27.

 結局、沢岡は泣きすぎて過呼吸を起こした私を抱えて運ぶ面倒まで抱えてしまった。

「お手数をお掛けして、申し訳ありません。薬も飲んでますが、もう追いつかないようで」

「気にしないでください、当然の反応です。つらい時に、本当に申し訳ないと思ってます」

 沢岡はすまなげに頭を下げる。それでもドアを叩かなければならない仕事だ。

 ようやく落ち着きを取り戻した胸に、ゆっくりとした呼吸を繰り返す。

「すみません。体調不良でこんな姿ですが、お答えしますので」

「ありがとうございます。お体に障らないようになるべく早く済ませます」

 ベッド際に腰を下ろした沢岡は私を窺いながら、早速メモを開いた。

「種村は、昨日こちらに来ましたか?」

「はい。多分、二時くらいだったと思います」

 相変わらず不躾で、心地よい来訪ではなかった。それが仕事だと言われたら納得するしかないが、なぜあんな人に嫌われる仕事を選んだのか、気になりはする。最期まで下世話な記事を書き連ねて、それが本当にしたいことだったのだろうか。

「何を聞きにきました?」

 暗澹とした胸に、予想外の問いが滑り込んだ。

「あの、事故じゃなかったんですか?」

「いや、事故です。トラックに跳ねられての事故なんですが」

 沢岡は一息ついてメモを置き、私を見ないまま迷うように顎をさする。よく日に焼けた、硬そうな顎だった。

「車を止めて外に出たところを、後ろから来たトラックに跳ねられたんです。残された跡から察するに、種村も人を跳ねて慌てて車から降りたんじゃないかと。でも場所は首都高です。基本的には人が歩くような場所ではありません。監視カメラにも、種村が車を止めた映像しか残っていませんでした。跳ねられた相手の姿もありません。ただ、フロントガラスに指紋が残っていて」

 一旦区切り、気持ちを整えるように長い息を吐く。不穏な気配に躊躇う表情をじっと見据える。

「鈴井薫子のものと、一致したんです」

 体を起こしたかったが、目眩に再び沈んだ。沢岡は小さく詫びたあと、私の手を取って脈を測る。園長より温かい手と、少し固い指先だった。

「病院は、内科ですか?」

「メンタルクリニックです。強いストレスで一過性の精神的な不調が起きてると」

 今更、隠すつもりもない。たった今追加された不安と怖れが、胸の中を巡り続けている。幻覚か霊かの答えは不確かでも、心身が不調を来たしているのは確かだ。

「脈が不規則ですし、目眩があるなら内科も受診された方がいいかもしれません。若いしストレスと疲労が原因だとは思いますけど、それだけじゃないこともありますんで」

「お詳しいんですね」

「父が似たような症状を放置してたら、突然死したんです。四十でした」

 怒涛のように寄せた不安と負荷に、沢岡はようやく気づいた様子で苦笑した。

「すみません、やっぱり下手ですね。脅したかったわけではないんです」

「大丈夫です。どうぞ、本題へ」

 沢岡は、警察には向かない気がする。田舎で黙々と田畑を耕すとか、農業の実情を知らないから勝手な想像だが、そっちの方が似合いそうだ。警官には召命もないだろうし。思い出して、小さく溜め息をつく。

 『また電話する』は社交辞令だったのか、昼を過ぎているのに携帯は揺れる様子がなかった。

「実は今、山際が足を骨折してまして。あ、足以外はピンピンしてますんで大丈夫です」

 新たな不幸を切り出した沢岡を、じっと見据える。

「鈴井幸絵が署のトイレで死んだあの日、先生を送って帰ったら、山際が救急車のタンカに乗ってるとこでした。本人は、誰かに階段から突き落とされたと言ってます。ただ、背中ではなく尻を押されたと」

