二章 信じ仰ぐ行方不明者達
第1話
一月十七日、INAPO東京支部。
出勤した途端、支部長室のソファに座らされたヒバリ。黒いポーチと、ヒバリの手で丁度握り込める太さのペンのようなものが二本、目の前のテーブルの上に置かれている。
ヒバリは視線を上向かせ、向かいに座る若い男を見る。細い目に丸眼鏡。
「なんですこれ?」目の前にあるそれらを、ヒバリは指差した。
「鎮静剤。使い方は、ケースから取り出して──」宮月が、ペンの蓋を開け、中身を取り出す。「横のスイッチをスライドさせる。で、そのまま、
使用方法よりも用途が知りたいのだが、と思ったが、
「気ぃ付けてや、君に刺さったらボクの責任になるさかい。でさ、シキョウ君が誰かの血ぃ無理矢理吸うたり、そやなかったら君に襲い掛かるようなことあったら、それ使うんや。迷わへんで、ぶすーっとね」
子供みたいな効果音。宮月は何が面白いのかアハハと声を上げた。少し骨太な指が、ヒバリの膝で横たわる注射器を指す。
ヒバリは、街中で暴れる象じゃあるまいしと冗談交じりに返そうとして、宮月のいつもは穏やかに細められている目が厳粛さを
「……シキョウさんはそれを了承しているんですか?」
「勿論! ちゃんと本人に直接伝えとるよ」
「言葉を
宮月は答えなかった。つまり、本人ははっきりそれを承知しているわけではないということだろう。ヒバリの眉間で、微かに皮膚が歪む。
「過去にそういったことがあったとか?」
「いいや。そういうわけやないよ」
「他の吸血鬼の職員も、これを持たされてるんですか?」
「いいや。うちの職員の中で吸血鬼なのなんて、シキョウ君だけやもん」
ヒバリは意外そうに瞬いた。てっきり、少なくとも数人は、吸血鬼の職員がいると思っていたのだ。そんな反応に宮月は「信心深いさかいね、彼は」と
「前例があらへんのよ。そやさかい皆不安がってる、安全なのかって。彼が組織に所属しはる上で、鎮静剤は必要な措置や」
ヒバリはまだ、吸血鬼の全てを知っているわけではない。
宮月が言う通り、人間と同じ社会に所属するためには必要なことで、共存のための警戒心や安全策なのかもしれない。本人の了解の有無に拘わらず持つべき手段なのかもしれない。けれど──ヒバリが感じたのは、宮月からシキョウへの、まるで犯罪歴がある隣人を睨み付けるような、疑心。
「……宮月さんは、シキョウさんを信用していないんですか?」
答えはやはりなかった。彼は立ち上がると、「話はそれだけやさかい。もうええで」と言った。いつも通りの軽い口調だったが、その態度はヒバリを追い出すようだった。
支部長室を出て、ヒバリは片手で額を押さえた。
──薄々思ってたけど……この職場、雰囲気が若干ギスギスしてる……。
前のバイト先だった居酒屋は
大事な話をするから、と伝えられていたため一応切っていた電源を入れると、チャットアプリに母親からメッセージが入っていた。
げ、とヒバリの口からあからさまに嫌そうな声が出た。思うところがあって、既読つけたくないな、とごちる。しかし長時間放置すると今度は電話がかかってくることは経験済みだったため、大人しくアプリを開いた。
『
その簡潔な文章に、ヒバリは支部長室の前でダメージを受けたように仰け反った。
「……、……カラオケいこ!」
自分がこれ以上ネガティブな反応をする前に、ヒバリはポジティブな行動をすることに決めた。ヒバリは前向きであったので、セルフケアも
十分ほどしてシキョウが仮眠室から出てきて、二人は業務を開始した。
INAPOはいくつかの部署に分かれているが、二人の所属する『生活課』の主な活動は、『生活観察』と呼ばれるものである。その内容はデータベースに登録された吸血鬼の生活状況を観察・把握し、必要時指導するというもので、東京支部は二十三区内にいる吸血鬼約三千名の生活観察を担っており、ヒバリとシキョウも新宿区の吸血鬼らを訪問することを任されていた。
