っていた。無邪気な少女めいたその笑い方に、塚本は呆気に取られていた。

「昔っから変わらないものね。あなた、私に何か言いたいことがある時、絶対に話し始めが吃るんですよ」

「そう……なのか?」

「ええ。何年あなたと一緒にいると思っているんですか?」

 灯里は一通り笑い終えると、優しげな笑みを浮かべたまま、塚本と向き合う。

「あなたが何を言いたいのか、まだ内容を聞いてないので分かりませんけど……何となくは分かります。あなたの雰囲気とか、そういうので」

「あ、灯里、その……」

「そのことで、私は少し怒っていますよ」

「え?」

 灯里は少しだけ口を尖らせて、塚本を責めるような口調になる。だが、すぐに穏やかな顔に変わった。塚本は、灯里と細やかな喧嘩はしても、それが長く保ったことがないことを何故か思い出した。いつも、すぐに灯里が笑っていたからだと、今になってその理由に気づいたのだ。

「私が、あなたに何かを言われて、それであなたから離れるなんて……その程度の女だと思われていそうで、私は怒っています。ええ、とっても怒っていますとも」

「……すまない」

「全く、見縊られたものですね。私は傷つきましたよ」

「す、すまない。本当にすま、」

「だから、」

 灯里はいつもと変わりなく笑う。いつものように、塚本と冗談めいた会話をするように、いつも通りに言うのだ。

「私と一緒のお墓に入らないと、許しません。死ぬまで一緒に……なんて、言ってあげませんよ。死んでからも、一緒です。ずっと離しませんし、離れませんからね」

 塚本は灯里のその言葉を聞いて、一瞬だけ思考を止めた。

 しかし、次の瞬間。

 塚本の頬に伝っていたのは、温もりをもった涙だった。涙と共に頭の中を駆けてゆくのは、塚本が灯里と過ごした穏やかな日々ばかりである。


 灯里と出会い、灯里に思いを告げ、蜜月を過ごし、二人だけの家族になった。

 たまには喧嘩もしたが、喧嘩の数だけ、すぐに仲直りもした。

 二人だけの家族だったが、子宝にも恵まれ、少しばかり賑やかな家族になった。

 我が子の成長を共に見守り、巣立ちを見届け、また二人だけの家族になった。

 ……ずっと、ずっと。

 塚本の隣には灯里がいた。灯里の隣には塚本がいた。

 どの場面を切り取っても、お互いの人生には、お互いの存在があったのだ。


 ああ……私は、何を迷っていたんだ。灯里を疑っていたのか。

 塚本は今までの自分を恥ずかしく思った。灯里の想いを疑い、強さを疑っていた自分がとてつもなく恥ずかしかったのだ。

 灯里は、私を愛しているのに。私も、灯里を愛しているのに、と。

「あ、灯里」

「はい?」

「お前に……話が、あるんだ」

「そうですか。それなら、早くお昼を食べちゃってください。それを片付けてから、ゆっくり話しましょうね」

「……ああ」

 塚本は再び箸を進める。素麺が入っているボウルの中の氷はほぼ全て溶けてしまっていて、ボウルは沢山の汗をかいていた。残り少なくなった素麺を口に含む。先程よりも塩気があると感じられたそれは、塚本にとって、これまでの人生の中で最も美味しいものに思えた。



「……はい、確かに。では、こちらで申請致しますので、一週間後に再び終生係までいらしてください。その時に結果をお伝え致します」

「よろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ。奥様も、お越し下さりありがとうございました。ご家族のご理解があるのは、私共からしても大変助かることです」

「私はただの付き添いですから。お気になさらず。それに、実はちょっと前から興味もありましたし」

 カウンター席に並んで座っている老夫婦に、鯨場は柔らかな笑みを返す。そしていつかの日のように、水島に二人の見送りを頼んで、鯨場自身はカウンターの奥で書類の整理に取り掛かった。

