5.知らない海

 バスに乗り込む。今日はクラスメイトの声も普段ほど気にならない。エンデとばかり話していて、それどころでないから。

(エンデ! これがバス!)

 ぐうんと一度音を鳴らして、バスは走り始める。

(案外とろいな)

(そりゃあ、エンデの戦ってきた獣に比べればそうかもしれないけれど)

 バスはアラタと、腕の小型端末の中のエンデだけ乗せて、ゆっくり街を周っていく。普段は目を瞑って過ごす時間を、今日はできるだけ外の景色を眺めることにした。この景色、エンデにはどう映るのかなと考えながら。


「ちょっとー。昨日より酷いんだけどー」

 アラタが診察室に入るや否や、サヒナ先生は言った。

「すみません……」

 本当に申し訳なくなって目を逸らし、荷物かごにスクールバッグを置く。腕の端末も、念のため外してバッグに詰め込んだ。

「謝らなくてもいいけど。はい、座って」

 主治医がサヒナ先生になってから、ちょうど1年位だ。それまでは、おじいちゃん先生がずっと診てくれていた。

「……うん。寝不足に加え栄養不足。治療以前の問題」

「すみませ――」

「薬をちゃんと飲むこと。ご飯を決まった時間に食べること。OK?」

 ――ご飯。

 エンデとチルの食事のことを考えていなかった。元のゲームの世界に一度戻す? あるいは――物置きのようになったダイニングテーブルが浮かんだ――一緒に、食卓を囲むことって可能なのだろうか。

「おーい、聞いてるかい、少年」

「は、はい! ちゃんと薬とご飯、摂ります!」

「はい、元気な返事で結構。君に何かあったら、私が困るんだからね」

 何でもないように言って、カルテを書き進めるサヒナ先生。病院にいる他の医者や看護師よりも若く見えるけれど、不思議で、妖しくて、大人って感じ。

「ありがとうございました」

 スクールバッグをかごから引き上げる、すると。

「わっ」

 端末が、ぽろっと落ちてしまいそうになった。

「……素敵な時計だね」

「あ、あ、ありがとうございます」

 そそくさと、診察室を後にした。


 夕日はこんなにきれいだったかと、帰りのバス、アラタは思わずとろんとした。帰ったら、エンデを端末の外に出そう。チルと3人で、今日のことをたくさん話そう。もしできるなら、あのダイニングテーブルで、ご飯囲んで、それで――。

 バスを降りてから、家までの足取りが軽快になる。通り過ぎる家々から、夕飯の匂いがする。アラタには用意されない、家庭の匂い。

「ただいま! チル!」

 扉を開けると同時、エンデも端末から解いた。

「おかえり。アラタ、エンデ」

「「え」」

 アラタとエンデが揃って声を出す。

「良い匂い……」

 ダイニングテーブルには、ご馳走が並んでいる。ほとんど使ってこなかったコンロには鍋、湯気が上がっている。

「どうしたの、これ」戸惑うアラタ。

「作ってみたの」何でもない風に言ってのけるチル。

「お、うまそー!」慣れた様子のエンデ。

「あたたかいうちに、ね」


 この家で初めて食卓を囲みながら、アラタにはいろいろと疑問が沸いていた。

「なあ、アラタ。この世界じゃ、命は普通、どうやって生まれるんだ?」

 アラタの思考を遮るように、エンデが質問攻めする。1日外を見て回って、知りたいことが増えたらしい。

「うんと、母体から物理的に産まれるんだよ。だいたいは病院で……」

「アラタの母親は?」

「僕が小さい頃に亡くなったってきいてる」

 ――あれ。

「アラタは、生まれた時から今までの記憶があんの?」

 エンデの質問が止まらない。

「ないよ。だいたい3歳ぐらいまでは物心つかないんだから」

「どうして?」

 チルだった。

「え?」

「本当に、アラタは病院で生まれたの? 母親は亡くなったの? 記憶がないのに――」

 チルが次、何を言おうとしているか、

「この世界の仕組みは本当なの?」

 アラタにもわかった。

 思い出せる一番古い記憶は、養護施設。「君は両親を失った。君はこの施設で保護されている。君には――」語りかける人の顔が、思い出せない。

 ――この世界が、誰かに創られた偽物だったとしたら?

