12.色取取

「――た」

 匂いが繋がっている。

「――らたっ!」

 音も。

「アラタ!」

「ふ、はっ!」

 水の中、息をしながら揺蕩っていたような気分から目覚める。

「無事か!?」

 身を揺するのは、

「リオン君……」

 向こう、エンデもいる。心配そうにこちらを見ている。

 ――僕は、何をしていた。僕は。

 背中を柔らかく押される。それは、

「チ、ル……」

 微笑んでいる。いつもみたいに。

「傷、大丈夫か?」

 リオンが、アラタの目と腹の辺り、視線を往復させて言う。

「傷……。あ……」

 ――オガノ先生。

 手をやったお腹のところに違和感はない。

「「ごめん」」

 アラタとリオンの声が重なった。

「「え?」」

 顔を下げたリオンが先に続ける。

「大人たちと交渉できるくらい、強くなれたと、思ってた。アラタの命を危険に晒すことはないと思っていた。なのに、"また"――」

「違うよ。先生に目をつけられたのは僕なんだ。勝手なことして、心配かけて、ごめん」

 ――リオン君のこと、リオン君の家族のこと、何も知らない。リオン君が知ろうとしていることを知らない。それは学校に、教団に、この世界に関係することなのだとしても、それでもやっぱり、巻き込んだのは僕の方だ。

 アラタはリオンに頭を下げた。

 視線の向いたところがチラチラと光る。なぜか濡れている服の、お腹の辺りに細かな欠片がついていた。

「ガラス片……」

 手にとってみる。

「それ、オガノの」

 先程まで、激しく動いていた。オガノの意志で、アラタを攻撃するように。

 今は、ピクリともしない。

「これ、再現できないかな」

 指に刺さらないよう、慎重に持ち上げる。手の上、月明かりに照らして彩度を確認する。

「再現?」

 リオンの問いに、アラタはこくりと頷いた。

「僕の世界でつくってみる。同じようなものを――」

 機器の電源を入れていく。温い風がほこりっぽい空気を運んで周り始める。

「もしかしたら、オガノ先生の力の仕組みが、わかるかもしれない!」

 チルにエンデ、人間そっくりのものを創り出したアラタなら、もしかして――リオンは点灯していくディスプレイを見てごくり喉を鳴らした。いや、でもと、再びアラタに向き直る。

「お前、傷は!? 本当に――」

 アラタがペラっと服を持ち上げる。本当に何もない。

「よくわからないんだけど、本当に大丈夫なんだ」

「チル、どうやって?」

 エンデがチルに訊ねる。

「私は何も。アラタの力」

 部屋から飛び出していた液体、飲み水と違う匂い、今はきれいさっぱり跡形もない。

「本当に、何も覚えてなく。何か、ごめん……」

 アラタが心底申し訳なさそうに謝る。

「……わかったよ。無理はすんな」

 リオンが、へたっと座り込んだ。

「皆、お腹空くでしょう。私とエンデは下で何か作ってくる」

 チルがエンデの袖を引く。

「あ、眼鏡、どこだっけ……ああ、あったあった」

「お前、目ぇ悪かったっけ?」

 リオンが訊く。

「ううん、作業するときだけかけるんだ、これかけると――」

 リオンの方を向いて答えようとした。

 ――あ、れ?

「何?」

「これ、かけると、集中できるんだ」

 ――リオン君が、ぼやけて上手く見えない。

 チルとエンデがまだ視界にいた。はっきりと、見える。

 リオンだけ、ちゃんと見えない。

「ふうん」

 声はそこにあるのに。

 ――いろいろあったから、疲れてるのかも。

 顔をぱちんと叩き、ディスプレイに向かう。


 ***


『馴染んだら、考えなさい』


 日が良く入る大きな部屋。

 スケッチブックに、鉛筆を。

「先生みてー!」

「あら、上手に描けたね。うみのお魚さんかな?」

 筆が、動かない。

 真っ白。

「メアリちゃん、気分はどう?」

 エプロンをかけた女の人。

「はい。大丈夫です」

「そう、無理しないでね」

「先生、色鉛筆足りないよー」

 子供。

「あ、ほんとだ!」

「先生! 違うよ、あの子が独り占めしてるの!」

 子供たち。

 ――先生。

 鉛筆を置いた。

 ――オガノ先生は今、何を。先生なんであんな事を言ったの? 先生私も偽物ですか。先生、授業は、私、先生。

『馴染んだら、考えなさい』

 先日、ここを訪れたサヒナ先生はそう言った。

『たくさんのことが起こって大変だと思う。身も、心も、魂も。今のあなたは何も処理できない。しなくていい。あふれる感情が馴染んだら、考えなさい』

 ――馴染む日なんて来るんだろうか。

 子供たちが、幼児から小等科の上の学年と思しき子まで。絵を描いている。私以外。

「メアリちゃんって呼んでもいいですか?」

 ふいに声をかけられて、びくりとする。

「あ、ごめんね。わたし、マリです」

「あ、え」

「急に、ごめん! いくつ? 私は12歳」

「14」

「きゃ! 大人っぽく見えるから中3か高1ぐらいだと思った!」

 マリの手元を見る。人を描こうとしてるらしい線が見える。

「あ、見ないでよお。恥ずかしい。……お返し!」

 ひゅっと、スケッチブックを取られた。

「あれ? 今日まだ描いてないの?」

「……」

 マリが一枚、ページをめくる。

「うっわあっ!」

 モノクロの聖母。

「何、これ! すっごい上手! プロじゃん‼」

 プロってなんだろう――その先を考えるのを、放棄していた。

「すごいすごい!」マリはページをめくっていく。

「本物みたい!」

 ぴくっと、体が反応した。マリは気付いてない様子だった。

 ――本物。

『偽物なんだよ』オガノの言葉がリフレインする。

 立ち上がって、近くの女の人に声をかけた。

「すみません、体調が悪いので、休みます」

 偽物、偽物、偽物。

「パパと水族館行ったの」

 青い色鉛筆が、小さい手に握られて。

「はだいろ、ないー」

 陰影のない人型は塗りつぶされて。

「きゃはは」

 楽しいそうに笑い声が交わっている。

 ――ここが、本物。

 どこか、どこか、陽の当たらない方へ。どうしてこうも、どこも。眩しい。

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