 背中ではなく、尻。中途半端な高さだ。

「大人が押すなら背中です。わざわざ尻を押しません。手が大人の尻に来てもおかしくないのは、子どもです」

 四歳児の平均身長は約一メートル、薫子は少し高めで一〇五センチあった。山際は多分平均的な身長だから、薫子の目線はちょうど腰やお尻の辺りだろう。

「指紋照合は、自分の事故と山際のケガを思い出して私が頼みました。まさかと思ったんですが。まあこれは、公式な報告からは除かれると思いますのでオフレコで。今日お伺いした半分は、個人的な捜査のためです。私はもう、『通常の捜査』では真実には辿り着けないと思っています」

 沢岡はまるで医師のように私の腕を戻したあと、訪問の内訳を明かす。

「私と山際、種村の事故に共通するのは、鈴井薫子の事件です。私や山際は捜査、種村は取材で事件に関わっていました。話を伺っていた相手も同じでしょう。なので、事故の前に何か特徴的なことをしていなかったかと考えたんです。例えば『最後に関わった関係者は誰か』とか」

 そんな風に考えたことはなかったが、確かにそうやって絞り込めば分かることもあるだろう。納得して頷いた私を、沢岡はじっと見据えた。

「私が事故を起こす前、最後に話を聞いたのは先生です。山際は先生を任意同行したあと、階段から落ちました。種村も残された手帳やメモから、恐らくは先生だろうと。あ、もちろんそれだけでは暴論です。全員、その時が初めての対面ではありませんでした。だから何かしら、『鈴井薫子が現れる』条件のようなものがあったのではと」

「そう仰られても」

「お気遣いなく答えていただきたいんですが、私と山際、種村のことが嫌いではないですか?」

 躊躇いなく話を進める沢岡は、もう「薫子の何か」がいると信じているのだろう。事件の現場には、薫子の指紋といい、そうとしか捉えられなくなるようなものばかりあったのかもしれない。

「いえ、種村さんはともかく山際さんと沢岡さんは嫌いではありません。あらぬ疑いを掛けられたのは確かにつらいことでしたが、山際さんは職務で仕方ないことだったと理解しています。沢岡さんと事故前にお会いしたのは、幼稚園でお話した時ですよね。あの時は気遣っていただいて少し気が楽になったので、むしろ感謝しました。種村さんは、故人を腐したくはないですが、不躾な方だと思っていました。記者だから仕方ないのかもしれませんが、尋ねられる内容も下世話で無神経と感じるものが多くて。昨日は帰られたあと泣きましたし、具合も悪くなりました」

