34.

 園長は御守と沢岡に起きた異変の報告をノートへ綴り終え、渋い表情で口元をさすった。

「急がないとまずいだろうね」

 もう一度確かめるように割れた御守に触れ、私へ差し出す。

「最短で、いつできますか」

「僕の準備は、あと二日もあればできるよ。ただ、君はまだ対峙できる状態じゃないだろう。『許されなければならない』では、太刀打ちできないよ」

 もっともな指摘を口にしつつソファから腰を上げ、古びたデスクへ向かう。時を経たのが分かる味わいは好みだが、重厚でも豪華でもない。一応は教会の長の部屋なのに、置かれているものはかなり質素だ。園長の代になってからは、一層シンプルになった気がする。

「目に見える罪は見えるものが裁く。それが法だ。そして、目に見えない罪は神が裁く。天網恢恢疎にして漏らさず、どんな罪も悪も決して見逃されることはない。君のしたことが本当に罪であり悪であるのなら、天に召される時に正しく裁かれるだろう。だから今は全てを預けて、待てばいいんだよ」

 園長は引き出しから書類を取り出して、再び戻ってくる。テーブルへ置いたのは、『誓約書』だった。

「この誓約書は、儀式中の君に何かあっても教団と僕は責任を免れる文章で埋められてる。君がこれにサインすれば、僕はどんな失敗をしても許されるんだ。君が半身不随になろうと精神に異常をきたそうと、たとえ死のうとね。僕の罪と罰は、天に預けられる」

 手元のペンを私へ向けて置きながら、自嘲気味に内容を説明する。

 手に取った誓約書には確かに、儀式は私の願いにより行われるもので教団や牧師は責任を負わない旨が綴られている。ほかには、儀式は純粋な奉仕であり掛かる費用の請求などは一切行わないと明記されていた。完全なボランティアか。

 サインを終えて差し出すと、園長は確かめて腰を上げる。私も続いてドアへ向かった。

「なるべく早く準備は済ませるから、君も節制と規則正しい生活を心がけて。暴飲暴食や飲酒喫煙、遊興の類と性交は禁止。あとは聖書を読んで過ごすくらいでいい。じゃあ、手を」

 差し出された手に、応えて載せる。少し視線を伏せた。

「これを唱えたら、あの子達は確実に気づいて動き始めるだろう。この前みたいに物理で襲われることはないはずだけど、覚悟して。君が死ねば、あの子達の魂は決して救われることはない」

 死を牽制するくらいだから、死んだ方がマシと思えるような事態が起こるのかもしれない。でも、私が美祈子に与えた十九年の苦しみに比べれば鼻で笑われるようなものだろう。あの子は死んでいるから、逃れることもできなかった。

「美祈子を、救ってください」

「できる限りのことはするよ。殴らずにすむように考えてる」

 冷静な答えに頷き、目を閉じる。淡々と響くいつもより少し長い祝福を受け入れて、私も神に祈った。


 話を終えて牧師室を出ると、待っていたかのように隣のドアが開く。姿を現した入谷は、驚くほどやつれていた。顔は青白く目元がくすんでいる。肌の艶も消えて、一気に老けたように見えた。いつもはきっちりと分けられている七三も今日は乱雑で、零れた前髪が額に張りついていた。

「どうされたんですか」

「大丈夫、なんでもありません。それより、岸田先生」

 入谷は私を手招きして、牧師室から遠ざける。

「真瀬牧師と、おかしな契約なんかはされてませんよね」

「おかしな、と言うと」

 さすがに牧師に嘘をつくのは気が引けて、話の向きを少しずらす。入谷は明らかに具合の悪そうな息を吐き、額を拭った。

「悪魔祓いの契約です。あの人は、間違った方に向かっている。教義に反し、神に背を向けようとしているんです。何も知らないあなたを洗脳しようとしている。あなたを救うのであれば、教義を」

 まくし立てるように早口で続けたあと、いきなり私の腕を掴んだ。手加減のない力に、袖の下で傷口が痛む。

「教義を伝えて受洗を、信仰の光を受けるよう説得すべきなのに」

「先生、落ち着いてください。大丈夫ですか」

 私を見据える入谷の血走った目は揺れ、私より余程救いを必要としていた。

「こんなのは間違ってる。あなたが苦しんでいるのは、悪に染まり堕落しているせいだ。主イエスキリストの元で、正しく悔い改めるべきです。私が、正しい方法で救います」

 私の腕を掴んだまま、入谷は踵を返す。まっすぐ礼拝堂を目指す足に思わず抵抗するが、男の力に叶うわけもない。だめだ、間違ってる、だめだ、と入谷は独り言のように繰り返す。何かが乗り移ったかのような、異様な後ろ姿だった。体中からいやな汗が噴き出すのに、怖くて声が出せない。

「……いや」

 引きずられていく体に微かに声を捻り出せた時、入谷が突然短い悲鳴を上げた。離された手にバランスを崩して尻もちをついたあと、必死で離れる。背後でドアが開くのが分かった。

 礼拝堂の前で入谷が体を丸め、頭を抱えてうずくまっている。窮屈そうなスーツの背中が、はちきれんばかりに見えた。震えているのか。何が、何が起きたのか。

 不意に触れた手に、私もびくりとする。

「大丈夫?」

 そばに膝を突いた園長が、慎重に私を窺った。すぐには声が出なくて、小さく咳をする。ようやく震え始めた肌をさすり上げて園長の顔を見たら、涙が溢れた。

「こわ、かったです」

 ようやく伝えられた言葉に、園長は子どもを抱き上げるように私の脇を掴んで立たせる。うずくまったままの入谷を黙って一瞥したあと、牧師室へ連れて帰った。

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