24.
眠りに就いてしばらく、自然と目が開く。部屋は相変わらず薄暗く、遠くに雨の音がする。向かいの本棚が薄い影を流していた。どれくらい眠っていたのだろう。
枕元に携帯を探そうとした時、足元の、窓の方で物音がした。すぐに手を引っ込め、もう少し布団を深く被る。布団の中で震え始めた手を固く組んだ。
何かを引きずるような音は不規則で、固く瞑ったばかりの目を薄く開く。何かが少しずつ近づいているのが分かった。押し寄せた恐怖と不安に、頭が汗を噴く。荒くなりそうな息を必死に宥め、落ち着かせる。音が更に近づいた時、すぐそばに紺色の、園の制服が見えた。短く息を詰めた時、制服は突然足を止める。耐えきれず目を閉じて、祈り始める。
みしり、とベッドに何かが乗る音がする。枕元だ。何かが、確かに「何か」がいる。
泣きそうになりながら、何百回となく唱えた祈りを唱え続ける。何かが、すぐそばまで近づく気配がする。私を、見ている。動悸が短く、息が震えてしまう。生温かい息が、頬の辺りを掠めた。
神様お願いです、どうかお守りください。
必死の祈りを繰り返し、ただひたすらに恐怖が過ぎ去るのを待つ。
やがて気配は離れ、また引きずるような音が響き始める。少しずつ遠ざかった気配は程なく消え、音も聞こえなくなった。
辺りはまた、雨の音が響くだけの日常に戻る。目を開き、おそるおそる確かめた時間は四時だった。汗だくの体を起こし、慎重に見回す。枕元に血の手形があるわけでも、ベッド脇に何かを引きずった跡があるわけでもない。あれは、なんだったのか。でも紺色のあれは、園の制服に見えた。
重い頭を回しながら、ベッドから下りる。干上がった喉にキッチンへ向かい、冷蔵庫のドアに手を掛けた。
「うわ」
指先に何かが絡んで、思わず手を離す。見ると、閉められた扉から髪の毛が溢れていた。
驚いて飛び退いた拍子に、よろけて尻もちをつく。そのまま壁まであとずさったあと、改めて冷蔵庫を見る。見間違いではない。確かに、冷蔵庫から髪の毛がはみ出している。栗色の、長い巻き髪だ。
思い浮かんだのは幸絵だが、そんなわけはない。幸絵は署で死んだはずだ。死体がこんなところにあるわけがない。幻覚だ。幻覚のはず。
動悸は激しく、息は荒くなるばかりで落ち着かない。冷たい汗がこめかみを伝い落ちていく。
小さな声で祈りつつ、少しずつ這い寄る。本当は
深呼吸をして、髪の毛を避けるように扉を掴む。唾を飲み、途切れた祈りを震える声で続ける。祈りが終わる前に。息を詰め、勢いよく扉を開いた。
中から私を見据え返したのは、幸絵ではない。横向きになったしょーくんの首、だった。
思い切り閉じたあと、一層激しく打つ胸を押さえて崩れる。今はもう、栗色の巻毛はどこにもない。
――頭は今も探してます。
まさか、だ。そんなわけがない。違う。幼稚園で見たのと同じ、幻覚だ。こんなものは。
半ば自棄で再び開いたドアの先にまだ、それはあった。半分が茶色の長い髪を、二段目の棚からだらりと垂らしている。
今度は閉じることもできないまま、後ずさる。もう、分からない。本物なのか、幻覚なのか。
ベッドへ戻り、携帯を掴む。もどかしい指で着信履歴を開き、一番上にある名前を押した。
「早く、早く出て」
泣きそうになりながら、響く呼び出し音を聞く。やがて、呼び出し音が途切れた。
「冷蔵庫に、頭があるんです! 二回見ても、しょーくんの頭なんです! 本物かどうか、もう分からなくて」
「聞くから、少し落ち着こう。深呼吸、できる?」
繋がるや否やまくし立てた私を、園長は落ち着かせる。震える手で携帯を握り直し、指示されるままに深呼吸を繰り返す。五回ほど繰り返して、ようやくベッドに座った。
「大丈夫?」
「はい。すみません、自分でもおかしいことを言ってるのは分かってるんです。でもこれまでは、幻覚なら一度で消えてたんです。でもさっきは確かめようと二回開いても、やっぱり、あって」
伝えたあとに、別の不安に気づいて顔を上げる。
「……私、殺してません! そんなことは、絶対」
「大丈夫だよ、疑ってない。君が殺したんじゃない」
園長は、穏やかな声で宥めた。
「でもここにあるなら、私が疑われます。さっき、髪の毛に触ってしまったし」
「何も問題はないよ。少し良くないものが見えただけだから」
園長の声はいつもより丁寧に、一定の高さで淡々と続く。
「さっきもクローゼットの中に顔があったんです。どうして、こんなものが見えるんですか。これまで見えてなかったのに、どうして。御守だってあるのに」