 思い出せば、まだ心は澱む。でも死ぬほどではなかったはずだ。死ぬべきは私だ。

「改めて確認しますが、鈴井薫子は先生が大好きで母親のように慕って、常に傍にいたんですよね?」

「はい」

「ほかの子が近づこうとすると、攻撃するくらいだったとか」

 メモをめくりつつ確かめる沢岡に、額をさする手が止まる。まだ少し、微熱が残っていた。

「通常の捜査でないことを前提にお伺いしますが、もし鈴井薫子が死んだあとも先生の傍にいるとしたら、私や山際、種村に対してどんな対応をすると思いますか?」

 公輝は抱っこしようとして噛み跡が浮かび、彩乃は抱っこしたあとに噛み跡が浮かんだ。私は、手の甲や体に赤い筋が浮かぶ。

「好感を持てば嫉妬して、先生を泣かせれば」

 沢岡はメモから視線を上げ、真剣な眼差しで私を窺う。

「怒り狂うんじゃないですかね」

 腑に落ちた一つの答えに、血の気が引いた。

――生前もあなたが大好きで、やきもち焼きだったのではないですか。

 違う。薫子は「やきもち」で「ちょっかい」を出すのではない。「嫉妬と憤怒」で「襲い掛かる」のだ。

 山際が部屋を訪れたあの日、幸絵のせいで確かに泣いた。しょーくんが薫子を殺したと知った時は、ショックが収まると同時に号泣した。

 薫子は、幸絵のせいで泣いたのに山際まで襲ったのか。あまり理由を理解していないのかもしれない。でも、それなら。気づいた事実に、血の気が引く。

「沢岡さん、私、さっき泣きました」

 沢岡も気づいて、顔をさすり上げる。辺りを見回したあと、長い息を吐いた。しん、と静まり返った薄暗い部屋に、家電の稼働音が不気味に響く。

「先生は、『見えない』んですか?」

「顔のようなものや制服を見たことはありますが、きちんとではないんです。幻覚との区別もつきません。ただ園長なら分かると思いますので、連絡を」

「今は、難しいと思います」

 頭を緩く横に振り、沢岡はまた息を吐く。

「今朝早く、署へ連絡がありました。牧師館の玄関の前に袋が置いてあって、中を見たら頭が入っていたと。見つかっていなかった、縄畑の頭部でした。今は署で話を聞いている最中です。お伺いした理由の半分は、園長について聞きたいことがありまして」

 やっぱり、「あった」のか。どうして持ち帰ったのか。隠さなかったのか。抑えたくても動揺は溢れて、また火照り始めた顔をさすり上げる。どうして、私にあのまま押しつけておかなかったのか。

「疑われているんですか?」

「そこは現実の捜査に関係することなので、お話できません。大丈夫だとは思いますが」

 「思いますが」では、安心できない。でも沢岡を問い詰めたところで、どうにもならないことも分かっている。

「今は待つしかないんですね。ただ沢岡さんの無事は、私では保証できません。幻覚でなければ私も何度か、薫子ちゃんに連れて行かれそうになったので。あの子はきっと、一人では天国に行けないんです」

――むしろあなたが好きで離れがたくて、なかなかあちらへ行けないように感じました。四十九日のうちに未練が消えると良いのですが。

 住職の不安は、多分正しい。一人では行けないから私のそばにとどまって、もどかしさと苦しさに人を殺しているのなら。

「私のせいです。私が最初に死んでいれば、誰も死ななかったのに」

「そんなことは……とは言い切れませんが」

 沢岡は溜め息をつき、まくり上げたシャツから伸びる腕をさする。痩せている割に骨の太そうな腕はがっちりとして、引き締まっていた。

「少なくとも、先生の死が全てを終わらせるような結末は最悪です。私も生き残りたいですし」

「でも、私が死ねば沢岡さんは」

「私は」

 少し強い声で遮る沢岡に、だらしなく開いたシャツの襟から視線を上げる。

「そういう考え方は嫌いなので」

「すみません。そうですよね」

 小さく詫びたあと、枕へ頭を沈めた。吐いた息が熱っぽい。また熱が上がり始めているのかもしれない。

「きつい言い方をして、すみません」

「いいんです。命を守る立場の方に、失礼な物言いでした」

 目を閉じ、長い息を吐く。少しの間を置いて、話を戻しますが、と沢岡は本来の話題へ戻った。

「園長は昨日、こちらに来られていたそうで」

 切り出された話題に、どきりとする。大丈夫、大丈夫だ。証拠はもう、何もない。

「はい。種村さんがいらっしゃったあと、具合が悪くなったせいかすごく不安定になって、電話をかけました。しばらくしてお見えになって、看病してくださいました。私は眠ってしまったので、いつお帰りになったかは分かりません」

「気になった点とか、変わった様子とかは」

「特には、何も」

 思い返す限り、何も変わったところはなかった。冷蔵庫の中に頭を見つけたあとでさえ、口調や態度に違いはなかった。ただ私を安心させるために、嘘をついただけで。沢岡は私を少し窺ったあと、そうですか、と頷いた。うまくごまかせた、だろうか。

