十三、令和元年五月二十九日(水)

40.

 弟の訃報に飛び起きる夢を二回見たところで、目が覚めた。おそるおそる確かめた携帯には着信もなく、急変や訃報を知らせるメールも届いていなかった。その代わり、つけたテレビで硬い表情のアナウンサーが住職の死亡を告げた。

――本堂のろうそくが倒れ、燃え広がった可能性が高いと見ています。

 トイレまで持たずキッチンで吐いたものは、昨日のラーメンの臭いがした。


 シャワーを浴びて清潔さを取り戻したあと、久し振りにきちんと自分の顔を眺めた。記憶にあるものとそう変わらない、地味で冴えない顔立ちだ。目の下のくまも染みついたようになっている。手入れを忘れて生い茂っていた眉だけ整えて、髪を乾かす。前髪はいつの間にか目に掛かるほど、後ろ髪はウエストの辺りまで伸びていた。

 でも別に、今はもうどうでもいいだろう。小綺麗にして迎えなければならない子ども達がいるわけでも、美しい私を喜んでくれる相手がいるわけでもない。

 腕の歯型は、それでも多少は消毒の効果があるのか、腫れはあるが昨日と状態が変わらない。沢岡はきっと、全く構っていなかったのだろう。あの時意地でも引き止めて消毒をしていれば、違っていたかもしれない。機会は二度もあったのに。命とはこんな、指の隙間を簡単にすり抜けていくようなものだったのか。

 爪を短く切り揃え、不気味なほど静かな部屋を眺める。仄暗さから逃れるように窓へ向かい、大きく開いた。夜中に久し振りの雨が降ったのか、庭の景色はなんとなく湿って見える。吸い込んだ息もどことなく湿り気のある、青臭さを嗅ぎ取れた。

 不意のチャイムに、びくりと揺れる。確かめた時計は十時半を過ぎたところだ。誰が来ても別におかしくはないが、来そうな顔が思い浮かばない。

「すみません、岸田さーん」

 聞き覚えのある声が、ドアを叩く。二度目の悪夢に手を震わせながら、小さく答えてドアを開いた。

 向こうには予想どおり、松葉杖を突いた山際が立っていた。しかし今日は一人だけで、なんとなく雰囲気も違う。

「すみません、お休み中のところを(顔色悪いな、大丈夫か。ちゃんと寝てねえんだろうな)」

「お気になさらないでください。おケガの具合はどうですか」

 ギプスの足を見る限り、まだ完治までには時間が掛かるのだろう。

「ぼちぼちです。おかげさんで、内勤で大名みたいな仕事させてもらってますわ(あいつ、全部喋ったんだろうなあ)」

 山際はサンダルを履いた足を軽く持ち上げて見せた。

「それで、今日はどういったご用件でしょうか」

「ああ、ええと。今日は仕事と関係ないんです、沢岡の使いで(まあ、惚れてんだからしょうがねえよな。俺には見逃してやることくらいしかできねえし)」

 心の声を聞き流しつつ、差し出された茶封筒を受け取る。

「ちょっと頼まれてたことがあって調べた結果を伝えに行ったら、病室で熱にうなされながら書いたんです(まだあのヤマに食いついてんのも、この人のためだろうしなあ)」

「沢岡さん、お加減はいかがですか?」

「変わりないですね。熱でへばってます(あいつ、格好つけてどこの病院かも言ってねえんだろうな。『見舞いに来い』くらい言っとけよ。そんなことだから、いつまで経っても縁遠いんだよ。ほんと下手だな)」

 饒舌な心の声に、そうですか、としか言えない。部下か同僚か関係性は分からないが、沢岡のことを本心で気に掛けているのは伝わった。こんな人もいるのか。

「じゃあ、そういうことで(この人も、任意で泣かせたの恨んでるだろうしな。あいつには申し訳ねえけど、これが俺らの仕事だ。仕方ねえやな)」

 諦めたような笑みで、軽く手で挨拶をする。最後まで悪人顔に似合わない心の声を披露して、帰って行った。

 遠ざかる音を聞き遂げて茶封筒を開き、雑に畳まれたレポート用紙を取り出す。恐らく、話していた「種村が一度目を避けられた理由」についてだろう。

 開きかけた指が止まり、一旦テーブルへ置く。開いてもきっと、私は幸せにはなれない。読んだところで、もう戻れないだろう。

――まだあのヤマに食いついてんのも、この人のためだろうしなあ。

 蘇る山際の心の声に、視線を落とす。ネガティブでもポジティブでもなかった。どちらにも増幅されたわけではないだろう。

 一息ついて、ゆっくりとレポート用紙を開く。

 『種村は同僚に「持っていた御守が割れた」「やばいヤマだ」と話している』

 御守が、割れた。

 つい最近経験したばかりの出来事に、血の気が引いていく。

 『種村は御守に一度は守られたのかもしれない。

 二度目は、9時間のあいだに何かがあったのでは?

 種村は今回、特に』

 歪な文字で綴られた考察に耐えきれず、畳む。

 更に折り畳み、小さくして茶封筒に入れる。茶封筒も折り畳んで丸め、小さくしてごみ箱へ捨てた。

 ちらりと見えた沢岡の警告は、当たっているのかもしれない。でも私は、もう無理なところにいる。

 確かめた携帯には、知らないうちに母からのメールが入っていた。弟の体調は安定していて、昼から検査を受けるらしい。私のことをどう話しているか尋ねてみたかったが、どうせ本音はここまで届かない。

 溜め息をつき、滑り込んだ風に外を見る。光に抜き取られた幼い影が、足元まで伸びていた。

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