 エンデとチルが見つめている。食事から上がる湯気だけが、ゆらゆらと動く。

 ――造り物だったとしたら? 僕が、そうしたように。


 今日は何の作業をする気にもなれなかった。エンデとチルは「一度戻る」と、ディスプレイの向こうへ帰っていた。2人の気配が消え、家の空気がいつもよりしんとする。

 チルが去り際、アラタの手のひらに指で字を書いた。

「海」

 ベッドに潜って目を瞑るけれど、頭が冴えて眠れない。今日は薬を飲もうかと思ったけれど、やっぱりやめた。あれを飲むとぼんやりする、眠くなる。次の日に眠気は残らないけれど、何か、何か、何か――。

 はっとして、締め切ったカーテンを開けた。あまりにも、完璧な月光。

 ――薬を飲むと、考え事が消えてしまうんだ。

 家に残されたゲームソフトの中には、荒かったり、精巧だったりする様々な景色。ときどき現れる、知らない言葉――例えば、"海"。この世界に海なんてない。アラタの創った世界にも海はない。なぜチルは知っている? なぜ自分は知らない? なぜ、なぜ、なぜ?

 大好きなゲームソフトと、月の満ち欠けが違う。いや、あれは、ゲームだもの、ファンタジーだもの、あれは。

「造り物だもの」

 言い訳のようにすればするほど、ねじれていく。

 ――ここは、どこ。


 ***


 いつもよりしっかりと授業を聞いていた。今日はエンデを連れてきていない。

「――となります。では」

 教師の言葉を何度も反芻する。

「アラタ君。ここに入る要素の1つは何でしょう?」

 オガノ先生がアラタに訊ねた。答えは月だ。

「海」

 起立して答える。

 オガノ先生は変わらず微笑を浮かべていたが、目の端にぴくっと力がこもったように見えた。クラスメイトはほとんど無反応だったが、前方の席のメアリが半身振り返り、目を見開いてアラタを見た。

「答えは月、ですね。アラタ君、よく勉強するように」

「はい」応え、着席する。 

 教科書に並ぶ、神々、天使、聖母、聖人、英雄の数々が。

「ここは大切な箇所――」

 真理として教えられること全てが、偽物に見える。


 下足箱に手紙が1通入っていた。なんだろうと気になったが、ここで開けないほうが良い気がして、バッグにしまってバス停に向かう。


「サヒナ先生」

 カルテを書き込むサヒナにアラタは訊ねた。

「ん?」

「初等科の頃に、よく受けた治療があったんです。おもちゃを並べるやつとか、画像をたくさん見て感じたことを答えるやつとか。それって、まだ、カルテ残っていますか?」

「うーん、そうだねえ」

 サヒナは、近くのキャビネットの中、整列された札を確認していく。

「残っているかもしれないけれど、探すのちょっと大変かも。数年前だよね?」

「はい」

「残っていても、君に見せられるかはまた別だしね」

「じゃあ」

 アラタは短く息を吸い込んだ。

「母が僕を生んだ時、もしくは亡くなった際の記録は?」

 サヒナはキャビネットの中身に視線をやったまま、手を止めた。

「知りたい理由が、あるのかな?」

 アラタはじっとサヒナを見た。意志の強さを感じて、サヒナは折れることにした。

「今日のところは帰りなさい。探せるだけ、頑張ってみるけど期待しないで」


「サヒナ先生、今日の診療は以上です」

 看護師が知らせに来る。

「ありがとうございます。お疲れ様でした」

 サヒナは看護師ににこりと微笑んでみせ、足音が遠くなるのを待ってから端末を取り出した。

「サヒナです。あの人に取り次いでください」

 お気に入りにの万年筆をくるくると回す。

『はい』

 久しぶりに聞く声に、うっとりしそうになるのを抑える。

「勘付いているかもしれません」

『ほおー』

「どうします?」

 万年筆の先を、白い紙の上に刺して止めた。

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