「ちなみに園長は、霊的な現象についてはどう言ってるんですか?」

「概ね幻覚の扱いです。私が本格的な対処を拒んでいるので」

「どうしてですか?」

「自分でもよく分からないんです。見えたら怖くて仕方ないのに、『助けて』とは言えなくて。言えば、先生は私を救ってしまうと分かっているからでしょうね。先程のような『自分が死ねば』ではなく、私は、救われてはいけない気がするんです。そんな資格はないような。なぜそんな風に思うのかは、分からないんですが」

 ぼんやりとした熱に、思いつく言葉を並べる。恐怖で神社と寺に駆け込んでしまったが、今はちゃんと救われなかったことをどこかで安堵している。閉じた目の奥が鈍く痛んだ。

「沢岡さんさえよろしければ、園長と連絡が取れるまでここでお待ちください。私は熱が上がったようですので」

 これ以上話し続けたら、ボロを出しそうで恐い。後ろめたさのせいか、沢岡の視線が鋭くなったように思えてならない。

 でも「黙ります」と言う前に、ごとん、と向こうで何かが落ちるような音がした。目を無理やりこじ開け、沢岡を見る。沢岡にも聞こえたのか、青ざめた顔でバスルームの方を見据えていた。

「じっとしてましょう」

 沢岡は、想定外の選択を口にする。

「ホラー映画だと、確かめに行った奴が死にます」

「そう、ですね」

 確かにそうかもしれない。確かめに行かなければ、相手の懐に飛び込むことはない。ただ。

「署に電話して、園長に繋がせます」

 沢岡が携帯を取り出した時、バスルームの扉を叩くような音がした。

 こちらが飛び込まなければ、向こうが来るのではないだろうか。

「マジかよ」

 沢岡は携帯を耳に当てながら私を抱き起こし、ベッドの足元まで移動させて距離を取る。自分は、私の前に座った。

 繋がった電話で、沢岡は一刻も早く園長に繋ぐように促す。いいから早く繋げ、俺が死ぬ、と相手の混乱しそうな言葉を並べた。焦った様子で短く答えながら、しきりにバスルームの方を眺める。

 微かな音のあと、風もない廊下でドアがゆっくりと開かれていく。ドアのせいで中の様子は見えないが、「何もいない」わけがない。

「話はいいから早くしろ!」

 沢岡は電話の向こうに怒鳴ったあと、腰を上げて窓を開ける。戻ると、私を抱え上げて庭へ下りた。

「このままだと鈴井薫子に殺されます、助けてください」

 繋がったらしい園長に訴え、私を抱え直して部屋から離れる。

「います、代わります」

 差し出された携帯を慌てて受け取り、先生、と小さく呼ぶ。

「これから僕が伝える御言葉を、そのまま復唱して」

「はい」

 冷静な園長の指示に唾を飲み、始まった言葉を復唱し始める。朦朧とし始めた頭では、舌も覚束ない。沢岡は私を庇うように抱え直しながら、更に離れていく。窓が大きく開かれて、何かが外へ出るのが分かった。

 途端、通話がざらつき始める。園長の声が途切れた。

「沢岡さん、もっと離れてください。通話が切れそうです。先生、今のとこをもう一度」

 沢岡は私を抱えて庭の端まで走って離れる。この先は、塀を乗り越えなければどこにも行けない。少しずつ途切れがちになる通話の音をどうにか拾いながら、言葉を継ぐ。

「まずい、早く」

 沢岡の声を掻き消すように吹いた突風が、髪を勢いよく靡かせる。砂埃に痛む目を開くと、私の髪が沢岡の首に巻き付いていた。

 沢岡は苦しげな声を漏らして、崩れるように座り込む。強く引かれる髪に、痛みが走った。だめだ、こんな。私も沢岡の首を締め上げていく自分の髪に爪を立てながら、復唱を続ける。

 神様どうか、どうか。もう、死なせるわけには。

「『ほめたたえよ』!」

 唱え終えた瞬間、また強い風が吹き抜ける。涙の滲む目を開くと、荒い咳を繰り返す沢岡と乱れ髪を揺らす私が残っていた。

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