こんなことを言えば言うほど、私は「おかしな人」になっていくのではないだろうか。普通の階段を転げ落ちていくのが分かる。
「大丈夫だよ、君はおかしくない。これから行くから、横になってて。何か見えても無視して、冷蔵庫にも近づかないで」
不安を掬い上げてくれた言葉に、肩の力が抜ける。息が深くまで吸えた。震えていた手が、しっかりと携帯を握り直す。
「分かりました……あの」
「何?」
「ありがとう、ございます」
「気にしないで。僕がしたくてすることだから」
呟くような礼を零した私に、園長はさらりと答えて通話を終えた。
温もった携帯を置き、震えなくなった手をさすり合わせながら横になる。喉が渇くが、今はキッチンへ行く勇気がない。冷蔵庫なんて、見るのもいやだ。
――牧師とはいえ、相手は男ですから。
蘇ったいやな台詞に胸が澱む。違う。私はともかく、園長はそんな人ではない。
溜め息をつき、ぼんやりと部屋を眺める。部屋干しの下着に気づいて跳ね起きた。
程なくして姿を現した園長は、憔悴しきった私を見て苦笑する。
「僕が冷蔵庫を確かめて何もなかったら、ご家族に迎えに来てもらおう」
「それは、できません」
「じゃあ、僕の手を取ると約束して」
ベッドへ腰を下ろした私の前にしゃがみ、園児と話す位置から私を見上げた。まっすぐな視線に邪なものを感じ取れないのは、種村の言うように私が機微に疎いからなのだろうか。
「私は先生の強い推しで採用されたって、本当ですか?」
質問で返した私に、園長はまた苦笑を浮かべる。
「そんなことはない。ちゃんと榎木先生と副園長の協議の結果だよ。副牧師は園の運営にはノータッチだ。まあ誰が何を言ったか予想はつくけど。ここに来た?」
「はい、さっき」
「それで追い詰められて、不安定になったのか」
溜め息交じりに納得し、そうだなあ、と呟くように言った。
「いくら四十間近で周りに『牧師が結婚しないなんて』と言われてようと、一回りも下の女性の弱みにつけこむような真似はしない。たとえ君が回復の途中で僕に牧師に対する以上の気持ちを抱いたとしても、その誤解につけ入るつもりもないしね。君は自分に見合った真面目で誠実な男性と結婚して、幸せな家庭を築くべきだ」
見つめる私に頷き、腰を上げてキッチンへ向かう。過去の荒れ具合など予想できない清廉としたスーツの背を見送って、長い息を吐いた。
牽制は、分かりきっていたことだ。私が選ばれることなど絶対にない。
「大丈夫、なかったよ」
無事を告げる声に、視線を上げる。園長はまた、私の前に腰を落とした。
「ここに来たのは、種村って記者だね」
「はい」
「彼が帰ってから頭を見つけるまでに、何があった?」
何、と尋ねられればそれは。
「熱っぽくて、横になって。ふと目が覚めたら、窓の方から誰かが入ってきました。ベッドのすぐ傍を、何かを引きずって歩いてて、それで」
あれは、全て見えるはずのないものだった。ちらりと見えた制服も軋んだ音も、全部この世にはないものだ。
感じた目眩に、額を押さえる。緊張の糸が切れたのか、急に頭が重くなって寒気を感じた。
「大丈夫?」
「すみません、ちょっと横になります」
断りを入れて横になり、繰り返し這い上がる寒気に小さくなる。寒い、と告げると、額にひやりとした手が触れた。初めて知る手のひらは、予想より柔らかい。
「熱がある。寒いのは、熱が上がってる最中だからだろう」
「寝てれば、良くなります。先生は」
もう帰れと言えない口を噤み、布団の中で膝を抱く。体は震えて寒いのに、まだ汗の出ない顔は火照って熱い。頭が熱くて、思考がまとまりをなくしていく。
「これ以上、自分を責めても誰も救われない。そこから、暗闇から出るんだ。君は最初から許されてる」
園長は珍しくふわっとした言葉を口にしつつ、差し伸べた手のひらで頬の熱を吸う。
「先生らしくない台詞ですね」
「たまには牧師らしいことも言っとかないと、忘れられる」
意識がぼんやりと漂い始める。視界に穏やかな笑みが揺れた。
「タオルと氷、借りるよ」
不意に離れそうになった手を、思わず捕まえる。
ああ、だめだ。こんなのは全部、熱のせいだろう。口をついて出そうになった台詞を飲み、手を離す。園長は、すぐに戻るから、と子どもをあやすように私の頭を撫でた。
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