第10話



 二日後、一月十三日。

 スターマックス新宿西口店で、ヒバリがコーヒーを注文していた。

 受け取った直後、誰かに肩を軽く叩かれて、振り返る。


「──千代原さん」

「こんにちは、ヒバリさん」


 寒さを防ぐ黒い革手袋ときっちりワックスで纏められた黒髪。駄菓子屋の店主を思わせる微笑みを携えた千代原がそこにいた。背後のカウンター席を見ると、中途半端に飛び出した椅子と、机の上に置かれたコーヒーと本が目に入った。


「休憩中ですか?」

「ああ。ヒバリさんもかな?」

「ええ、まあ」


 スリーブ越しの熱を確かめるように手に力を込める。千代原は、どこか物悲しそうに眉尻を下げると、ヒバリに隣に座るよう促した。ヒバリは素直に、それに従う。


「……あの三人だけれど……」少し言葉を切る千代原。「やっぱり、由貴さんの件だけ否定し続けている。まあ、実際にそれが真実だったわけだけれど……起訴が出来ようと出来なかろうと、世間が彼らの言葉を信じることはないと思う」

「……はい」

「刑事らしからぬことを言ってしまうと、このまま由貴さんの分の罪も上乗せされてしまえと思うよ。彼らの被害者は声を上げていないだけでまだいるだろうし、その分ということでいいだろう。苦しみながら暗いところで罪を償って一生を過ごせばいい」


 千代原は、取ってつけたように「なんてね」と苦く笑った。彼の言う通り警察官のする発言ではなかったけれど、綺麗事を蹴り飛ばすようなそれは、ヒバリの心を幾分か軽くした。

 と、千代原が話題を変えようとしたのか、「シキョウ君とはどうだい?」と訊いた。


「そうですね……まあ、なんとか」


「そう」千代原は安堵したように返してから、自分のカップを持ち口元に持っていく。だが、直ぐに表情を曇らせ、難しい病気を子供に説明する医師のようなをヒバリに向けた。「吸血鬼が自分のけんぞくを選ぶ基準を知っているかい?」


 ヒバリは首を横に振って、否定する。


「人をける美貌を持っていることや、規則に従順であることもあるけど……、一番は『孤独な人』という点なんだそうだ。その人が吸血鬼になって、突然いなくなっても誰も探さないような、周囲との関わりが限りなく薄い人」


 千代原はもう一口、コーヒーを飲む。


「……『孤独な人』」


 呟いて、ヒバリはレキのことを思い返す。彼の事情は知らないし、何故吸血鬼になったのかもわからないが、その言葉がぴったり当て嵌まると思った。



「そう。だからね──なんじゃない。んだ」



 隣の席に座る女性が電話する声や、テーブルに固まって座る学生らしき集団の笑い声、店員が注文を受ける声、それに店内のジャズ調のBGM。多くの音があふれているのに、千代原の声は大きな存在からの警告のように、はっきりと聞こえた。


「ヒバリさん、貴方は──孤独じゃない。貴方はとても自分の感情……特に『怒り』に素直だ。それは、自分の感情を今まで、周りの人に否定されていなかったからだろう。受け入れられ、共感されてきたからこそ、自分の怒りを正しいものだと信じている。自分の怒りに抵抗がない」


 千代原の言う通りだった。ヒバリは嫌なことがあったとき、父や友人に話すと必ず「それは酷いね」という反応が返ってきた。怒るようなことがあったら一緒に怒ってくれたし、大きな問題が起こりそうなときは助けてくれる大人が必ず傍にいた。


「由貴さんもレキさんも、そしてシキョウ君もまた、孤独だ。貴方だけが──違う」


 千代原のカップの中身が空になった。れいさを携えたまなしが、ヒバリを貫く。


「お節介な忠告になってしまうけれど、期待して傷付くのは貴方だ。線を──」革手袋に包まれた人差し指が、机上でヒバリと千代原の間を横断する。「──引かなければ」


 小さくなっていたボリュームを戻したように、周囲の喧騒が耳に入るようになる。

 ヒバリは指先を見詰めたまま瞬いて、口を開いた。


「……傷付くのは構いません。傷付ける気もないです。ただ──私にも私の目的があります。そのために必要なら、線もまたぎます」

「……そう」


 千代原は静かに頷いて、ヒバリを見送った。




 外に出ると、夜が彼女を迎える。

 人混みが、家電量販店ののんな音楽が、何の関心も持たないどこかぼんやりした視線が、ヒバリの方には向かない靴達が地面を蹴る音が。──自分の直ぐ傍にいる人が怪物かもしれないと考えることのない、そんな、幸福な夜。



 朝日が夜を焼く前に、ヒバリは一人、歩き出した。



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