 しばらくして戻ってきた水島は、自分のデスクに座りながらパソコンのディスプレイの電源を点けつつ、鯨場に声を掛けた。

「塚本さん、制度を利用されるんですね」

「ええ、そのようです」

「でも、塚本さん、六十二歳でしたよね? 国の指定って確か六十五歳だったと思うんですけど……何かご病気なんですか? ガンとか」

 水島は今まで抱えていた疑問を口にする。

 『円満終生制度』の利用の条件の一つである国から指定された年齢は、老年人口として数えられ始める六十五歳。対して、塚本の年齢は六十二歳。条件を満たすには、あと三年ばかり足りないのだ。指定年齢ではないとしたら、他の主な利用条件は病・障害か納金。納金で制度を利用する人間はほぼいないと考えてよいので、水島は消去法で病・障害だと判断した。けれども、塚本は一見では非常に元気だった。むしろ実年齢よりかなり若く見えるほどの健康さだったのだ。あの健康そうな様子で病や障害だとしたら、早期の悪性のガンだろうか。そのように予測をつけて水島は言ったのだが、その水島の言葉を、鯨場は首を小さく左右に振って否定した。

 その反応に小さく首を傾げた水島に対して、鯨場は淡々とした口調で答えを返す。

「認知症、ですよ」

「……認知症?」

「おや、ご存知ありませんか、認知症。かなり広く知れ渡っている病の一つだと思っていたのですが」

「いくら私でも流石にそれぐらいは知ってますよ!」

 水島が不思議に思ったのは、あの塚本が認知症だとは思えなかったからだ。コミュニケーションも難なく出来ており、とても認知症を患っているとは思えない。

 水島の疑問を察したのか、鯨場は先程塚本から受け取った医師の診断書を見ながら言葉を続けた。

「塚本様の認知症はまだかなり初期の段階です。普通なら、少し物忘れが多くなったと思われるぐらいで、認知症だと気付くことはないでしょう。その物忘れも、多くは加齢によるものと勘違いされるぐらいです」

「じゃあ、何で塚本さんは気づいて……?」

「塚本様のご職業が関係しています」

 鯨場は、塚本が初めて来庁した時に書いた利用者の記録としての紙を取り出し、その面を水島に見せながら、職業の欄を指で叩いて示す。示された部分を見ると、水島は口を開いて「あっ」と小さく声を漏らした。

「時計技師。それが、塚本様のご職業です。認知症の初期症状というのは物忘れが有名ですが、同じことを何度も言う、約束の日時などを間違える、単純な仕事や計算に時間がかかるなどの、私達が当然に出来ることが出来なくなることから始まります」

 水島が書面を見たのを確認すると、鯨場は書類を手元に戻し、次に、先程持っていた医師の診断書を再び手に取った。

「塚本様は認知症の中でも、アルツハイマー型の認知症です。認知症患者の半数を占める最もポピュラーな認知症とも言えるでしょう。その中でも塚本様は、複雑な作業が出来なくなる『実行機能性障害』が顕著だった。……ここまで言えば、分かりますよね?」

 水島は黙って頷いた。

 水島は時計技師がどのようなことをする職業なのか詳しいことは知らないが、緻密な作業ばかりの職だろうということは簡単に想像がついた。細かいパーツ、細かい作業、ミリ単位……いや、物によってはミクロン単位の作業だろう。また、作業だけではなく、受注などの細かいスケジュール管理もしなければならない。それで稼ぎを得ているのだとしたら、自分で仕事が出来なくなったというのはすぐに分かるはずだ。だから、塚本は認知症の初期段階で気づくことが出来た。

「通常、アルツハイマー型の認知症では記憶障害が顕著に現れるのですが、塚本様はご職業がご職業なだけに、記憶障害よりも実行機能性障害の方を体感しやすかったのでしょう。その結果、早期発見に繋がった」

