4.水底のカンバス

「どうしよう! うまくいかない!」

 カーテンの隙間から日が入り込むようになって数時間経つ。アラタは腕に装着する時計型の電子端末と格闘している。表示される時刻を確認すれば、

「ああっ、まずい、もう出なきゃ! 遅刻しちゃう!」

 アラタの様子を、体育座りしたチルがじっと見つめている。

「エンデー! エンデ!? 問題なさそう!? 大丈夫そう!?」

 端末に、アラタは問いかけた。

『ああ、大丈夫。アラタの感覚と混ざって、変な感じだけど。気持ち悪くねーよ』

 端末から、エンデが返す。

「よかった!」

 昨晩飛び出してきたエンデを、小型端末に転送することに成功した。あくまでも移動用、元のゲームの世界とリンクはしていない。感覚は、装着するアラタと共有される。

「チル、ごめんね。今日時間がなくって、チルだけお留守番になっちゃうんだけど」

 アラタが振り向いてチルに声をかけた。

「大丈夫」

 チルは笑んで答えた。

「夕方には戻るからね! 元の方と行き来できるようにしてあるからね!」

 チルがこくり頷く。不安な様子がないことにアラタはほっとした。同じく、エンデもほっとした。

 ビスケットをひとつ口に放り、昨日と同じ中身のバッグを持って家を出る。

「いってきます!」

 扉を開けて振り向くと、チルが手を振っていた。知らない感覚に、アラタはくすぐったくなった。


 家から学校までの道を走り始める。ぴったし15分で校門をくぐれるはず、急がなきゃ――アラタは口の中、さっき詰め込んだビスケットを無理やり飲みこんだ。

 家、学校、バス、病院、家。それがアラタの毎日。授業、診察、退屈、それがアラタにとっての"外の世界"、全て。

 だった。

(アラタ)

 腕の電子端末からアラタに直接伝導してくるエンデの声。

(うん?)

 同じように、アラタも直接伝導させて答える。

(木が少ないんだな)

(エンデの世界は森が多かったからね)

 エンデの世界、それはアラタが創った、アラタの"内の世界"。唯一、退屈でない、愛せる世界。

 その世界の主人公が今、境界をまたいでこちらに乗り出してきている。

 昨夜、エンデとチルがディスプレイから飛び出してきたとき、アラタは本当に本当に驚いたのだけれど、それはあまりにもエンデとチルだったから、本物だとすぐ確信できた。

 エンデといえば、元の世界で短時間に多くのことを知り過ぎて、ひどく心が疲れていて、でも頭は冴えていて、自分を創造物なんてオモチャに仕立てたやつが憎くて仕方なかった、それなのに。乗り出したそこには、目を輝かせた少年しかいなくて、酷く困惑した。チルが差し出した"概念"は嘘ではない、エンデはそう思うけれど。

 ――もう少し、本物の世界を知ってみたい。見てみたい。

 エンデはアラタに、この世界を見せてほしいと要求した。エンデと行動できるなんて! ――アラタは、ただただ喜んだ。チルは、2人を見つめていた。

 そうして、この腕時計型の電子端末に、エンデのデータを転送してみることにしたのだが。一晩の徹夜で、なんとそれはうまくいった。端末内のエンデはアラタと感覚を共有することができる。世界を見るだけでなく、嗅ぐことも、聴くことも、触ることも、つまりはアラタができる全てを経験できる。

 同じことをチルにもと思い、アラタは取り掛かったのだが、エンデのようにうまくプログラミングできない。

 ――実はチルって。

 作業しながら、思うことがあったけれど、いやいや、それより手を進めようと中断した。

(エンデ! 帰りはバスに乗るよ!)

 興味を持つかと思って言ってみて、はて、エンデに伝わるだろうかと心配したが、

(バス、か)

 無事伝わったようだった。

 

 飛び出したアラタとエンデを見送り、扉が閉まる瞬間、鼻の奥がツンとした。それが何の感情かチルは知っていた。浸るように、ゆっくり歩いて、アラタの部屋に戻る。つけっぱなしのディスプレイには見慣れた泉が広がっている。手を差し込めば、空気がひんやりとし、ああ、ここから私はあそこに戻れると再確認する。つながっていると再認識する。気持ちの良いディスプレイから手を引き抜いて、その手前、キーの上に下ろした。

 カタカタカタと、昔覚えた鍵盤を叩くように。カタカタカタ、カタ。

〈User Name...〉

「――」

 知っている二文字を打ち込んだ。


 美術室の真ん中に胸から上だけの彫刻の男が置かれている。その周囲、ばらばらに陣取りキャンバスと向き合う生徒。

 アラタは定位置、教師から一番遠い隅っこの壁際に席をとった。

「影とぉ、光をぉ、意識してくださいねぇ!」

 美術の小太りの教師は、キャンバスと生徒がひしめく室内をうまく回って歩けないから、定位置から声を張り上げている。いつもならアラタは壁に背中をもたれて居眠りしてしまうのだが、今日は――。

(なあ、アラタ。あれは、何の彫刻だ?)

 エンデがいる。

(うーんと、何だっけかな、確か、英雄の1人で、えっと)

(……さてはアラタ、勉強苦手だろ)

(勉強っていうか、その手の授業が苦手)

(その手って?)

「うーんと、だから、そうだな」

 誤って、声に出してしまう。

「アラタくぅん! 静かに取り組んでくださぁい!」

「す、すみません!」

 思わず立ち上がり、キャンバスから頭を出した。すると、前の方の席で淡々と絵を描く女の子と、その子のキャンバスが視界に入った。

((すごい))

 アラタとエンデが、そろって息をのむ。再び着席するのを忘れてしまうほど、見事に描かれたデッサン。

 ――美術部の、メアリさんだ。

 この学校の美術棟には、寄贈された美術品や、美術部員によってつくられた作品がたくさん置かれている。中でもひときわ目を引くのは、メアリの絵画。まるで本物のよう、圧力すら感じる、神々や聖母の絵画。それは、少し、ぞっとしてしまうほど。

「アラタくぅん!」

 再び教師に注意されて、着席した。メアリは一度もアラタのことを見ることなく、英雄を描き続けていた。


 ***


 日もすっかり落ちた美術棟を歩きながら、まるで、海底のようだなとオガノは思った。神、天使、聖母、英雄。様々ひしめいているが、音がしない。美しい亡骸のように静かだ。

 歩き進めると、一室に小さな明かりがあるのを見つけ中に入る。

「遅くまで、熱心ですね」

「オガノ先生。こんばんは」

 メアリが返事をすると、ロウソクの火がかすかに揺れた。メアリはいつも教室の電気を使わない。彼女の描く世界には、そんなものないのだから、そんなもの使いたくないということらしい。

「順調ですか?」

「はい」

 たった1枚のキャンバスの上、幾重にもなった色が、彼女の魂、いや、彼女の信仰するものの魂を宿して見せる。

 ――完璧だ。

 オガノは感嘆した。

「その作品が完成したら、以前お話していたことをお願いしたいのですが」

「大変光栄です。ありがとうございます」

 立ち上がって礼をしようとするメアリを微笑んで制し、オガノは部屋を出た。しんと静まる美術棟、これまで描かれたメアリの絵。

 全てに満足し、窓の外の月へ大笑いを放った。

 ――異端は水底へ!

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