寒冷前線が通過したことで暴力的な寒さに襲われる新宿・歌舞伎町の夜。『眠らない街』と聞いたら真っ先に想像するだろう特徴的な赤いアーチを
ところで、ヒバリは短気な性格である。
回りくどいことは嫌いで、基本的に疑問に思ったことはストレートに訊く。
なので道中ヒバリは、注射器を持たされたことをシキョウに話した。鎮静剤が相手の意識状態や認知機能を強制的に抑制する作用があることも聞かされていたので、それも踏まえて、自分がもしもそういった事態──シキョウが、誰かを襲うような──に直面した場合、使用してもいいかと問う。その答えは、呆れを含んだ視線だった。
「いいかもなにも、鎮静剤の携帯は君の義務であり、鎮静剤を携帯した君と行動を共にすることは私の責務だ。私の意思は介入しない」
「や、ちが……ちが、く、ないかもしんないですけど、シキョウさん的にはどうなんです? ムカついたりしません? 私はなんかちょっとモヤってます」
シキョウは道中で買ったカフェ・モカを小さく呷ると、考える間を取るように息を吐き出す。余談だがこの吸血鬼、甘い飲み物が好きらしく一日に二回は必ずスタマのカフェ・モカを飲む。糖尿病になりそう、とヒバリは若干心配している。
「宮月が言うのならば、その措置も正しいことなのだろう。くだらない質問はやめろ」
その答えに更なる問いを重ねるのに、ヒバリは数秒の沈黙を要した。二人の周囲だけがやけに騒がしく、この寒い中でも仕事に精を出すキャッチの軽やかな声が道行く人々を縫うように飛んだ。「お二人さん今お席空いてますよ」という誘い文句が二人のどこにも絡まず虚しく宙に霧散した頃、ヒバリが顔を上げた。
「いや、そうじゃなくて、シキョウさんはどう? って話です。宮月さんとかじゃなくて、『シキョウさんはそういう扱いに不満はないのか』を、私は聴きたいです」
どうですか、というようにくるんと翻された手の平。シキョウはそれにぱちりと瞬きをして、「私か?」と確認。うんと頷く。数学という概念に初めて触れた子供のように難しい顔を、シキョウは無防備に晒した。今まで片手で持っていたカップにもう片方の手も添えて、道の先の方を眺めながら、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「……今まで従順に従ってきたにも拘わらずあからさまに警戒されると、やや不愉快ではあった。それと……鎮静剤という方法を選択したことについて、吸血鬼の抑制方法を考えるならば私の意見も聞いた方が賢明だっただろう」
「『頑張ってきたのに信用されてないんだなぁと思ってキッツ。あと突然いざというときは鎮静剤使って強制的に落ち着かせますって言われたら驚くから相談しろ』、と」
シキョウが全ての歯間に苦虫を詰め込まれたような顔を晒した。しかし、否定しないということは、ヒバリの翻訳がシキョウの考えと違わないことを示していた。
話をしている内、目的地に到着した。温かみのあるレンガ調の外観が特徴の五階建てマンション。そこまで古い築年数でもないだろうが、滲み出ている生活感から新築でもないだろうと想像出来る。端末のデータを元に五〇二号室を訪問する。
二人を出迎えた吸血気は、朗らかな雰囲気で三十代半ばほどの外見の男だった。
軽く生活状況を訊き、何事もなさそうだと判断すると、「それで、困ったことや、相談したいことはあるか」と、シキョウが義務的に訊いた。
「ああそうだ。
提供者。なんの、とヒバリがシキョウを見上げると、「血液の提供者だ」と返された。
「僕ほら、パックよりも
そう言って眉尻を下げた吸血鬼は、言葉の通り純粋に心配しているようだった。
「……わかった、宮月に確認する。他には」
「特には」
「そうか」
