1.月の底
「チル、どこー? チルー?」
すっかり夜だ。月明かりが木々から漏れ、足元を照らしてくれているけれど、遠くを見るには頼りない。
「チールーってばー!」
森の平たいところに構えた寝床付近を見渡すが、その姿はない。返事もない。
――きっと、またあそこだ。
エンデはふうっと息を吐いて背中の剣を下ろし、心当たりの場所に向かうことにした。
「それにしてもこの泉、月明かりを飲み込んでるみたいに明るいな。こんな夜中でも、すーぐたどり着ける」
エンデはチルの横に座り込み、皮肉っぽく言った。
チルは泉の水を手にすくって眺めがなら、エンデに返事をする。
「月だけじゃないよ。太陽も受け止めているの」
夜に太陽は出ないよ、とエンデは思ったけれど、チルが言いたいのはそういうのとはまた違うのだろうと、何となく感じて、でも理解はできないで、考えるのを止めた。
――チルはこうやって、ときどき難しいことを言うんだ。
エンデは寝転がって空を見上げた。月明かりとともに、ちらちらと結晶が降り注いでいる。これはいつものことなのである。
――しかし一体、何なんだろうな、あれは。
エンデはぼうっと、いつものようにただ眺める。次いで、いつものように泉の水で手を遊ばせるチルを見る――と、泉の水を抱えていたチルの手には、何かの崩れたような、輝くものが乗っていた。
「何? それ」エンデがチルに訊く。
「――」チルの言葉は聞き取れない。
チルはたまに、エンデの知らないことを口にする。
エンデはどうしていいかわからなくなって、立ち上がり、降り注ぐ結晶の大きいのひとつに手を伸ばした。それはチルが手にしている欠片と少し似ていた。
「エンデ」
チルが、自身の手にあるかけらを差し出して続ける。
「合わせてみて」
「合わせる?」
「うん。こう――」
欠片は、それで1つの形になった。
――これは。
「罪」
知らないはずの言葉がエンデから出て、エンデは自分で驚く。
ちかちかと光を放ちながら、何かがエンデの中に入り込んでくる感覚。
「チ、チル、これ何なんだ!?」
「概念」
「がいねん!?」
今まさに、エンデの中で"罪"という言葉が、絵になり、匂いになり、感触を持ち始めていた。
――これが、がいねん?
"罪"が完全にエンデに入りきった時、エンデの呼吸は荒く、まるで大物の魔獣を倒した後のようになっていた。体が、頭が落ち着くの待ってから、エンデは訊ねる。
「どうして、チルは、そんなに、物知りなんだ?」
1番古い記憶で、エンデは1人だった。
生活するために必要なことは、体が知っていた。
森を移動した。木の実を拾った。魚を獲った、獣を倒した。
この大きな泉を中心に、生活をした。
幾日か経った時、チルがいた。夜、今日のように、いつものように、月明りの降り注ぐ夜のことだった。
輝く泉のほとりに立つ、エンデより幾分も細く、白く、髪の長くてやわらかいそれが、チルだった。
「こんばんは」
挨拶と、会話と、人と暮らすことをエンデは知った。
――チルはどこから来たんだろう。気がついたら自分がいて、気がついたらチルがいた。
遠くに行ってみたい、エンデはそう思うことがある。知らないものを見てみたい、食べてみたい。知らないところに住んでみたい。知らない人に会ってみたい。けれど、この泉がチルのお気に入りのようだから、何となくこのあたりから離れずにいるのだ――と、いうのがエンデの考えだったのだけれど、実はチルって遠くからやってきたんじゃないんだろうかとも考える。自分より多くの言葉を知り、物事を知り、そう、ときどき会話が成立しないほど。そういえば、知らない歌を口ずさむこともある。つくったのかもしれないし、覚えたのかもしれないけれど、そのどちらにしたってこの場所で得たのでないのは確かだった。
「なあ、チル」
「うん?」
「チルって、どこから来たの?」
すぐに返答はなく、チルはじっと、エンデを見つめた。その目があまりにきれいで、そして静かで、エンデはびびった。
「知りたい?」エンデの知らない表情と、訊き方だった。
「本当に――知りたい?」再度訊きながら、チルがまた泉をすくう。
壊れた結晶のようなものが、チルの手にたくさんになる。
チルが、歪な形のひとつひとつを、細い指で丁寧に組み合わせていく。
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