39.
「本当に、すみませんでした。私がきちんと言わず飛び出したばっかりに」
焦って礼しか言わずに降りたせいで、園長は夜間入り口で律儀に私を待っていた。当然、私を送るつもりだった父とも会った。父の心の声が、「彼氏」と「結婚」で混乱していた。
「気にしなくていいよ」
事もなげに返して園長はハンドルを繰り、病院前の緩やかなスロープを下りる。往復一時間強の運転でも、まるで厭う様子はない。どうしてここまでと尋ねたところで、「牧師だから」で終えられてしまうのは分かっている。金で付き合う精神科医やカウンセラーとは違うのだ。
善き羊飼いは、九十九匹を残してでも一匹を探しに行く。でも救い出された羊が、羊飼いの妻になることはありえない。
「弟さん、どうだった?」
「話もできましたけど、手が痺れるって。検査するみたいです」
もし後遺症が残ったら、どうするのだろう。私は美祈子を殺すだけでは飽き足らず、弟の人生まで壊してしまうのか。
「私がのほほんと生きてきた一番の被害者は弟だと、改めて知りました。ネガティブが増幅されたにしても、心の声は悲痛でした。私は妹だけでなく弟にも、十九年も理不尽を強いてきたんです」
弟はこのまま、私の理不尽に押し潰されて生きるのか。今更「思い出した」と言って、救われるのか。面と向かって、私を責められるわけがない。責めてくれれば、救われるのに。
「弟は妹の存在を無視し続ける罪悪感に耐えられず、死のうとしたみたいです。『なんで生きてられるんだよ』って心の声がしました。両親も私にはかなり気を使って、母は現実でも心の声でも謝るばかりでした。言い過ぎていい加減鬱陶しいかもしれませんけど、私が死んで一時はショックを受けても、結果的には救われる人の方が多いんじゃないでしょうか」
「霊や魂は置いといて、余命を明示される死なら、あるいはね」
園長は懲りない私の堂々巡りにも、眉を顰める様子はない。
「人に対して一つの思いしか抱かないなんて、まずありえないんだよ。『あの人、あと余命半年らしいよ』と聞けば、嫌いだと思っている相手でも感情は揺らぐ。記憶を掘り返すだろうし、人にも話すかもしれない。最終的に『やっぱり嫌い』と納得するにしても、最初の嫌いとは同じじゃないんだ。そうやって感情の整理をして、死を受け止める準備をする。でも自殺や突然の死には、その時間がない」
行きがけより増えた気がする青信号が、帰り道を急がせる。こんな考えが邪なのは分かっているが、傍にいて欲しい。今は帰って一人になるのが怖い。薫子や美祈子が現れなくても、このままでは夜の孤独に押し潰される気がした。
「たとえ今弟さんが本当に君を憎んでいるとしても、君の自殺で救われることはないんじゃないかな。彼は、罪悪感につけこまれて死に引き寄せられたんだ。とても耐えられないよ」
「そうで」
すね、と言い掛けた声が詰まる。足元に、小さくしゃがみこんで私を見上げている美祈子がいた。ずぶ濡れで、前髪は額に張りついて、目は黒い穴が透けているようだった。口角を異様なほど引き上げて、にたりと笑う。まるで鳥が鳴くようにキキキキ、と耳障りな音を残したあと、暗がりに溶けるように消えた。
「……飲まれるな!」
響いた声に我に返ると、身を乗り出してハンドルを掴んでいた。慌てて離し、飛び退くようにシートへ戻る。
私は、何を。
園長は荒れた息を整えつつ、車を路肩へ向かわせる。その傍らを、トラックがクラクションを煩く鳴らしながら走り抜けて行った。
「ごめんなさい、私」
遂に自分の手で殺そうとするようになったのか。よりによって、園長を。もういやだ、耐えられない。死にたい。殺す前に殺して欲しい。こんなのは、耐えられない。
「大丈夫。想定の範囲内だから」
堪えきれず泣き出した私を宥めて、園長は頭を撫でる。
「もう無理、だめです。誰か殺す前に死にたい。お願いです、殺してください!」
「大丈夫だから、落ち着いて。誰も殺したりしない。ショックに引きずられて、少し飲まれただけだ。泣いてていいから、力を抜いて、深呼吸をして」
穏やかな声と熱が、荒涼とした胸に染みていく。しゃくりあげつつ深呼吸をすると、よくできたね、と子ども達にするように褒めた。
「目を開いて、僕を見て。今は目に映るものを見るんだ」
少しずつ目を開き、歪む視界に園長の影を写す。園長は気づいたように、室内灯を点けた。赤みがかった光の眩しさに、思わず目を細める。瞬きのあと、視界には鮮明に姿が映った。光の中で見る穏やかな表情は、園でいつも子どもに向けられているものと同じだ。
「大丈夫。神は必ず君をお救いになる」
私は神ではなく、と願ったところで届かないのは分かっている。頷くと、生まれたばかりの涙が伝う。
「ラーメンでも食べて帰ろう」
園長はまた私の頭を撫で、室内灯を消した。
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