9.

 園へ戻り副園長に受診の心積もりを報告したあと、出欠連絡を確認して教室へ向かう。予想どおり、公輝は欠席だった。

「おはようございまーす」

 いつもの笑顔を作り、教室へ足を踏み入れる。子ども達の笑顔に迎えられる幸せなひとときだ。しかし今日は、一瞬見えた笑顔がすぐに曇った。昨日のお迎え組が見せたような、怯えた表情だ。日に日に、事態は悪化している。それでも集団ヒステリーそのものを打ち消す方法がない以上、予防しつつ起きたら対処するしか策はない。子どもの豊かな感受性や共感性を封じる真似はできない。

 ひとまず朝の挨拶をして賛美歌を一曲歌い、お祈りをする。「天国の薫子ちゃん」のために祈るのは、喪って以来続けていることだ。不安を抱き締めて宥める一方で、少しずつ「いないこと」を受け入れられるようにする。

 子ども達は、見えないのに見えると嘘をついているわけではない。本当に見えているのだ。必要なのは否定でも叱責でもなく、見えたそれはもうここには存在しないものだと教えること。「いる」日常を、「いない」日常へと移す教育だ。

 祈りを結び終え、目を開く。

 同じように手を解き目を開いた子ども達が、じっと私を見つめる。目の前にいた彩乃が、見る間に目を赤くして泣き出した。

「かおるこちゃん、てんごくじゃない。そこにいるもん!」

 悲痛な声に呼応するかのように、ほかの子ども達も次々に泣き始める。

「彩乃ちゃん、大丈夫よ」

 落ち着けようと伸ばした手が触れるより早く、彩乃の体が突き飛ばされたように後ろへ飛んだ。

「やめて! わたしなんにもしてないのに!」

 泣きじゃくりながら、彩乃は私のいない空間を見てヒステリックに言い返す。やめて、と顔を庇う仕草にはっとして、拾い上げるようにして抱えた。

「大丈夫、大丈夫よ。先生が抱っこ」

「いたい! あしいたい!」

 腕の中でもがく彩乃に、慌てて脚を見る。ずり落ちたソックスの上、ふくらはぎにくっきりと残るのは、あの小さな歯型だった。

 もう、無理だ。

「すみません、ちょっとお願いします!」

 高橋先生とカウンセラーにあとを任せ、泣きじゃくる彩乃を抱えて教室を出る。今向かう先は職員室ではない。教会だ。今、今すぐどうにかしてもらわなければ、この子達が壊れてしまう。

 しかし教会へ行くまでもなく、園長の姿は玄関にあった。

「どうしたの?」

「今、また、この子の脚を見てください!」

 脚を、と向けた瞬間、血の気が引く。さっきは確かにあった痕が、消えていた。

「……さっきは」

 言えば言うほど苦しくなる言葉を飲み、小さくしゃくりあげる彩乃の背をさする。

「よし、じゃあ園長先生のお部屋でお話しようか」

 園長は険のない、柔和な笑みを浮かべて彩乃を窺う。穏やかな声の提案に、彩乃は涙に濡れた顔を向けた。園長室は滅多に行けない特別な部屋だ。洟を啜りつつ頷き、彩乃はすんなりと私の腕から下りて園長と手を繋いだ。


 彩乃が園長の膝で語るに、薫子はクラスのみんなに見えていて、私に近づこうとすると怒り『きらい』『じゃましないで』と言うらしい。生前の姿と、さほど変わらないものだった。

「えんちょうせんせい、なんでかおるこちゃんは、てんごくにいってないの? いけないの?」

「そうだなあ、今は神様に呼ばれる順番を待ってるとこなのかもしれないね」

 存在を肯定する返答に、少し焦る。それはこれまでと真逆の対応だ。そんなことを言ってしまったら、振り出しに戻ってしまう。

「待ってる間、幼稚園に遊びに来てるんじゃないかな」

「そうなの?」

「うん、きっと楽しい思い出がいっぱいあったんだろうね」

「でもかおるこちゃん、ずっとせんせいといっしょにいて……ああ、だからせんせいのとこにきたんだ!」

 腑に落ちた様子で明るく答え、彩乃は私を見る。そうだね、と返すと笑顔で頷いた。彩乃にはまだ、複雑な背景など察知できないだろう。彩乃ならきっと、私ではなく母親のそばに行くはずだ。

 幸絵に話せば少しくらい、母親としての所業を悔いるのだろうか。

 幸絵は地元では有名な秀才で、小学校の卒業文集には『地球温暖化を食い止める研究者になって世界を救う』と書いていたらしい。その夢を目指して大学進学も果たしたが、修士一年目に妊娠して結婚。大学院を中退して翌年、薫子を出産した。夫は一つ上の先輩で院を卒業後に就職したが、その頃から夫婦仲は悪化、薫子が二歳の頃に離婚へと至ったらしい。

――帰って来い言うても東京ですることがあるて、言うこと聞かんで。連絡も全然なあて写真すら送ってこんし、電話しても「元気にしとる」しか言わんで。久し振りに曾孫の名前聞いた思うたら、こんな。

 声を震わせ泣く曽祖父の姿は、何度も夜のニュースで流れた。枯れた老人を襲った悲劇は、悲愴さを盛り上げるのにちょうど良かったのだろう。近所の女性は「挨拶は普通にされてましたけど」「感じのいい方でしたよ」と言い、同僚は「営業成績はダントツでした」「子どもの話はしたことがない」と語り、幼稚園の保護者は「特に対応してたようには見えませんでしたけどねえ」「若い先生だし子育てが分からなくて見逃したのかなあ、なんて」と話していた。顔の上だけ隠したところで、声と合わせれば誰が話したかなんて一発で分かる。彼女達には、「対応していたように見えなかった対応」こそが正しかったとは考えられなかったのか。自分が知らなければ、「悪」になるのか。

 せんせい、と視界へ割り込む小さな手に、顔を上げる。

「おへや、もういけるよ」

「そっか、良かった」

 満面の笑みで腕を広げた彩乃を抱き締め、自分より高い熱に息を吐く。ふふ、とかわいらしく笑う声に安堵し、腰を上げて手を繋いだ。

「ありがとうございました」

「えんちょうせんせい、またね」

「うん、またね」

 上機嫌で手を振る彩乃を連れて、園長室をあとにした。

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