「……認知症は、国が指定している病ですよね」

「ええ、そうです。認知症の患者の介護は、この制度の採択を後押ししたレベルの社会問題ですから」

「お詳しいんですね」

「まあ、それなりに」

 鯨場は何処か懐かしむような目をしながら、診断書に目を通す。この職について暫く経つ鯨場にとって、それは非常に見慣れた文字列ばかりが並ぶ紙だった。

「で、でもっ、」

 水島は納得がいかないという風に口を開く。鯨場は水島に視線を寄越して、無言で続きを促した。

「早期なら……まだ、そんなに急がなくても。仕事が出来ないだけだったら、本館の然るべき係に申請を出せば必要な手当ては出ますし、それなのに……塚本さんは、どうして……」

 水島には分からなかった。仕事が出来ず、生活をしていくだけの蓄えがないというだけだったら、水島の言うように、申請さえすれば生活保護の扶助による手当てを最低限受けることができる。働けなくなったから死ぬ、というような極端な発想に至るまでの過程を、水島にはどうしても理解出来なかったのだ。

 そんな水島に対して、鯨場はニッコリと、実に楽しそうに笑ってみせる。楽しそうに、嬉しそうに、無垢な笑みを浮かべている。水島はその笑みを見て、背中に何か冷たいものを流し込まれるような感覚を覚えた。

「それが、人間の面白いところですよ」

「……え?」

「塚本様は、働けなくなったという理由で制度の利用を検討されていたわけではありません」

「ち、違うんですか?」

「それだけで利用を検討していらっしゃったのなら、初めにいらっしゃった時に利用を申請していたと思いませんか?」

 水島は反論が出来なかった。仕事のことだけが理由だったら、確かに悩む必要がないのだ。認知症という病は、症状の進行を緩めることは出来ても、完全に治すことも改善も出来ない。後戻りが出来ない下り坂のようなものだ。薬を投与しても、変えられるのはその下り坂の傾斜ぐらいである。仕事のことだけが利用検討の理由だったとしたら、その下り坂を降りるか降りないかなど、考える必要もないだろう。仕事が人生の全てというような人間だった場合、下り坂を降りることをすぐに拒むはずだからだ。

 鯨場は水島の方を向いて、満足そうに笑いながら言う。

「塚本様は、自分が自分であるうちに、奥様とお別れをしたいそうです」

「奥様、と?」

「はい」

 鯨場は水島から顔を背け、もう興味が無くなったとばかりに手元の作業を再開させた。これから鯨場は、今日中に塚本の家庭事情や病、制度利用の理由などをまとめなければならないのだ。定時まであまり時間がない。

 鯨場も水島と同じように、自分のデスクのパソコンのディスプレイと本体の電源を点けた。

「よく聞きませんか? 認知症を患って、人が変わったようになる、と。時には暴力を振るったり、人を泥棒扱いしたりするとか」

「ありますけど……」

「塚本様は、心から奥様を愛していらっしゃるのです」

 鯨場はパソコンの起動を見届けると、マウスを操作して、デスクトップ上に置いている申請書のテンプレートのファイルを開いた。

「そんな奥様に、いつか自分が暴力を振るうのではないか。いつか、奥様を泥棒扱いするのではないか。いつか……自分が、奥様のことを忘れてしまうのではないか。お話をお聞きする限り、塚本様は、お仕事のことなど欠片も気にしていらっしゃいませんでした。気にしているのは、最初から奥様のことだけだったのですよ」

 鯨場は申請書のテンプレートに塚本の情報を打ち込んでいく。書類とディスプレイを見比べながら、少し拙い様子で文字を打ち込みつつ、塚本が先程カウンターで吐露した胸の内を頭の中で繰り返し再生していた。塚本は鯨場の前で、自分の思いの丈をありのままにぶつけていたのだ。