それから一通り生活状況を把握すると、二人は次の訪問日を告げて部屋を出た。
「結構若い感じの人でしたね」
外見のことではない。吸血鬼はどれほど若く見えても、長く生きた年月がそう見せるのか皆一様にどこか老成した雰囲気を纏っている。先程の吸血鬼はその雰囲気があまり感じられず、外見相応くらいに見えた。
「最近成ったばかりの吸血鬼だ。師からの独り立ちもまだこれからだろう」
「独り立ち?」
頷くシキョウ。
「吸血鬼とその眷属の多くは師弟関係を結ぶ。三十年ほど時間をかけて師は弟子に吸血鬼としての生き方を教え、頃合いになったら別れる。中には何百年と行動を共にする者もいるが、長すぎる時間は時に不和を生む。よほど心配性でなければ、いずれ離れて生きる」
ヒバリに吸血鬼の感覚はわからないが、人間と変わらないと仮定すれば、家族だろうが他人だろうが百年単位で常に一緒にいればうんざりもするだろう。そう考えれば、いずれ別れることは自然な流れなのかもしれない。
「だが、弟子が起こした問題は師の責任に直結し、やがて全体の問題に発展する。吸血鬼が掟に厳しいのは、犯した罪が一族全体に影響を与えるためだ」
「ああ──レキさんが言ってましたね。殺人とかですっけ」
「明確に出来たのはここ最近だ。一七〇〇年代前半に、『吸血殺人』、『未成年の眷属化』、『入信』が三大禁忌となった。この三つを破ることは一族の安寧を脅かすことになり、」シキョウが自分の首に手を添える。「処刑対象となる」
しょけい、とヒバリは頰を引き攣らせた。人間側の常識と倫理観が、吸血鬼側のそれらと遠くかけ離れている。なんと反応していいか迷い、最終的には「へ、へえ」と返事に困ったことがありありとわかる相槌になった。
「他に質問は」
と、シキョウ。吸血鬼関連の質問には答える、という頼みには応えてくれる気らしい。
「じゃあ……シキョウさんの師匠は、今どうしているんですか?」
その問いに、シキョウは僅かな沈黙を選んだ。個人的な質問過ぎただろうかと嫌味に備えていると、案外穏やかな言葉が返ってきた。
「私の師に当たる人とは、もう長い間会っていない。一族とも少し距離を置いている人だから、私が問題を起こしたとしたら、真っ先に責められるのは兄の方だろう」
「へーお兄さ……えっお兄さんいるんですか? シキョウさんに? あーでも、確かにシキョウさん長男とか一人っ子って感じじゃないですね」
「違う」苦虫エキスを鼻から入れられたような渋面が即答する。「兄弟子という意味だ。私よりも早く師の眷属となった。一時期実兄として育ててもらっていたからそう呼んでいるだけだ」
悠久に身を委ねる吸血鬼であるシキョウにはっきりとした身内がいることにヒバリは驚き、同時に安心した。INAPOでは何かと扱いが良くないらしい彼にも、守ってくれる家族のようなものは存在すると理解したのだ。
「お兄さんどんな人なんですか?」
「掟を尊重し、誇り高く、非の打ち所がない。彼自身が過ちを犯すことは、千年二千年先にも有り得ないことだ」
珍しく
「……先程の話の続きだが……万が一にも私が血の臭いに当てられ、意識を制御出来なくなることがあったときは、第一に私から離れ、不可能であれば鎮静剤を使え」
ゆっくりとした口調でそう続けた彼に、ヒバリは気遣うように視線をやる。
「……目が覚めたとき、人を殺しているより。……兄弟子が責められるよりかは良い」
その言葉にヒバリは微かな違和感を覚えたが、紫水晶の
──にしても、意外だ。自分のことはあんまり話したがらない人かと思った。
性格は合わないし気難しいが、律儀なのかもしれない。そう考え、ヒバリはあまり気にせず、一歩の大きいシキョウに置いていかれないよう歩幅を広くした。
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