28.
救急車の提案を大げさだと断り、沢岡は私のベッドで横になる。
「園長が、私の言葉でも明日までは持つと」
「明日か」
掠れた声で繰り返し、沢岡は苦笑した。
「でも子どものことですから、明日になれば忘れると思います」
「良くも悪くも子どもってことか」
軽く咳き込んだあと、喉をさする。違和感が消えないのだろう。逆に私は、薫子が熱を引き抜いていったかのように楽になっていた。
「俺も、なんとなく分かりますよ。救われてはいけないって感覚が」
沢岡は差し出したゼリー飲料を握り潰すように飲み終えて、溜め息をつく。私はヨーグルトを食べつつ、場に漂う妙な連帯感を味わう。死線をともに乗り越えた同志だ。
「父は俺が高校の時に死にましたけど、母は俺を産んだ時に死んだんです。出産中に大出血起こして救急搬送したものの間に合わなくて、俺だけどうにかって感じだったらしいです」
少し滑らかになった喉で、沢岡は育ちの痛みを打ち明ける。
「俺は父方の実家で育ちましたけど、事あるごとに母が助けた命とか母が救った命だとか。まあ、未だに言われますけどね。父が死んでからは父の分も生きろって、荷物が増えました」
二つも命を背負わされれば、それは重いだろう。つらいですね、と小さく挟むと、沢岡は苦笑で頷いた。
「悪気がないのは分かってるんです。ただ、たまに死ぬほど息苦しくなる。『俺を救わなければ元気に次の子を産めたかもしれないのに』とか、『母の命を食い潰した自分が生きていていいのか』とか。逆に『助けてくれなんて頼んでねえよ』とも。警察に入って最初に食らった説教は、『自分の身を守ることを学べ』でした。救われた命なんだから大事にしなきゃと思う一方で、どっかで救われて生き延びてる自分を罰したいんですよ」
沢岡はまるで自分のベッドのように伸びをしてから、起き上がる。いて、と首をさすりながら顔を歪めた。
「長居してしまって、すみません。署に戻ります」
「病院に行かなくて、大丈夫ですか」
「この程度、大丈夫ですよ。刑事してたら一度や二度は刺されるもんですし」
そんなもの、なのか。
「四年くらい前に脇腹刺されたヤツ、見ます?」
「いいです!」
今にもシャツをたくし上げそうな手を慌てて止める。幼稚園でも傷の大きさや痛みを自慢しあう男子達はいるが、大人になっても変わらないのかもしれない。
沢岡は笑い、ベッドを下りて玄関へ向かう。
「俺の名刺、まだ持ってます?」
「はい、保管してます」
「じゃあ、あとで連絡先を送ってください」
足をねじ込むようにしてくたびれた革靴を履き、首をさすりながら出て行った。
足音が遠ざかればまた、一人きりだ。「何か」が出てきたバスルームも、しょーくんの首が入っていた冷蔵庫も、いつもどおりそこにある。でも今は、心細さや恐ろしさを噛み締めている場合ではなかった。
署に帰還した沢岡のおかげもあったのか、園長は夜には無事解放された。
「沁みるなあ」
味噌汁の椀を傾けたあと、園長は長い息を吐く。
「怒りのままに作ったら山のようにできたので、全部食べてください。残ったのは詰めますから、持って帰ってください」
あのあとすぐ、夕飯の買い物に出掛けた。その時点ではまだ解放されるかどうかも分からなかったが、二人分以上の材料を購入して帰った。
なんだかとにかく食べさせなければ気がすまなくて、泣きそうになりながら作った。ごはん、豆腐とわかめの味噌汁、竜田揚げ、ささみの梅しそ揚げ、ポテトサラダ、きゅうりとじゃこの酢のもの、きんぴらごぼう、だし巻き卵。ダイニングテーブルの上にはもう、余裕がない。
「助かる。ありがたくいただくよ」
園長は竜田揚げの山から三つほど小皿に取って、早速かじる。衣の崩れる軽い音のあと、旨いなあ、と暢気な感想が続いた。
「私、本気で怒ってるんですけど」
私は竜田揚げとささみの梅しそ揚げを一つずつ、だし巻き卵を皿に選ぶ。
正直なところ、あの時抱いていた怒りは調理とともに大半は昇華されてしまった。それでもまだ、しぶとく燻っているものがある。
「これが最善の策だよ。君が連れて行かれてたら、言い包められて犯人にされていたかもしれない。とても取り調べに耐えられるような状態じゃなかった」
「そうかもしれませんけど、でも」
