五、令和元年五月十六日(木)

12.

 アラーム音に目を覚まし、体を起こす。くらりと舞う視界に、こめかみを押さえて収まるのを待った。目を開いて確かめた光景は、いつもどおりのものだ。閉じられたカーテンの裾からぼんやりと朝日は漏れ、さえずりが聞こえる。

 大きく伸びをしてベッドを下り、窓へ向かう。カーテンを引く手は自ずと控えめに、怯えたように朝日を受け入れる。レースのカーテンも引いて、窓を開けた。早朝の、少し冷たい澄んだ空気を深く胸に吸い込む。

 昨日のあれは、夢だったのか。聞いたサイレンも犬の鳴き声も、夢の中のものだったのか。でもそうでなければ、いつもどおり眠っていた自分の説明がつかない。水を飲んでベッドへ戻って布団を捲ってあれを見た、あとの記憶は抜け落ちている。

 白い顔に穴を開けたかのような真っ黒な目が二つ、以前どこかで観た映画の幽霊によく似ていた。でも実際にいるのなら、全てがあんな見た目をしているわけじゃないだろう。だからあれは私の記憶と不安が見せた夢、でいいのか。

 ただでさえ現実と幻覚の境界線が揺らいでいるのに、夢まで追加されてしまった。今の私は、ちゃんと現実の私なのか。本当はアラームが今も私を起こそうと、鳴り響いているのではないか。

 波のように押し寄せた不安に耐えきれず、頭を抱えてうずくまる。

 夢なら早く、今すぐ覚めて欲しい。こんなことがいつまで続くのだろう。このままでは、とても耐えられそうにない。誰か、誰でもいいから私は「まとも」だと、「普通」だと言って欲しい。怖くてもう、どうすればいいのか分からない。

 心細さに押し潰されそうな自分を抱き締めながら、泣きじゃくる。どうしてこんな怖いのに、神様は助けてくれないのだろう。私はもう、見放されてしまったのだろうか。受洗していないから、救うべき人々の中に入ってもいないのか。それなら私は、何を頼ればいいのだろう。

 暗闇に放り出されたような不安は、奮い立たせる勇気をあっという間に食い尽くしていく。暗がりの中で唯一残った救いは、「死」だった。

 死ねば、楽になるのかもしれない。

 死ねば現実も幻覚も夢ももう、どうでも良くなるのだ。どんな苦しみからも解放されて、晴れて自由になれるだろう。顔を上げた先に、カーテンのタッセルが揺れていた。首に巻き付けるにはちょうど良さそうな長さだ。これなら、私でも。

 指先がひやりとした房の先に触れた時、背後で携帯のアラーム音が鳴り響く。慌てて腰を上げ、ベッドへ向かった。アラームを消すつもりで、スヌーズボタンを押していたらしい。

 改めてアラームを止めたあと、窓の方を眺める。垂れたカーテンのタッセルを見て、ようやくぞっとした。私は、何をしようとしていたのか。さっきまで浸されていた死の願いに、冷たい汗が湧く。死にたかったわけではない、こんな風に全てを投げ出す死は望んでいない。それでも、アラームが鳴らなければあのまま。

 今朝はもう、シリアルを掻き込む食欲も湧かない。全てを拒否しそうな胃を撫でながら、バスルームへ向かった。


 今朝の園は、二つの話題で持ちきりだった。一つ目は、昨晩の園長の記者会見だ。予想どおり、園長の強硬姿勢には賛否両論があった。名誉回復を求める保護者は多いが、情報が刷新されることで事件が忘れ去られない状況を心配する向きもある。とはいえ、園長の対応は基本的に支持されているようだった。

 二つ目は、今日未明に繁華街で見つかった若い男性の死体のニュースだ。それが「しょーくんらしい」と、まだ園には警察からなんの連絡もない状況なのに、盛り上がっていた。私は子ども達の預かりを一旦ほかの先生に任せてトイレへ籠もり、吐き続けた。胃液に混じる血を眺めながら、間違いであることを祈った。

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