第9話
5
葬儀場の駐車場で、弾かれるようにタクシーを降りる。
耳に当てた端末に向かって、ヒバリは叫ぶ。
「鈴木由貴が吸血鬼だとして、なんで死ぬ必要があるんですか!」
『彼女が死んだことで生じたのは、あの三人組に対する世間の厳しい目と厳罰を求める声だ。これが望みだとしたら、知り合いの中に被害者がいたのかもしれない』
ヒバリの脳裏で、春香の姿がちらついた。人間のふりをして学校に通った吸血鬼の、親しい友人。大きく息を吐き出して、駐車場から葬儀場の入り口を目指す。
「人間の血を飲めば生き返るんですね?」
『……由貴は、落下前に人間の腐った血を飲んだはずだ』
「腐った血?」
『吸血鬼を作った後、人間社会で死んだと見せかけるために用いるものだ。それには、数日仮死状態にする効果と、そのまま放置すると吸血鬼を殺す効果がある。だが、仮死状態の間ならば、通常の血液を与えれば
入り口には、『故鈴木由貴儀葬儀式場』の看板が立てられていた。警備員がヒバリを止めようとしたが構わず中に入る。ロビーを抜け、式場の扉を開け放った。
話を聞きたかった。彼女にかけるための言葉を、いくつも、用意した。それは。
──式場がもぬけの殻でなかったら、使えたかもしれなかった。
混乱が皮膚を
「あの! 鈴木、由貴さんは、由貴さんのお葬式は……」
職員は整わない呼吸を繰り返すヒバリを少し心配そうに見てから、「鈴木由貴さんのお葬式は、先程終わりましたよ」と告げた。
「ご友人ですか? 大丈夫ですよ、お別れには間に合います」
「お別れ、……」
「はい。火葬場は、直ぐ近くですから」
火葬場──。遺体が──否、由貴が、燃える。燃えてなくなる。
場所は、と思ったとき、職員が「電話してお骨上げを待ってもらいますか?」と訊いた。強く頷き直ぐに繫いでもらうと、火葬場の職員が出た。
「すみません、鈴木由貴さんのお葬式に参列する予定だったのですが、遅刻してしまって……、あの、火葬を、待ってもらえませんか」
『鈴木由貴さんの──失礼ですが、お名前を伺っても?』
ヒバリは言葉に詰まって、少し迷って「『レキ』です」と伝えた。『確認しますね』という、柔らかい返答。
ここに着いたときから、否、もっと以前、シキョウから連絡が来たときからずっと、横隔膜に粘着質な泥が引っかかっているような不安感と不快感があった。嫌な予感と言い換えられるその感覚が、ずっとずっと、重くなり続けている。
やがて電話の向こう側から、『もしもし』と声が聞こえた。
『レキ君?』春香の声だ。彼女の喉が引き攣る、高い音がした。
「……ごめんなさい、ヒバリです。春香ちゃん、由貴ちゃんは……」
泥が滴った。春香が答える前から、由貴がどうなったのか、もう理解していた。
悲しみは既に、正しく春香を訪れていたのだから。
数十分後、シキョウは仮眠室で、ヒバリからの連絡を受けた。
「……そうか」
ただ短く、そう返した。今外を見ることが出来たら、彼女の肉と骨を焼いた煙が、空を流れているのだろうか。しかしシキョウが見ることが出来るのは、日の沈んだ暗闇の中だけだ。それは、レキも同じく。
仮眠室にあるベッド脇には棚があり、その上には、十字架とマリア像が飾られている。
吸血鬼は塞がれた窓に向かって小さく十字を切った。自分の長い人生の僅かな間だったが、他人のために、その魂の安寧を、確かに祈った。
同じ頃、レキのアパート。台所の前で、レキは自分宛ての手紙を開いた。
封筒は三つあった。一つは由貴の母親宛て、二つ目が警察宛て、三つ目がレキ宛て。この封筒は駅のコインロッカーに入っており、その鍵は、由貴が死んだときに着ていた上着のポケットにあった。
──「これから私は死ぬ。
あの晩、レキが電話で伝えられた内容はこれだけだ。悪ふざけでないことは直ぐにわかった。三百年以上一緒に過ごしたのだ、相手が冗談を言っているのか本気で言っているのかなんてことは目を見ずとも声色だけで判断出来る。
由貴が、命を賭けるほど何かを成さなければならない事情があるのだとしたら、自分のしくじりで台無しにするわけにいかない。──だからレキは指示に従った。
レキへの手紙には、春香の身にかつて起こったことが書かれていた。
『春香はお前と同じように善い人間だ。身を裂かれるように
春香はお前にかつてのことを話したがらないはずだ。お前もまた、自身の正体や、生きていく世界の違いを話すことは躊躇するだろうと思う。しかし、共にいるのであれば、お前があの子を見守っていきたいと願うのなら、どのようにすればいいか、考える必要がある。そのとき、私の
一枚目を、台所の流しに落とす。レキは、引き出しの中にあったマッチを手に取った。
『レキ。私は人を孤独にする存在を悪と呼ぶ。そしてこの世には、悪がある。人を孤独に陥れる悪が。お前の両親、由貴を襲った三人、そして私。この世は弱者にはどこまでも残酷に突き進み、どこまでも残虐に拳を振り下ろす。私が気に入らない人間の頭を捩じり切ったように、悪は人を簡単に孤独にする。
私はお前の師であるが、お前の悪でもあった。自分本位にお前を助けた気になって、本当はお前の孤独を深めたことを、心の底から、申し訳なく思う。
私は、私の怒りを抑えられなかったし、私の怒りに答えてくれる人にも出会えなかった。だからお前達には、そうではない道を歩いてほしい。
お前達が孤独から遠ざかり、悲嘆とは無縁で、人生を怒りで染めないことを願う』
二枚目を流しに落とし、マッチ箱を開ける。頭薬で側面を摩擦させると、赤々とした炎が燃え上がって、やがて落ち着き、火はゆっくりと指に向かって持ち手を燃やしていく。じっとそれを眺め、指先が火に
レキは、師が苦手だった。美しい人だったが、怖ろしかった。吸血鬼の名に相応しい冷血さと残酷さが、細胞の一つ一つを満たしているようで。いつも何かに怒っていて。
──でも、信頼していた。
暗闇を独りで生きる自信がなかったレキのために、ずっと一緒にいてくれた。手を引いてくれた。どれだけ血が手に入らないときも必ず、半分の量を分けて。
レキにはいずれ訪れるだろう。深い苦痛と、悲嘆と、混乱と、無力感が。でもそれを分かち合う人がいることを、師は祝福したのだ。そして祝福が、長く続くようにした。
わかっている──由貴のことを、彼女の意思を尊重するのであれば、レキがすべきことは彼女の死ぬ場所をここにすることだ。レキと春香を光の世界に押し上げようとしてくれている彼女を、思うなら。それが由貴の望みだ。
──だが、俺は。
──俺は孤独でも構わなかった。春香もきっとそうだ、暗闇でも、いいんだ。
自分の師が何百もの年下の人間と一緒に勉強している光景が好きだった。数学に頭を抱える姿が。春香が身振り手振りで教える姿が。それを眺めていられるなら、暗闇なんて怖くなかった。
──大事な人の消えた明るい世界より、大事な人のいる暗い世界の方が、俺は。
つけっぱなしにしたテレビから、ひっきりなしに三人組の犯行についてニュースが流れていた。世界は由貴の味方で、あの三人は痛烈に批判されていた。
窓の塞がれた部屋で火が
「……せんせい、」
赤い光の
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