11.優しい水底
どれくらい時間が経っただろう。
座り込んだ階段の上、頭が重くて項垂れるような姿勢になる。まだ、パイプオルガンの、ガラスの割れる音がしているように感じる。制服の内側にしまっていたスプレー缶を出して、握ってみる。温度が手に馴染むけれど、中身が減って軽いせいだろうか、いつものような安心感を与えてくれない。
顔を上げる。
朝の気配はまだない。
「あんた、あの子の仲間なんだろ」
数段下に同じようにして座るエンデに、リオンは声をかけた。
「チルのことか?」
「ああ、うん」
口に出してみてから、"仲間"なんて言葉を簡単に使ってよかったのだろうかと思った。アラタの話では、エンデとチルはアラタのつくったゲームの中の登場人物。つまり、ここに、本物の人間のようにいるエンデは、虚構――。
「チルは、俺よりうんと物知りだ。頼りになる」
懸念をよそに、チルに任せて大丈夫なのか――リオンが本当に知りたかった方をエンデは答えた。
「そうか」
ここはアラタの家。アラタの部屋の前の階段――座り込むのはリオンとエンデ。部屋の中には重症だろうアラタと、チル。
アラタが今どんな状態なのか、チルが何をしているのか、リオンにはわからない。
――俺が、巻き込んだ。
スプレー缶を握る手に力がこもる。ぱきぱきぱき、細かな音が鳴って缶がへこむ。
しかし、ジャアッと、大きい音が全てかき消した。
「なっ」
リオンが振り返ったのは音の方向、アラタの部屋だった。下から詰め寄ったエンデが背中を叩く。頷いて、階段を駆け上る。部屋の扉を――。
「う、わっ!」
膝ほどの高さ、水が、部屋の中から部屋の外へ、勢い良く飛び出した。何事か要領を得ないまま、しかしとにかく、中の様子をうかがう。
電気は点いていない。ディスプレイだけが、冷たい色で光っている。
人影が、ある。目を凝らした。座り込むチルと、その膝の上、頭を置いて横たわるアラタだった。二人とも髪まで濡れているのか、青い光をチラチラと反している。
「アラタ――」
チルが指を口元に立て、リオンの声を制してから、
「大丈夫」そう告げた。
水がどこかへ引いていき、静かになる。寝息が聞こえる。
慣れてきた目で見れば、アラタの負傷したはずの箇所から出血はなかった。
***
とても、遠くだと思う。
「食べれそうかな?」
ここは、とても、遠くなのだと思う。
知らない味のスープを、口に運んで、こくんと頷く。
「よかった」
知らない女の人が、笑う。
世界は、完成されている。
神が創り、私たちはその中をただ生きる。
完成された世界を信じることが、生きること。
私は完成された世界を信じて描く。そうやって生きる。ずっと、ずっと。
『音色も、そしてステンドグラスも、私の創造物だ。そして――』『この世界も創り物なんだよ。私はこの世界を創り、管理している、神の1人だ。君たちは――』
――そう、世界は創り物。神による、完成された、信じるべき創り物。オガノ先生が神?
信じることしかしてこなかった。信じることでしか生きられなかった。だって、私たちは神に創られた。神を信じるのが生きるということ、信仰心をどのように表現するか、それだけが、なすべきことなのだから。
体を引き裂くようなパイプオルガンの音を、壁伝いに感じる。
異端は沈むべき。けれど、今、盗み見ている光景は、本当に神が異端を罰するそれだろうか。
『偽物なんだよ』
――どうして、神が偽物を創るの?
足場が、崩れてはいけない心の中の足場が、崩れる。
――神が、偽物だから。
疑うことなんてなかった。それ、なのに。
少年の体が、"異端者"という言葉とあまりにも不釣り合いな少年の体が、ステンドグラスに撃たれる。
強烈な目眩と、吐き気に襲われる。ぐらり、後ろに体がよろめく。そのまま倒れてしまうかと思ったが、
「大丈夫?」
支えられた。
「あ、あ」
言葉が出ない。自分の見たもの、思ったことを、言えない。
「あなたは、教団に、あの人のところに帰りたい?」
あの人――オルガンが止んでいた。オガノ先生は、今、何をしているんだろう、私は――。
首を、小さく、横に振っていた。
「わかった」
この人は、病院の――。
安心したのだろうか。それとも、全て見なかったことにしたかったのだろうか。意識がふっと途切れた。
目を覚ました先は、知らないものばかりの世界だった。知らない子ばかりの、知らない絵ばかりの。知らない食べ物ばかりの――。
「あ、パンより、ご飯の方がよかったかな?」
食事を運ぶ手を止めていたのに気がついて、首を振る。スープを飲み、パンを一口齧る。
「ああ、急がなくてもいいのよ。ごめんね。何かあったら遠慮しないで言ってね。少しずつ――」
知らない女の人が、笑う。
「慣れていけばいいから」
知らない女の人が、とても優しく笑う。ここで、自分が生きてくれることを願っている。
ああ、とても遠くにいるのだと思う。知らない文化の、信仰の、遠い世界にいるのだと思う。
食べ物でない匂いが、ふっと鼻をかすめた。知っている匂いだった。
今、メアリと知らない女だけの部屋には、おそらく別の誰か、おそらく子供が描いたのだと思しき絵が、何枚も壁に貼ってある。人が三人並んだ絵、動物だろうか、激しい色で塗られた絵。どれも、上手とは言い難い。
――ここは、どこなんだろう。
「ちょっと立て込んでるみたいだけれど、近いうち、サヒナ先生も会いに来るそうだから」
――疑ったせいかもしれない。神を、世界を、私自身を。私は落とされたのかもしれない。異端者として、水底へ。
さっき鼻をかすめたのは、別の部屋からやってきた、絵の具の匂いだった。
――もう、私には、何も描けない。なのに、どうして。
下を向く。スープに滴が落ちた。
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