32.
ちょっと時系列をはっきりさせたくて、とコーヒーを手に沢岡は来訪の理由を切り出した。
「最初に聞きたいんですが、縄畑が死ぬ前辺りに彼に対しての大きな感情の揺らぎってありましたか? 具体的には十六日の、午前二時から四時頃です」
「いろいろと思うことはありましたけど、でも十六日の真夜中ですよね。私は基本的に十二時前には眠るので……ちょっと、待ってくださいね」
一旦腰を上げ、自分用のレポート用紙と手帳を取りに向かう。私も自分用に整理しておきたい。
「夜中の一時くらいに窓を叩く音がして、目を覚ましました。携帯を確かめたので、寝ぼけてなければ時間は確かです」
手帳になぐり書きしたメモを読み解く。あの晩は、そうだ。思い出してもぞっとする。
「こつこつと、窓に小石をぶつけるような不規則な音がしたんです。眠れなくなって、確かめに起きました」
「それ、死亡フラグですよ」
「やまなかったので、怖かったんです」
苦笑しつつ、私もレポート用紙に『16日深夜1時 音で起きる』と書く。
「それでカーテンを開けてみたんですけど、誰もいなくて。ほっとして水を飲んで、ベッドへ戻りました。それでこう、布団を捲ったら中に小さい顔があって。私を見て、にたりと笑いました。そのあとは、覚えていません。朝起きたらちゃんとベッドで眠っていました。あ、だからもしかしたら、夢だったかもしれません」
「……普通に、怖い話じゃないですか」
視線を上げると、沢岡がつらそうな表情をしていた。
「首を締められたのに、今更ですか」
「あれは物理攻撃だと俺は信じてます。あと、話として聞くせいかもしれませんね。ぞっとします。まあともかく、それが一時頃と。縄畑のことを考える余裕なんてなかったですよね?」
「はい。その時は全く、考えませんでした」
沢岡は頷いてメモに何かを書き込む。私は、『2時~4時 しょーくん死亡』と書いた。
「次に、鈴井幸絵の死亡する前についてです。死亡時刻は同じ十六日の、午後八時二十分頃です。その頃はパトカーの中でしたね」
「はい。八時過ぎに警察の方が来られて、同行を求められて渋々応じました」
「感情の揺らぎはありましたか?」
「使うどころか見たことも触ったこともない薬物への関与を疑われて、屈辱しか感じませんでした。鈴井さんが『園で売ってるとしたら私だ』と話したと聞いて、どうしてそんな嘘をと思ったら、泣けてきて」
思い出すと、今も暗澹とした気分になる。俯く私に、沢岡もペンを置いた。
「その説は、本当にすみませんでした。鈴井が先生に良い感情を抱いてないのは分かってたんですが、言われた以上は確かめないわけにはいかなくて。翌日園長から電話がかかってきて、地獄のように責められたと課長が。あの人、躊躇いなく110番するしマスコミには戦争吹っ掛けるし、怖いものないんですかね」
「私も、これまで何人も牧師を見てきましたけど、あんなふわっとしてない牧師は初めてです」
抗議の電話をかけていたのは、初めて知った。戦争の方は結局、訴訟に発展しそうなのは音信不通のまとめサイトの管理者のみらしい。そのほかのマスコミ各社やネットメディアは謝罪と訂正を行ったとして、無罪放免となった。
正直これで本当に園の名誉が回復したかと言われたら微妙だが、少なくとも子ども達が言い返せる事実はできたはずだ。園長が望んだ成果は得られたのではないだろうか。
「揺れてから死亡までは約十分、てとこか。その後、山際の事故まで約一時間」
沢岡は書きつけて、メモをめくる。
「前後しますけど、俺が自損事故を起こした五月十四日です。園に行ったのは、午後三時過ぎでした。先生に話を聞いて園を出たのが四時前、事故ったのは四時十五分頃です。俺と会ったあとに、先生の方では何かありましたか?」
「はい。お見送りしたあと、すぐです。振り返ったら、講堂への廊下に園児のボールが転がっていて。名前を確かめて教室へ持って行こうと思って、拾いに行きました。拾おうと思って腰を屈めた時、『せんせい』と聞こえたんです。同時に上靴の足が見えて、『すずいかおるこ』と書いてあるのを見ました。驚いて顔を上げたら、ボールに足を取られて転けました。その時、横の本棚が揺れるのが見えて、慌てて逃げて。本棚が目の前に倒れたんですけど、ボールはどこにもありませんでした」
今思えば、あれは本当に薫子だったのだろう。幻覚と現実との間で大きく揺らいでいた頃だった。
「俺の事故とのタイムラグは、十五分前後ってとこですね」
「はい。それくらいだと思います」
レポート用紙に書きつけながら、コーヒーを飲む。まだ父がくれたものを飲んでいるが、少し冷めても酸味の出ない、美味しい豆だった。
「最後、種村の事故です。事故は二十一日の、午後十時四十分頃に起きました」
「ここにいらっしゃったのは、確か午後二時頃です」
「約九時間か」
