10.

 仕事終わりに検索したメンタルクリニックは、予想外の軒数だった。それだけ時代に必要とされているのだろう。家から程近いクリニック数軒のネット予約ページをチェックして、一番早く受診できるところを探す。一軒だけ、今週金曜日午後三時半からの枠が空いていた。

 子ども達のためには、行くべきだろう。私の休職が子ども達に与える影響より、このまま保育を続けて与える影響の方が大きい。取り返しのつかないミスをする前に、決断をするべきだ。休職したからって、失職するわけじゃない。きちんと帰って来られるはずだ。

 欄を全て埋め、送信ボタンを押す。ああ、送ってしまった。

 どうしようもなく沈む胸を宥め、日報の用紙を取り出す。筆は重いが、二日連続で起きた集団ヒステリーを書き残さないわけにはいかない。既に園長には失態を見られているし、副園長にも報告はした。メンタルクリニックの予約も済ませたし、今更逃げられるわけもない。見つめたペンの先がぶれて見えて、目頭を揉む。

 ちゃんと診てもらって合った薬をもらって、ゆっくり休めば全て良くなるはずだ。ちゃんと復職できる。

 胸の内で言い聞かせ、ゆっくりと目を開く。なんとなくいやな予感がしたが、見渡す限りなんの変哲もない職員室の景色だ。相変わらず鳴り響く電話は、明日からどうなるのだろう。園長の記者会見は今日の夜七時から、講堂には着々とマスコミが集まり始めている。

 どうにか書き終えた日報を手に、副園長の元へと向かう。

 副園長は疲れた表情で受話器を置いたあと、私に気づく。目元は落ち窪んで影を作り、化粧では隠せないくまが浮き出ている。蛍光灯の当たり具合もあって、刻まれた皺が一層深く見えた。勤続三十年を超える重鎮でも、今回の事件は堪えているのだろう。教会員としての信仰と教育者としての信念、子ども達への愛情に溢れた人だ。副園長自身は独身で、子どもを持ったことがない。ここの子ども達が我が子みたいなものよ、といつか話していた。

「あの、金曜日の三時半に病院を予約しました。よろしくお願いします」

「金曜の三時半ね、了解」

 副園長は安堵したように頷いて笑う。心配を掛けているのは分かっていた。相手は、職場の母だ。

 退勤の挨拶を交わして、職員室を出る。忘れていたわけではないが、玄関は職員も来客も子ども達も共用だ。当然のように記者に捕まった。

 とはいえ「何かあったら即通報」の園長の通達は当然知っているから、向こうも低姿勢だ。記者は週刊誌の名前が印刷された名刺を恭しく差し出しつつ、種村たねむらと名乗った。四十半ばに見える、固太りの中年男だ。

「その後、クラスは落ち着かれましたかね」

 手帳とペンを取り出しながら、種村は私を窺う。

「少しずつ日常を取り戻している段階ですので、ご配慮いただければと存じます」

「なんでも、集団ヒステリーが起きたとか」

 態度や口調が下手なだけで、情報を求める貪欲さまで控えたわけではない。思わず顔が強張ったが仕方ない。流れていても驚きはしない情報だ。保護者も不安で、一人では抱えていられないのだろう。

「申し訳ありません。園長にお尋ねください」

「そうですか。それにしても、今の園長さんはかなり辛辣ですよね。牧師ってもっと穏やかな方がするもんじゃないんですか? 職員さん達は、大変でしょう」

「いいえ、率先して職員や子ども達の盾になってくださって、皆が感謝しております」

 どうにかして園長の悪評を引き出そうとしているのだろう。今日の対処が表に出れば、当然のように批判する教会員も湧いてくるはずだ。「許すべき」だの「耐えるべき」だの、当事者でない立場の者はいつも好きなことを言う。

「独身だそうですけど、先生から見てどうです? 恋人にしたいレベルですか?」

 予想だにしなかった下卑た問いに、思わず眉を顰める。途端、手の甲に痛みが走った。まるで、爪が食い込むような。

「どうされましたか?」

 わざとらしく窺う言葉に苛つくが、相手をする必要はない。

「あまりに不快な質問をなさったので」

 肌を抉るように下りていく痛みに、思わず手の甲を押さえた。こちらの方が余程重要だ。

「失礼いたします」

 一息ついて頭を下げ、傍をすり抜けた。靴箱から引き抜いたスニーカーを置く時、左手の甲がちらりと見える。釘を引き下ろしたかのような赤い筋が四本、くっきりと刻みつけられていた。ひりつくような痛みだ。でもどうせこれも、すぐに消えるのだろう。どこまでが現実で、どこからが。

 言葉にすれば揺らぎそうで、飲み込む。逃げるようにドアをくぐった。

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