十二、令和元年五月二十八日(火)
33.
特別な何かがあったわけではない。当然、一目惚れでもなかった。
副牧師の頃は会えば挨拶を交わす程度で、「牧師らしくない牧師」の噂をたまに聞くくらいだった。
四年前に三十五歳の若さで主任牧師と園長に就任する時には、それなりの悶着もあった。教会員達はもっと高齢の、経験と研鑽を積んだ「牧師らしい牧師」の就任を望んだのだ。しかし訴訟問題の後始末や落ちた評判を前に、我こそはと手を挙げる重鎮はいなかったらしい。それに、前任の主任牧師である榎木も園長を推していた。本部の決定には、それほど時間が掛からなかった。
とはいえ、就任後はこれといった悪評は聞こえない。元々涼しい顔で人の倍、仕事をこなす人だ。牧師と園長を兼任していても「まるで忙しくないように見える」のが恐ろしい。その卒のなさと現実的な物言いを嫌って離れていった教会員もいるが、牧師の代替わりには少なからず起きることだろう。それに、教会の今後を担う三十代や四十代の支持は厚い。
園長はカリスマ性で心を掴む牧師でも荘厳な言葉や威厳で一目置かれる牧師でもないが、万人祭司の意味を思い出させる牧師ではある。私は多分、その垣根の低さやふわっとしていないところに惹かれたのだろう。私には「理想の牧師」に見えた。
それがどこから恋心に変わったのか、正直今も分からない。憧れと尊敬が紆余曲折して化学変化でも起こしたのか、気づいたら好きだったのだ。もっとも炎が燃え上がるような感覚は元から持ち合わせていないから、朝会って挨拶ができて笑顔を見たらそれで一日がんばれるような、その程度の恋のはずだった。
まさかこんな深みに嵌っているとは、思いもしなかった。
一息ついて、カーディガンのポケットに手を突っ込む。触れた感触がいつもと違っていて、慌てて御守を引っ張り出した。
見た目はどこも変わりない。ただ、中に入っている何かが割れていた。
転んだりぶつけたり、割れるような行動はしていない。本当に身代わりになってくれたのだろうか。でも、なぜこの前襲われた時ではなかったのか。
もう関わるつもりはなかったが、住職に聞いておくべきかもしれない。
携帯を手にとった途端、震え始めて驚く。表示された『沢岡さん』に、すぐ通話ボタンを押した。
「はい、岸田です」
「ああ、先生。俺です、沢岡です」
沢岡に相談しようかと思ったが、電話の向こうの声は予想外に苦しげだった。また、いやな予感がした。
「あの、大丈夫ですか?」
「首のとこ、腫れてちょっとヤバいみたいで。熱が出たんで、入院してきます」
背中を走り抜ける寒気に、立っていられなくなり座り込む。
「ごめんなさい、私の」
「違います。甘く見てた俺のせいです。先生のせいじゃない」
「でも」
「これを言うために、かけたんです」
背後で呼び出しのようなアナウンスが聞こえる。病院のロビーだろうか。携帯を握り直す手が震えて落ち着かない。詫びしか浮かばないのに、ほかに何を言えばいいのだろう。浮かびそうな涙に唇を噛む。
「泣かないでくださいね、とどめ刺されますんで」
沢岡は笑ったあと、長い息を吐いた。
「俺はフラグはへし折っていく性質なんで、あんまこういうこと言いたくないんですけど。生き延びたら、メシ奢らせてください」
確かに、映画ではこんな台詞を言う人物は生きて戻れない気がする。苦笑して、目を閉じた。
「分かりました、ラーメンで」
「もうちょっと高いもんでもいいですよ」
「私、ラーメン好きなんです」
「じゃあ旨い店知ってるんで、連れて行きます」
沢岡は笑って、少し間を置く。終わってしまいそうな通話に、あの、と目を開いた。
「ご両親が、必ず守ってくださいます」
予想もしなかった言葉が滑り落ちて驚く。まるで、誰かに与えられたかのようだった。
「ありがとう」
小さな礼を最後に、通話は終わる。また唇を噛み、滲みそうになる涙を堪えた。
もう躊躇っている場合ではない。私の覚悟ができなければ、それだけ被害が拡がっていく。ブラウスの袖を引き上げれば私にも、赤く腫れ始めた歯型がある。一応消毒はしているが、やはり「そういう傷」ではなかった。私はともかく、沢岡は救わなければ。
着信履歴を開いて、園長を選んだ。
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