伸びたタイムラグに、沢岡は顎をさすりつつペン先でメモを叩く。
「子どもの霊ですから、気まぐれとか」
「まあ確かに、俺もあれで解放されたから可能性はあります。でも、初回を外しますかね。あと子どもが九時間経ってからいきなり怒るって、考えられます?」
「それは、ちょっと考えにくいですね」
「種村は、何を聞きに来たんですか?」
「しょーくんと鈴井さんの死の不審な点をオカルトと結びつけていて、園長が関連してるのではないかと。以前、園が訴えられた時にもオカルト説を記事にした記者さんだったようです。あとは」
言いたくはないが、避けては通れないだろう。本当に「そう」なら願ってもないはずなのに、望んでいない自分も確かにいる。私は幸せになってはいけないし、園長は私のような女を相手にしてはいけない、はずだ。
「私と園長の関係を邪推して、傷つくことを言われました。初めて園で話をした時も似たようなことを言われて不快でしたけど、二回目は本当に。ショックで具合が悪くなって泣きながら寝ました」
私は多分、自分がどうこうより園長を穢されたように感じて腹を立てたのだろう。園長は、そんな人ではない。自分の想いとは矛盾して、相容れない。
「その、初めて園で話をした時はいつでしたか?」
「いつだったかな。沢岡さんと同じ日じゃありませんでした。それで、園の集団ヒステリーと園長のことを尋ねられました。だからまだ、しょーくん死亡の報道がなかった日だと思います」
「じゃあ、十五日、ですね。二回目に訪れた時に、アクシデントがあったとは言ってませんでしたか?」
「特には、何も」
もしあれば、種村のことだ。まるで鬼の首を取ったように真っ先に叩きつけてきたはずだ。自分の経験した動かぬ証拠として、記事にも書き連ねていたことだろう。
「先生には、何かありましたか?」
「初回は、手の甲に引っかき傷が浮き出ました。多分やきもちを感じたんじゃないでしょうか。その前後も度々、子どもが爪で引っ掻くような痕が浮き出てたんです。ただ病院に行って薬を飲むようになってからは出なくなってきた気がするので、幻覚の可能性もあるとは考えています。二回目はふと目覚めた時にベッド脇に現れて、多分、枕元でじっと覗き込まれていました。寝たふりをしてたから、それだけで終わりました」
沢岡には言えない箇所を抜いて報告する。
あれは、薫子か美祈子か。どっちかは分からないが、しょーくんの首を運んでいたはずだ。もし目を開けていたら、どうなっていただろう。
残り少なくなったコーヒーから視線を上げると、沢岡が腕をさすっていた。
「先生、怖いの大丈夫なんですか? さっきから俺、想像するだけで鳥肌がすごいんですけど」
「大丈夫じゃないですよ、すごく怖かったです。でも、家に憑いてるのなら逃げればすみますけど、私が憑かせてるんだからどこに行っても同じですし」
まともに考えたら気が狂いそうになるから、正気を保つために考えないようにしているだけだ。
本当に恐ろしい時は震えているのが精一杯で、悲鳴どころか声なんて出ない。むしろ悲鳴が出ないように祈ったくらいだ。怖いものに慣れることなんて、あるのだろうか。
それはともかく、だ。
「種村さん、初回も不快には思いましたけど、あの時は泣きませんでした。だからじゃないでしょうか」
あとは気まぐれ、か。幼い子どもの行動には一貫性がない。私の手を引っ掻いて、それで気がすんだっておかしくはない。
「縄畑の方は、どう考えます? 個人的な恨みを果たすために現れたんですかね」
「薫子ちゃんの死で、私が泣いたせいかもしれません。でも、しょーくんは私と同じくらい慕われていたんです。恨みよりは『一緒に来て欲しかった』の方が自然です」
一人で行くのが寂しくて、しょーくんを道連れにした。でもそれなら、どうして頭を手放したのだろう。美祈子が関わっているのだろうが、どう関わっているのかが分からない。
沢岡は、眉間の皺を深くしつつ唸る。
「やっぱり、四歳児の行動に一貫性を求めるのは無理なのかもしれませんね。まあ、種村に一度目を避けられた理由がなかったか探しときます」
苦笑して腕を解き、長居しまして、と腰を上げる。
「おかげで私も靄が少し晴れたようで、助かりました」
「余計、分からなくなった部分もありますけどね。霊絡みの事件に現実的な捜査手段を当てはめるのは無理があるのかもしれませんが」
上着を手に玄関へ向かう沢岡のあとに続く。
「なんか、引っ掛かるんですよね」
気になる言葉を零しつつ、沢岡は革靴へ足をねじ込む。ごちそうさまでした、と笑顔の礼を残して帰って行った。
部屋に戻り、拙い考察を書き綴ったレポート用紙を眺める。破り取り、丸めてごみ箱へ捨てた。
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