九、令和元年五月二十二日(水)
25.
『熱が落ち着いたようなので帰ります。
また電話しますが、何かあればすぐに連絡を』
いつ買って来たのか、テーブルの上にはゼリー飲料とヨーグルトとプリンが詰め込まれたレジ袋があった。
乾いた喉に早速ゼリー飲料を注ぎ込み、急くように薬を飲む。温くなっていたから、しばらく経っているだろう。冷蔵庫に入れていないのは、気遣いか。
汗でべたつく体を引きずり、冷蔵庫へ向かう。深呼吸を一つしたあと、そっと開いた。
がらんとした空間に、白い光が満ちている。昨日の残酷さは僅かも見えない平和な庫内に安堵して、レジ袋の中身を移していく。
――お子さんだから、自分に気づいて欲しくてちょっかいを出してるんでしょう。
住職はこれも「ちょっかい」だと言うのだろうか。しょーくんや幸絵の不可解な死も全部、子どもの取るに足りないいたずらだと笑うのか。
ふと湧いた不審に、パーカーのポケットへ手を突っ込む。身代守は買った時のまま、特に私の身を守ってくれたようでもない。
あの人は、本当に見えていたのだろうか。
思えば不安に揺れる胸に見切りをつけ、扉に手を掛ける。滑らせた視線が、扉のパッキンで止まった。
赤茶けたような色の薄い染みに何か、長いものが貼りついて。
髪だ。
慌てて扉から離れ、閉まりきらない隙間を眺める。途端にどくどくと打ち始めた胸に、また顔が熱くなっていく。でも園長は、「何もなかった」と。
爪先を伸ばし、行儀悪く扉を開く。相変わらずあった薄い染みは、指紋のようにも見えた。
髪はどこかへ落ちたのか、消えたのか。足を引いて這い寄り、床を探す。砂色のクッションフロアに一筋黒い色を見つけて、指を伸ばす。つまんで引き上げた長い髪は、途中で色を変えていた。
幻覚には、触覚もあるのだろうか。あるとしたら今触れているこれも、「偽物」なのか。私は今、この世にないものに触れているのか。
また、目眩がした。薬を飲んだばかりだから、まだ効いていないのかもしれない。その方がいい。もしこれが本物だとしたら、あの指紋は。
思い立って腰を上げ、戸棚へ向かう。掃除道具の引き出しから無水アルコールとぼろぎれの束を掴み、再びキッチンへ戻った。
ぼろぎれにアルコールを含ませ、真っ先にパッキンと扉を拭く。冷蔵庫の中身を全て取り出して棚を洗い、同じようにアルコールで拭った。床からつまみあげた髪は、作業を終えたぼろぎれに包み込む。庭へ出て、隅に転がっていた植木鉢を一つ拝借した。枯れた根を土ごと抜き、中へぼろぎれを入れて火を点ける。アルコールのおかげで、ぼろぎれはきれいに燃え上がって灰になった。
あとは再び根を戻し、元あった場所に転がしておく。煤はついたが内側だけだから、引き抜かなければ気づかない。少しだけ残った灰は辺りの土と一緒に掻き集め、アパート裏の水路に流した。
これで、大丈夫だろう。ここには何もなかったし、あの人も何もしていない。震える手を固く組み、薄暗い天に祈ったあと部屋に戻る。
気を紛らわせたくてつけたテレビを、下世話なワイドショーから教育番組に替える。今はもう、平和なものだけでいい。明るい声を耳に流し、煤で汚れた手を見る。最後の証拠隠滅のために、バスルームへ向かった。
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