肉蕎麦と、たまにはセッションもお休み。

<ごめんね、場合によっちゃリスケでお願いするかも>


 メッセージを打ち終えたところで、カウンターの向こうから丼が差し出された。いそいそと受け取った私は目の前に鎮座する熱々の肉蕎麦にも、ため息を落とすことしかできない。お腹は空いてるし、このお店の肉蕎麦は好物だし、なのに、こう、咽喉の奥に引っ掛かりがあって素直に胃袋が喜んでくれないのだ。

 しょんぼりとしながら割り箸をぱきりと割る。こういう時に限って、私の気持ちを反映したみたいに、綺麗に二つに割れてくれない。

(でも今食べておかないと、後でお腹空いて午後の仕事がしんどくなるし……)

 お蕎麦の上には、豚バラがたっぷりの甘辛いタレと一緒に乗せられている。青々としたネギがアクセントとして目に鮮やかだ。お出汁は黒っぽくて、しょうゆベースの味は豚のお肉に負けないように濃い目だ。お蕎麦の方は口の中で柔らかく噛み切れる素朴な味わいの十割蕎麦で、蕎麦の香りと豚バラの脂の甘みが喧嘩をしない、というのがここのお蕎麦の一番の特徴である。

 そこまで思い起こしても、やっぱり私の食欲は刺激されなかった。もう一度、送り終えたメッセージの画面を見遣る。

 ──りりちゃん、調子悪いなら週末のセッション、リスケにする?

 長い付き合いのある友人から今日になって届いたメッセージは、楽しみにしていたセッションの延期を問いかけるものだった。お昼になってからようやっと私が送ったのが、冒頭の一文って訳。

 確かにここ一週間程、あんまり調子は良くなかった。仕事で、繁忙期を前にして想定外の案件が発生して残業続きだったことと、それに付随して終電帰りのことが増えて睡眠不足になっていた、というのも理由ではあるが、一番の要因はそこじゃなかった。

(ヒロくんが最近冷たい……)

 今朝も挨拶だけであんまりお喋りも出来ないまま出勤して行ってしまった。私は今まで彼とあんまり喧嘩らしい喧嘩をしたことがないものだから、こういうとき、どうしたらいいのかが分からない。仕事の多忙さとプライベートの悩みのダブルパンチで、私はすっかり調子を崩してしまっていたのだ。

 頭を悩ませつつ、丼にお箸を入れる。具材を麺と絡めるように大きく混ぜて、それから一口、音を立てて啜る。

 甘辛いタレがお蕎麦によく絡んで、豚バラのこってりとした脂と一緒に何だかんだ午前中の仕事で空腹だった胃袋をがつんと直撃した。人間って、どうして凹んでいてもお腹が空くのかしら。

(私が悪いんだし、ちゃんとヒロくんに事情説明して、謝らなくっちゃ)

 ヒロくんはあの日、帰り際にぽつりとこんな風に言っていた。

 ──別に何か用事があるのならそう言ってくれればよかったのに。理理さんが僕に嘘をつくなんて、思わなかった。

(嘘……ついたのは良くなかったわよね)

 こくん、と、お蕎麦とお肉を飲み込んで私は丼に視線を落とした。ヒロくんは、嘘をつかれるのが特に嫌いなんだ。それを私は知っていたのに、つまんないプライドというか、意地みたいなのを張ってしまって、結果、そんな彼に嘘をつくことになってしまった。

 口の中で、ネギを噛み締める。ほんの少しピリっとした刺激が、こってりしがちな豚バラの脂を軽くしてくれている。鼻に抜けていく香りを感じながら、私は一度瞼を閉じた。思わず考え込んでしまったのは、嘘をついた原因について。

 だって、とにかく、あんまりにもくだらない理由なのだ。

(ちょっと太っちゃったのが気になって、ヒロくんに内緒でこっそりジムに通ってただけ、なんて)

 改めて説明をするのも馬鹿げて思える話だった。でも、そんなくだらない馬鹿げたことでヒロくんを怒らせてしまったのはどうしようもない事実な訳で。

 ずるずると勢いよく蕎麦を啜る。お蕎麦の香りが口の中に広がるのを感じながら、私は目を閉じた。考えたのはまずはヒロくんにどう謝ったらいいかってこと。次に考えるのはセッションのことだ。週末のそれを楽しみに頑張ってるし、何よりも、社会人同士でのスケジュール調整は難度が高くて、だから、全員の予定があうタイミングならば多少の無理をしても遊びたい、という気持ちは強い。けれども。

