11.

 予想どおり、左手に刻まれた痕は家に着く頃には消えていた。血が滲むような傷だったのに、ささくれていた皮膚のざらつきさえも今は確かめられない。これは聖痕のような、歓迎される奇跡ではない。私のストレスが、私を攻撃している。

 金曜日に受診をすれば、休職はほぼ間違いない。明確な病名がつくかどうかは分からないが、異常には違いないのだ。

 入力を終えた引き継ぎ資料を打ち出し、コーヒーを淹れに向かう。事件後に何度も打ち合わせはしたし資料は共有しているから、今更必要な引き継ぎはほとんどない。それに高橋先生は、私よりベテランだ。きっと私より上手にクラスをまとめてくれるだろう。

 やかんを火に掛け、一息つく。取り出した携帯には、弟から様子を尋ねるメッセージが届いていた。

 『その後、調子どう? ちゃんとごはん食った? 母さん達も心配してる』『食べてるよ、大丈夫。少しずつ楽になってるから心配しないで』

 むしろ逆の方向へ進んでいるのに、どうしてこんな嘘をついてしまうのだろう。あの人達が疎むわけがないのに。

 胸の奥を小さく引っ掻く何かを確かめながら、冷凍庫からコーヒー豆を取り出す。この前父が持ってきてくれた、私の給料ではなかなか買えないお高い豆だ。

 大切なものを尋ねられたら真っ先に「家族」と答える、それくらいには不自由のない子ども時代だった。不満なんて何も……ああ、そうだ。一つショックを受けたことがあるとしたら、小学校のことだろう。

 父は私に国立大の付属小学校を受験させて入れたが、それを後悔したのか弟は私立の小学校に入れた。私の通った小学校は厳しくて、これまで神様のお膝下で愛だの光だのとともに育った幼子にはカルチャーショックが大きすぎた。誰も神様の話をしないどころか、お祈りすらしない。給食の時に手を祈りの形に組んだら、変だと笑われた。これまでの全てが否定されていくようで、学校へ着いた途端に声が出なくなってしまったのだ。

 今は、あの時に似ている。家族みんなを心配させてしまった、と子どもながらに「大変なことをしでかした」自分にショックを受けたあの時だ。

 あと二年待てば弟が入ってきて一緒に通えると思ったのに、そうではないと分かった時もショックだった。私がだめだったからだろうと、ひどく打ち拉がれた。

 だからもう何も失敗しないように努力してきた、つもりだった。こんな風にまた、家族中の心配を集めることになるなんて。

 ふと漂い始めた異様な臭いに気づき、コンロを見る。やかんに掛かっていた布巾の端に、火が燃え移っていた。炎に包まれていくやかんに慌ててコンロの火を消し、ボウルに汲んだ水をぶっ掛ける。換気扇を最大にして、目の痛くなる煙を外へ流した。

 どうして、布巾が。やかんに掛けるわけはないし、布巾掛けはシンク側の端だ。都合良くここだけ風が吹くわけでもない。天井を確かめたが、警報機は大人しいままだ。この程度では、鳴らないのか。

 水浸しになったコンロから煤けたやかんを下ろし、布巾の燃えカスを捨てて拭き掃除を始める。さっき、ぼんやりと考えごとをしていた。あの時、手は何をしていただろう。コーヒーの支度をしていたはずだが、はっきりと覚えているわけじゃない。無意識に、自分でしたのだろうか。自分の何かに絶望して、殺そうとしたのか。私は、死にたいのだろうか。

 肌を走る冷たい感覚に、腕をさする。だめだ、こんなことは考えるべきではない。荒くなる息を抑え、水を吸った雑巾を絞る。床に零れ落ちた水も吸わせ、ひとまずの掃除を終えた。

 コーヒーを飲む気も失せて、コーヒー豆を再び冷凍庫へ戻す。動かしていたつもりだった手は、豆を挽いてすらいなかった。代わりに、何をしていたのか。

 揺らぐ視界に目を閉じ、顔をさすり上げる。今日はもう眠ろう。明日になれば、少しは楽になっているはずだ。癒やしの一杯を諦め、シャワーへ向かった。


 不審な音に目を覚ましたのは、夜中一時を過ぎた頃だった。こつこつと、窓を叩くような音がする。気のせいかと思ったが、気づいてしまうと目が冴えて眠れない。布団を被っても聞こえる音に、諦めて体を起こした。ベッドから下り、少しずつ窓へ近づく。前の通りに街灯は並んでいるが、その灯りを遮るために遮光カーテンを選んだ。少なくとも一枚は捲らなくては、向こうに何がいるのか確かめられない。

 相変わらず、音は不規則に続く。でも風で小石が叩きつけられているようなこともない。本当に私を呼んでいるようだったが、そんなことはありえない。何もないことを確かめて、また眠ればいい。

 カーテンを握り締めた手が震えて、開けない。じわりと肌を這い上がる恐怖に固まった。神様、どうかお救いください。小さく祈りながら、カーテンを握り直す。震える声は小さく、揺れてしまう。汗ばむこめかみを拭い、荒い息を吐く。

 祈りを終えると同時に、勢いよく引いた。街灯の青白い光が浴びせるように部屋へと差し込む。慣れない目を細めたあと、瞬かせながらゆっくりと開いた。

 音はやみ、今は遠くに救急車のサイレンが聞こえる。呼応するように、どこかの犬が鳴いていた。レースカーテンには外の影が落ちているが、不審なものはどこにもない。

 気のせい、か。

 さすがに窓まで開ける勇気はなく、カーテンを閉め直す。汗ばむ額を撫で、乾いた喉にキッチンへ向かった。荒く打つ胸も、水を飲めば落ち着くだろう。

 冷えた水で喉を潤したあと、再びベッドへ戻る。捲った布団の中で、小さな顔がにたりと笑った。

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