3.太陽と月の衝突
時間の流れが濃く、いつも寝てしまうだけだった夜が、長い。月が傾いたのはほんの僅か。ほとんど変わらない光が泉に降り注いでいる。
「彼、彼女」
「彼、彼女」
エンデの骨ばった手、チルの華奢な手。歪な欠片をすくっては元の形につなぎ戻していく。その度、エンデに入ってくる、新しい概念。
「創造」
「創造」
形を探って、意味を解して、そして音を確かめるようにエンデが唱える。チルがエンデを肯定するように、復唱する。
「造り物」
「造り物」
作業を繰り返せば繰り返すほど、エンデの中に沸々とこみ上げるものがあった。そして、それはもう既にエンデの知っている感情だった。
「……偽物っ」
「偽物」
エンデの声に滲む怒りが、いよいよ露わになる。
「創造主」
「創造主」
唱えて、エンデは形成した概念を握りつぶした。ほろほろと、"創造主"はあっけなく形を失い、また元の欠片のようになってふわふわと泉の方へ舞った。手応えのなさが腹立たしく、エンデは空になった手をに力を込める。自分の爪で、これほどたやすく血が流せるのは知らなかった。
「エンデ」
チルが、じっとエンデを見つめている。
「……ごめん」
気遣われているのだと知り、エンデは恥じて、謝った。どこか遠くへ意識をやりたいと思い、目線を彷徨わせる。美しい森、美しい泉、美しい月。
――すべて、造り物。
美しくて、妬ましい、月明かりに輝く湧き水。
エンデは胸の奥の方に滞留している息を一気に吐ききって、泉にざばんと身を投げた。つま先から頭までの全てが、泉に包まれる。浮遊感。
「――」
息をしてみようと口を動かした。できないことは知っていた。水を吸い込んで、苦しい。
目を開いてみた。月明かりのせいか、降り注ぐ欠片のせいか、金色に光って眩しい。自然と目は閉じられた。
このままこうしていれば、何が起きるかは、さっき知った。
足先が砂底に当たる。
「――っはあ!」
膝から下に力を込めれば、胸から上が水上に出た。溺れるには、そこはまだ浅すぎるのだ。
エンデは体の半分以上、水の中のままでチルの方を見た。チルの足元が水に浸かっている。自分の方へ向かってこようとしているのだった。
「チル?」
取り乱す様子もなく、一歩ずつ、ゆっくりと、チルが寄ってくる。
「外」
ようやく近くまで来て、チルが答える。その手に握られた何かが水面下で煌めいていた。それは、チルの手からエンデの手に、渡される。
「外」
形を探って、意味を解して、そして音を確かめるようにエンデが唱えた。しっかり確認した後で、水底に捨て去る。
"外"の概念が降っては沈む泉で、つなぎ合わせてしまった、知ってしまった。
エンデはチルの手を握った。
――一人、置いてはいけないから。
泉のもっと中心。
――どうせなら、一層、深いところまで。底へ、底へ。
覚えたての概念が、エンデのアクションを変えていく。チルはただ身を委ねる。
――さようなら。
美しい泉の中、2人は飲み込まれていく。
エンデは遠ざかる意識の中、月から遠ざかっているはずなのに、落ちれば落ちるほど、眩しくなっていくのを感じた。
***
目の乾燥、周囲がピクピクと痙攣するのを感じ、アラタはしまったと思った。作業用の眼鏡をかけ忘れていたのである。昨日使ってからどこにやったっけと、PCの周りを探すけれども、見当たらない。ベッドの周りを探して、うん、ない。仕方ないと部屋を出て探し回ると、洗面台にあった。ふと、鏡に映る自分と目が合ってしまう。サヒナ先生に指摘された通りクマが酷い。勲章みたいでいいじゃないかとアラタは思った。笑顔で眼鏡を装着する。
この眼鏡は、遺品だ。アラタに残された家、その中、ゲーム機器やソフトに混じって、置いてあったのだ。父親のものなのか、母親のものなのかもわからない、度の入っていない眼鏡。
本来の用途は知らないけれど、この眼鏡越しだと、より鮮明に、美しく、細部まで見えるように、アラタは感じるのだ。
「うんっ! よしっ!」
作業効率が高くなる"気がする"不思議眼鏡をつけて、再びディスプレイに向かった、その時。異変を感じた。
「え?」
さっきまで、泉の調整をしていたはずだった。
「どういう、こと?」
ディスプレイいっぱいに広がる泉、そして。
「え、どうして!」
急いでプログラムを確認する。何か間違ってしまったのか、コードに穴があったのか。冷や汗に、キーを打ち続ける運動による汗が混じる。
「どうして、どうして、どうして!」
――ここまできて、もうほとんど完成、こんなに美しいところまできて!
「待って! どこに!?」
――泉に、入ろうとしている?
アラタの手がいくら動いたって、プログラミングを修正したって、2人の動作は変更できない。
焦って、焦って、修正すること、止めることだけを考えていたアラタは、ふと、手を止めた。
――何してるんだ、僕は。このままじゃ、沈んでしまうのに。
2人が、アラタが思い描いた世界の中で、思い描くより美しかった。
愛した2人が、落ちていく。美しい、この世界を象徴する、たったひとつの泉に。
――これが、ベストエンド?
造り主のくせに、アラタは訊ねたくなった。何もできなくなった。
――これじゃあ、まるで。
は、と我に返って、再び手を動かそうとした、その時。
画面が波打ち、大きく飛沫を上げる。驚いて思わず息を吸い込むと、感じるはずのない衝撃、水の感覚、フラッシュに顔を打たれ、目を瞑った。
金色に眩んでいた視界が取り戻されると、エンデの前にはずぶ濡れの子供がいた。
フラッシュが収まって目を開けると、アラタの前にはエンデとチルがいた。
――生きている?
エンデは手を握ったチルを見た。チルは頷いた。
――生きている?
アラタは、濡れたレンズ越しにエンデとチルを見た。
エンデは部屋を見渡した。小さい立方体に、チカチカと無機質な光を放つ装置がたくさん詰め込まれている。
――この少年の家か?
アラタは眼鏡を外したり、また着けたりしてみて、エンデとチルが本当にエンデとチルであることを何度も確認した。
――これ、本物?
「お前は」エンデがアラタに訊ねようとして、
「エンデとチル!? ほんとに!?」アラタの大声が勝つ。
エンデは虚を衝かれた。万が一、エンデが入水―新しく知った概念―を成功できなかった場合、どうなるのだろうと心配していた。もし、自分たちを生んだ醜い創造主の元に行ってしまったらどうするか思案していた。きっと、怒りに任せて――。
「嘘、こんなこと、まさか!」ずっと興奮している少年に、
「お前は、誰だ」エンデは、今度は強く問うた。少し、体が力んだ。握った手から伝わるチルの力は一定で変わらず、柔らかい。
「わっ! 声まで、本当に、本当に、想像していた通りのエンデだ!」
喜び隠しきれない様子でぐいっと近づいた少年に、エンデは怯む。
「ど、どうして俺らのことを知ってる?」
――まさか、こんな子供が。
そんなわけはないと、エンデは考えを押し下げようとしたが。
「だって、僕が造ったゲームのことだもの!」
少年は眼鏡を正し、「僕はアラタ」そう自己紹介までした。エンデの想定外の創造主を前にしても、チルの様子はいつも通りだった。
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