 TRPGのセッションは、体力も集中力もかなり必要だ。

(今のこの状態だと、ちゃんと楽しむことに集中できない気がするなぁ)

 ずず、ともう一口麺を啜って、レンゲにお汁とお肉をたっぷり乗せて頬張った。柔らかな麺にお肉が絡んで、食べ応えがある。

(うん、まずは、ヒロくんにちゃんと理由説明して謝ろ)

 お腹がくちくなってきたせいだろうか。お肉の脂のこってりとした後味を麦茶で流していたら、私の胸にはすとん、とその考えが落っこちてきた。腑に落ちた、という表現がぴったりだ。

 今まで謝らなきゃと漠然と思いながらも仕事の忙しさを口実に、何となく避けていたのだった。

(そうしなきゃ、お仕事にも身が入らないし、安眠も出来ないし──そうなるとセッションも楽しめないもんね)

 スマホへ目を落とす。今度は友人とのやり取りではなくて、ここ数日、定型通りのやり取りしかしていなかったヒロくんとのメッセージ画面だった。勿論、謝罪は直接すべきで、画面越しではない方がいいに決まっている。送るのは別のメッセージだった。

<今日、帰り遅い?>

 ヒロくんは仕事の都合、あんまり規則正しい勤務って訳ではなかった。だから今仕事中なのか、休憩中なのかも判然としない。

 返事はすぐには来ないだろうと分かっていたけど、それでも既読のつかないメッセージをしばらく睨む。鬱陶しいとか思われないかな。「探り入れてきたなこいつ」みたいに思われてたらどうしよう。

 あんまりここで長々と続けるのも言い訳がましいし、それこそ通知が嵩んでヒロくんに顔を顰められてしまいかねない。

 私はしばらくの間、蕎麦を食べる手さえ止めて悩んで、ようやっと一文を追加した。

<家で、話したいことがあるんだ>

 

 さて。

 これ以上メッセージに既読がつくかとか、返事が来るかとか、そういうことを気にしたら食事にも仕事にも身が入らない。スマートフォンの画面を伏せて、私は改めて、お蕎麦の器に向き直った。再度手を合わせて、心の中で「いただきます」を唱える。

 意識して、週末のセッションのことを考えることにした。

(キャラのデータはもう出してあるから、あとは私の体調と体力次第ってとこか)

 今度のセッションは、友人がいわゆる「薄い本」を出すための新シナリオのテストプレイだ。そのため、なぁなぁでのプレイングではなく、駄目だしや感想も期待されている。友人が私の体調を慮ってくれたのは、いつものプレイより少しだけ気を遣うものだったから、という点も大きいのだろう。

(……リスケにするかどうかは、明後日までに返事してくれって言われたし。お言葉に甘えて考えよ)

 仕事が猛烈に忙しいのは事実だから、ヒロくんと仲直りして、私のメンタルの方が調子を取り戻したとしても週末セッションできる体力が残るかはいくらか疑わしかった。

 お蕎麦の麺がなくなって、豚バラとネギがほんの少しだけ残ったお汁からレンゲでそれを掬い取る。少し甘辛い、ややもするとジャンキーですらある味の強いスープと一緒にそれを飲みこむと、次いで残った麦茶をえいやと飲み干し、私はその場で手を合わせた。

「御馳走様でした」

 厨房へ声をかけて、少し高いスツールから立ち上がる。扉を開くなり降り注ぐ強烈な日差しは、頭のてっぺんを焼きそうなほどだった。それでもお店に来る時に比べて幾らか身体が軽く感じたのは、ヒロくんに謝ることについて腹を括ったからか、単純に美味しいものをお腹に入れて元気が出たからなのか。私の場合は単純に後者かもしれない。




 ──なかなか既読のつかなかったメッセージに返信が届いたのを確認したのは、退勤のタイミング。

<僕も話したいことがあるんだ>

<今日の夜はゆっくりできるから、理理さんが帰るまで待ってるよ>

 終電間際の時間になっても尚、じとりと重たい都会の夜の空気をかき分けるような気分で、私は歩き出す。少しでも早くヒロくんの顔を見たくて、自然と急ぎ足になった。

 帰ったら。真っ先にまずは、ごめんなさいを言おう。

<今から帰るね>

 送ったメッセージには、びっくりするほど素早く返信が返ってくる。

<気を付けて>

 いつもの、当たり前のやり取りが何だかくすぐったくて、少し嬉しい。口元がにやけるのを手で覆って隠しながら、私は地下鉄への階段を駆け下りた。

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