十、令和元年五月二十五日(土)
29.
朝起きたら、スパティフィラムが枯れていた。全ての花苞や葉がべたりと床に這って、茶色く乾いていた。花苞を持ち上げたら、茎が軽い音を立てて折れた。命は次々に、私を置いて消えていく。
昨日メンタルクリニックへ行って、沢岡との一件を除いたこの一週間の報告をした。正直どこまでが幻覚でどこからが心霊現象なのか、私には全く分かっていない。でも園長は「混じってる」と言っているし、薬を飲んで少し楽になった部分は確かにある。度々左手に浮き出ていた四本の筋を、ここ数日見ていない。あれは、幻覚だったのか。医師はいい傾向だと頷いて、このまま薬を飲み続けるように改めて指示した。
沢岡には連絡先を伝えるとともに、とばっちりの詫びを添えた。とばっちりで殺されそうになるなんて、どう考えても最悪だろう。それでも沢岡は気にしていないようで、『何かあれば連絡を』と綴っていた。あんなことのあとでは社交辞令だろうが、礼を返した。
園長は、昨日の夜は看取りが入って来られなかった。看取りは、数ある牧師の仕事の中でも大切なものの一つだ。死を迎える人達のそばに付き添い、最期を看取る。葬儀関連は今晩からだろう。明日の葬儀は主日礼拝と重なるから午後からか、もしかしたら一日ずらすかもしれない。今日は園の親子遠足で、園長も向かっていたはずだ。本来の仕事で、今週末は私に関わっている暇なんてないだろう。
私の休職以来、園では集団ヒステリーも起きずクラスは順調に続いているらしい。私に憑いているのだから、当たり前だろう。どこに逃げたって、引っ越したって解放されない。
これから私の病気が良くなったとして、喜んで迎えてくれる保護者がどれほどいるのだろうか。「集団ヒステリーを起こす先生」と警戒されつつ勤めるよりは、違う園へ行く方がいいのかもしれない。教団の幼稚園は少ないが、ここにしかないわけじゃない。でももしそこでも、同じことが起きたら。
息苦しさに胸を押さえ、ベッドに寝転がる。目を閉じ、深呼吸を繰り返す。
――どうして受洗しないの?
蘇った園長の言葉に、ざらりとした感触が肌を走った。静まるどころか荒れ始めた胸に、体を起こす。乱れたワンピースの裾を整えながら、胸を押さえた。この前は過呼吸を起こしてしまったし、薬を飲んでいるからと油断しない方がいいのかもしれない。これ以上ストレスを抱えれば、喘息が再発する可能性だって。
喉をさする手が、ふと止まる。
喘息が治ったのは、いつだったか。また、いやな手触りがした。違う、そうではないだろう。これはそんな、ざらつくような記憶ではないはずだ。ちゃんと覚えている。
息苦しそうな喘鳴があって、ひどい時は横になれなくて座っていた。顔は青白く唇や爪も青くなって。
掘り返した記憶の違和感に、唇に触れた。湿った息が指先を温めて消える。
……違う。私じゃない。私は、今と同じようにそれを「見ていた」。喘息の症状を私は、「見て覚えた」のだ。
一気に背中を這い上がる悪寒に、汗が噴き出す。粟立つ肌をさすり、自分を強く抱き締める。目眩に再び寝転がって、震える手で膝を抱えて小さくなる。
じゃあ、誰だ。私は誰の喘息を見て。
わんわんと反響する耳鳴りが煩いほどに響き始める。だめだ、もういい、もう思い出さない方がいい。
塞ぐように両耳を押さえていたのに、何かが這い出るような水音がはっきりと聞こえた。思わず視線を向けたバスルームの先で、廊下の電気が点滅し始める。
どうして。泣いてもないし、嫉妬されるようなことなんて何も。
覆された沢岡の説は、園長の言葉に補完される。
――まあ、そんなとこだよ。
じゃあ、本当はどんなとこなんですか。ここにいない相手にぶつけつつ、携帯を手に後ずさる。相変わらず水音はバスルームから、湯も張っていないバスタブから聞こえていた。ここで見に行ったら、死ぬ。
沢岡から学んだことを活かしつつ、時間を確かめる。八時半。前夜式が終わっているとは言い切れない、微妙な時間だ。とはいえ、頼れるのは園長しかいない。