言い返せなくなった口に、梅しそ揚げを突っ込む。衣はさっくりと心地よく断たれ、梅肉と大葉の風味が口の中に拡がっていく。竜田揚げとは対象的な、さっぱりとした一品だ。
「私は、先生を犠牲にして幸せになりたいわけじゃありません」
滲んだ涙を慌てて拭い、洟を啜る。ここで泣いたら、沢岡の二の舞になってしまう。
そういえば、沢岡に謝るのをすっかり忘れていた。礼ばかりで詫びていない。完全にとばっちりだったのに。あとで連絡先を送る時に詫びよう。でも、詫びるくらいですむのだろうか。
「沢岡さん、君のことを心配してたよ。良さそうな人だね」
「『良さそう』とは」
見透かされたような話題の転換に、だし巻き卵を割りながら園長を窺う。園長は小鉢を手に、卒のない箸使いで酢のものを口へ運んだ。
「真面目で誠実そうだ。年齢も君とそれほど離れてないだろう。得体の知れないもの相手の命の危機にも理性を保てるし、君を見捨てて逃げない男気と責任感がある。腰を抜かして自分だけ逃げてもおかしくないのに」
確かに私の髪が巻きついても、抱え上げた手を離さなかった。それでも。
「それは警察官だからです」
「警察官でも、人間相手じゃなきゃ逃げる奴は逃げるよ」
園長は頷いて小鉢を置き、再び汁椀を掴んだ。
「まさか、これが狙いだったとか言いませんよね」
「さすがにそこまでじゃないよ、ダントツで推してるけど。告白されたら結婚しなさい」
事もなげに指示して傾ける涼しい表情を眺める。さっきから胸がささくれだって、収まらない。怒りとはまた違う質だった。
「されませんから、大丈夫です」
ふてくされながら竜田揚げを食いちぎる。からりと揚がった衣は軽い音を立てて砕けていく。怒りのままに作ったが、怒りしかなかったわけではない。
「先生、もし自分が言い包められて逮捕されそうになったら、本当のことを言ってましたか?」
「どうだろうね。『本当』にも、いろいろな種類があるから」
園長はふわっとした答えで煙に巻きながら、きんぴらの山を崩した。
予定どおり、食べきれなかった料理は全て保存容器に移す。思っていたより残らなかったが、それでも保存容器を詰めた袋はそれなりに重くなった。
「先生が御言葉を唱えられたってことは、薫子ちゃんの霊は本当にいるんですね。沢岡さんは、私の感情の変化に呼応して『出現する』んじゃないかと見立てを」
「さすが刑事だね。まあ、そんなとこだよ」
食後のコーヒーを優雅に嗜みながら、園長はすっきりしない言葉を選ぶ。
「まだあるんですか」
「今日のは対処療法であって、根本を叩いたわけじゃない。彼が助けて欲しいと僕の手を掴んだからできた一時凌ぎだ。もぐらたたきだよ。君がこの先を許さない限りは、これ以上のことはできない」
あの時、ストレートに助けを乞う沢岡にショックと羨望を抱いた。普通はそんなに、素直に手を掴めるのか。沢岡は「救われてはいけないと思う気持ち」を抱いていても、手を掴んだ。
「私も、先生の手を取ればいいことは分かっているんです。ただどうしても、何かが拒んでいて。自分が助かることを、救われることを許したくない何かがあるんです。ましてや、これだけ犠牲者を出しておいて、自分だけ救われる気なのかと」
「それは違う。確かに君も救われるけど、君だけじゃない。周囲の人達の命と犠牲となった人の魂、君を苦しめている魂も救われるんだ」
「先生には、この『何か』が分かるんじゃないんですか」
「ある程度は分かるよ。でも教えるわけにはいかない。僕が明かせば、助けられなくなる。そこは、君が神に求めて知るべき核だから」
どんなにその辺のサラリーマンのように見えたとしても、牧師だ。当たり前のように滑り込む言葉に、少し冷めたコーヒーを喉へ送る。
「神様は、本当にいるんですか?」
「いるよ。神としては見えないだけでね」
躊躇いのない答えに、なんとなく辺りを見回す。神も見えないが、霊も見えない。
「最初から、神は君を許してる。あとは君が許すだけだ」
言えないことを言おうとすると、そんなふわっとした物言いになってしまうのだろうか。今の園長は、よくいる牧師になっていた。
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