『妻を傷つけることだけは、たとえ自分でも……いや、自分だからこそ、許せないんです』

『妻のことだけは、何があっても忘れたくないんです』

『子供達とも話をつけています。全員、納得した上での結論です』

『だから、どうか……私を、死なせてください。妻を、忘れてしまう前に』

『妻を忘れた私は、私ではありません』

『そんな私に、私はなりたくない』


 ……随分と熱のこもった惚気だったと、鯨場は内心で穏やかに笑った。塚本の横では灯里が当然とばかりにその告白を聞いていたので、この夫婦の信頼関係は相当なものなのだろうと鯨場は簡単に想像がついた。そうでなければ、あんなにも熱烈な愛の告白は、恥ずかしくてとても聞けるものではないだろうから。

「自分が自分でいられるうちに別れを告げることができるのは……この制度の、数少ない利点の一つですからね」

 鯨場がそう言い、穏やかな気持ちで事務作業を続けていると、ふと、じっとりとした視線を感じた。顔を上げると、斜め向かいのデスクにいる水島が未だに釈然としないというような表情を浮かべて、鯨場の顔を見ていたのだ。

 鯨場は仕方がないものを見るように、眉尻を下げて困ったように言う。

「まだ、納得がいきませんか?」

「……納得も何も、私達は職員なので利用者の判断に口を出したらいけないんですけど、でも……やっぱり、ちょっと」

「塚本様の判断は、間違っていると?」

 その問いに、水島は頷きもしなかった。ただ、自分ならそうはしない、と言いたげな表情だった。

「だって、塚本様の奥様……一人ぼっちになっちゃうじゃないですか」

「本人はそれを了承していらっしゃいます。また、六十五歳になったら制度を利用しに来るとも」

「旦那さんの後追いですか?」

「さあ、どうでしょう」

 水島には分からなかった。もし、自分にも愛する夫がいたとしたら、この判断をすんなりと受け入れることが出来るのだろうか。そう考えた結果、無理だと結論を出したのだ。何があっても、どんなに自分のことを忘れても、生きていてほしいと思ってしまうのが水島だった。

「水島さん」

 鯨場はそんな水島に声を掛ける。水島は目だけを鯨場に向けて反応を示す。鯨場は、視線を目の前のディスプレイに戻しながら告げた。

「以前、お話しましたよね。善悪の基準は人によって違う。価値観も違う。違って当たり前なのです。あなたが塚本様の判断を決して正しいとは思えなくても、塚本ご夫妻はそれを最善の判断だと信じていらっしゃる。どちらも、一概には正しいとも間違いとも言えない判断です」

「……はい」

「……あなたにとっては、塚本様が初めての制度利用者なので、気持ちの整理が上手くつかないのも仕方がありません。私も……自分にとって初めての制度利用者に対しては、そうでしたから。しかし、良くも悪くも、『慣れて』ください。毎回そのように思い悩んでいては、この仕事は保ちませんよ」

 話は以上です、と鯨場は、この話は終わりだと締めた。

 そんな鯨場を見ながら、水島はもやもやとした気持ちを胸の奥に押しやる。それと同時に、考えた。

 一体、鯨場はどれだけの死の理由を、ここで見てきたのか。

 今年度から終生係に就いたばかりの水島には分からないことだった。水島が初めて鯨場と出会った時には、鯨場は既に終生係の職員として完成されていたのだから。

 昔のことを少しだけ思い出しつつ、水島はピシャリと自分の両頬を両手で叩いた。いつまでも引き摺らないように。利用者が一人増えただけだと、事務的に、数を処理するように考えられるように。

「……でも、鯨場さん。やっぱりもうちょっと人の気持ちを考えた方が良いですよ」

「……善処します」

「それ、考える気がないってことですから」

 水島は軽く笑った。

 大丈夫。笑えるのなら、まだ大丈夫。

 水島は自分にそう言い聞かせながら、町の新聞に挟んで配るチラシタイプの、制度利用案内の資料の作成を始めた。


 静かな職場には、キーボードを叩く音が定時まで鳴り響いていた。


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『死配者』 iR @iR_ir_iru

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