着信履歴から園長を選び、呼び出し音を聞く。沢岡がしていたようにできるだけ距離を取って、カーテンを引いた。差し込む街灯の灯りを確かめながら、窓を開く。振り向くと、バスルームの扉がゆっくり開いた。
「先生、お願い、出て」
未だ途切れそうにない音に半泣きで頼み、見えないものを窺う。でも今日ははっきりと、水を含んだ足跡が見えた。重く引きずっているような、小さな足跡だった。
ようやく途絶えた呼び出し音に、先生、と縋る。
「泣いたりしてないのに、出たんです!」
「出る前、何を考えてた?」
「そんなの思い出せません、もうすぐそこまで」
裸足のまま庭へ駆け下り、窓を閉める。いざとなったら隣家にでもと思ったのに、なぜかどこの部屋の電気も点いていない。
静かに引かれていく窓に、涙が溢れた。もう、だめだ。
「先生、ごめんなさい。私もう無理です」
「諦めないで。思い出して、何を考えてた?」
「……えっと、そう、喘息が、喘息が私じゃなかったって」
「じゃあ、誰?」
「誰? 誰って……」
前回と同じように、少しずつ雑音が混じり始める。後ずさりながら記憶を辿る。誰、誰だろう。誰か、私は「誰か」を忘れている。脳裏を小さな影が掠めて消えた。
私に向かって少しずつ迫る、水を含んだ足跡を見る。私よりずっと小さな足跡。そんなの、薫子しか。
「薫子ちゃんじゃないんですか」
「違う、思い出して!」
この前と同じ塀の際まで追い込まれて、しゃがみこむ。そう言われても、もう。砂嵐のような音が聞こえ始めると同時に、足元から少しずつ姿が浮き上がっていく。白っぽく透ける姿はずぶ濡れで水が滴り、ソックスがずれて、脚に張りつくスカート……制服、が。
胸の辺りまで見えた姿には、うちの園とは違うエンブレムが縫いつけられていた。あれは私も通っていた、幼稚園の。
「……
ぽそりと呼ぶと、幻のような姿が揺らぐ。
「妹、妹です、美祈子です! 助けてください!」
「スピーカーにして、そっちに向けて!」
指示に従い、スピーカーボタンを押して御言葉の流れ始めた携帯を向ける。ところどころ途切れながらも、園長の声が響く。
突然、伸びた手が携帯を向けている私の手首を掴んだ。じっとりと湿った小さな手はまとわりつくように絡んだあと、大きさに似合わぬ力で締め上げ始める。
軋む音を立てる手首に呻きながら視線をやると、首元まで姿が見えた。長い髪は濡れそぼって、制服の襟元も、まるで溺れたかのような。
気づいた私に、美祈子は突然目の前まで近づく。口元まで浮かび上がった美祈子は、振り払おうとした私の腕に思い切り噛みついた。
声にならない痛みに悶えて転がる。美祈子は私の腕から離れると、今度は犬のように唸りながら飛び掛かって私の首を狙った。
「やめて美祈子、やめて!」
押し返す手の向こうで、少しずつ顔が明らかになっていく。私に似ていたはずの顔は、敵意を剥き出しにして歪んでいた。黒い穴のように表情のない目はそれでも、私を睨んでいるのが分かる。
どうして……いや、当たり前だ。憎んで当然だ。憎まれて当然なのだ。
美祈子を殺したのは、私だ。
全てを思い出した途端、抵抗していた手が緩む。もうこのまま、首を噛み千切られても構わなかった。でも優秀な園長の祈りが効いて、美祈子はとどめを刺す前に霧のように散ってしまった。
「大丈夫?」
「割と、ずたぼろですけど、なんとか」
荒い息を吐いて塀に凭れ、街灯に照らされるいつもどおりの庭を眺める。いつの間にか、周りの部屋には灯りが戻っていた。
「あの、霊なのに物理攻撃されたし、こっちも触れたんですけど」
携帯を持ち直した手が痛む。確かめた左腕には、歯型に血が滲んでいた。
「それだけ思いが強いんだ。まだ少しも風化してない」
ああ、と納得して視線を落とす。くっきりと残る歯型がじん、と痛み始めた。
「私、憎まれてるんですね。当然ですけど」
「その辺を改めて聞きたいから、月曜日に教会に来て」
「はい」
呟くように答え、汗ばむ顔を拭う。手の下で露わになった美祈子の顔を思い出し、蘇る悔いに唇を噛んだ。
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