2.日の陰

 目の前の、青。

「――」

 どんな質感、温度、匂い?

 きっと学校のプールのとは全然違うんだ。薬品の混じらない透明な水に魚影が浮いては沈んで、時折光が跳ねる。ゆらり水草の色は、時間の流れの違いを表して。それから、それから。

 水の感触を確かめていると、

「――君」

 誰かの声。

 ああ、これって。

 漫画やゲームでよくある展開だとアラタは思った。そういえば、大好きなあのソフトのセカンドシリーズにも登場する、居眠りしている主人公をヒロインが起こそうとするシーン。

「――ますか?」

 好きなシーンだけど、さすがにもうベタ、使い古された展開だよね。だからそんなことより今は――水の感覚に意識を。

「アラタ君、聞こえてますか?」

「わっ!」

 飛び起きた。水の感覚はどこかへ消え去ってしまった。

 顔を上げるとヒロイン、ではなくロマンスグレーをなでつけた、

「オガノ、先生」

「また居眠りですか。君は私の授業によほど関心がないと見えますね」

 アラタを叱るオガノ先生は、温かい笑みを宿したままだ。

「す、すみません」

 申し訳なくなって、アラタは机の方に視線を落とした。

「これはとても大事な授業です。しっかり集中してくださいね。それでは、次のページを――」

 アラタが居眠りしてしまうのはいつものことだ。オガノ先生に悪いとは思っているのだけれど、どうしても昼間は眠気が襲ってきてしまう。意識が夢の世界にいってしまう。こういう時、漫画やゲームの世界なら、クラスメイトの茶化しや冷笑があるものだけれど。

「――さん、音読してもらえますか?」

「はい」

 アラタのクラスメイトは皆熱心だ。誰一人、アラタに声をかけない。

 教科書の「平和」という字の横に、「ほとんど何もないこと」と落書きをした。


 上履きをしまっていると、

「妄想の世界って楽しいのか?」

 クラスメイトの3人が、5メートル程離れたところで会話をしていた。

「ずっと、ああなんだぜ。イマジナリーフレンドとか何とか、うちの親が言ってた」

 アラタの名前は出ない。彼らがアラタに話しかけてくることもない。

「一人でずっと、妄想のお友達とおしゃべりしてんだよ」

 けれどそれは、アラタのことだった。アラタを意識した話し方だった。

「あいつ、家族いねえから」

 外履きの靴を取り出す。漫画で見るような意地悪なものは仕込まれていない。知ってる。

『人を蔑むのは善くないことです。足らない者に教えを与えることは善いことです』

 初等科の頃、そして中等科に入った今も、何度も何度も聞く教え。

 靴を履き、クラスメイト3人の前を通り過ぎた。

 ――彼らは熱心な生徒なんだ。だから僕を露骨に蔑みやしない。教育に反することはしない。

 アラタは他の生徒が乗るのとは別のバス停へ向かった。


「最近変わったことはある?」

 アラタの目が、細いライトでチカチカ照らされる。

「いいえ、特に」

 目を瞑りそうになるのを堪えながら、アラタは答えた。

「ふうん、そう」 

 視界からライトが去った。眼球を診ていたサヒナ先生はアラタから離れ、くるり、デスクに向いた。

「よく寝れてる?」

 書き物をしたまま、サヒナ先生はアラタに訊ねる。

「は、い」

「ふうん」

 サヒナ先生は筆を止め、アラタの前で弧を描くような仕草をした。

「目の下、クマがすごいけど?」

「うっ……」

 はあっとため息をついてから、サヒナ先生は大胆に足を組んだ。アラタはドキッともしたし、ラッキーとも思ったし、多感な年頃なんだから止めてくれとも思った。

「薬はちゃんと飲めてる?」

「飲めてます!」

「飲めてるのに寝れてないの?」

「あ、いや、えっと……勉強! 僕、勉強が苦手で追いつかなきゃって! それでっ!」

 サヒナ先生は目のクマを指摘した時と同じ顔をしたが、今度は何も言わなかった。再び動き始めた筆が、いつものようにカルテを書き込んでいく。

 物心ついた時、アラタは養護施設にいた。そしてこの病院に通うことになった。そして、

「はいっと。じゃあ、今日も同じ薬出しておくから、窓口で受け取って帰ってね」

「はい、ありがとうございます」

 ずっと、同じ薬を飲み続けている。


 病院からバスを乗り、家の近くのバス停で降りると、心の浮つきが増幅していく。少しでも早く帰りたくて、走る。スクールバッグの中、教科書と飲み薬の袋がぶつかって、ガサッ、ガサッと鳴る。 

 養護施設を6つの時出て、「君に残されたものだ」と渡された一軒家。会ったことのない家族の写真や手紙があったらどうしよう、どう反応したらいいのだろうと、当時は身構えたのだけれど、入ってみればきれい殺風景、生活感の薄い家、想像していた品なんか全く無くて。

 1つだけ散らかった部屋に、昔の漫画やゲームばかりがたくさん詰め込まれていて――今ではゲームは精神的ドラッグと言われて流通していない。誰もやらないしこっそりやるもの難しい時代みたいだ――一人ぼっちのアラタを温かく迎えてくれた。アラタはゲームに夢中になった。部屋にあるもの端から端まで全部クリアした。スライドするステージで障害物をよけるものだとか、立体的に見える世界で化け物と戦うものとか、いろんなものがあって、どれも最高に面白かったけれど。

「ただいま!」

 玄関に飛び込み、カーテンで締め切られた暗い部屋に一目散。バッグを放り投げ、ゲーム機とは別の作業用PCを起動――というか、ほとんど起動しっぱなし、スリープ解除。

「ただいま」

 ディスプレイに向かってアラタはもう一度声をかけた。

 広がっていた真っ暗闇を、月明かりが切っていく。

 錐体細胞が日中よりも働いている。カラーはリアルより鮮明に、動いて揺らめいて、輝いている。ここは、どこよりも美しい、虚構。現実ではないけど、アラタの思い描く最高のリアル。アラタの世界。きっと最高の、ゲーム。

 ――月明かりの差し込む、美しい世界で暮らしたかったな。

 泉が、すべて受け止めている。

 ――この美しい泉を、もう少しで。

 今日も薬は飲まないだろうとアラタは思った。あれを飲むと頭がぼうっとして、夜通し作業できないのだ。

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