第8話
4
この世には、悪がある。
「何故こんなことを!」
人を追い詰め、孤独にする、悪がある。
「殺すことなんてなかったはずです! 確かに彼は俺を殴ったが、死に値するような行いではなかった!」
彼女──セツは、それを畜生と呼称した。
「──畜生が一匹死んだくらいで騒ぐな」
セツは、自分の弟子の言っている意味が理解出来ない。むやみやたらに吸血したわけでも、血を吸いつくして殺したわけでもない自分の弟子が、昼間に外に出ないというだけの理由で痛めつけられた。吸血鬼だったから死なずに済んだものの、折れた
「この男は、何もしておらず無害だったはずのお前を傷付けた。人を傷付けることに躊躇のない人間はこれからも同じことを繰り返す。相応の結果だ」
弟子は恨めしそうな顔でこちらを睨み付けた。
言いたいことはわかっている。最初の五十年間延々と問い詰められたことだ、「何故俺を一族に引き入れたのか」──。
弟子を自分の
江戸の頃だった。地方の農村にある一家があった。その家の末の息子は家族から奴隷のように扱われ、延々働かされ続け、成人になっても家を出ることを許されなかった。放浪生活をしていたセツが川辺で寝ていた──当時はそう思ったが、今考えれば栄養不足で倒れていたのだろう──彼の血を頂戴し、予想よりもふらついた足取りで帰るものだから心配してついていってしまったのが、事情を知ることになるきっかけだった。その内飢饉が訪れ、家族は息子を真っ先に切り捨てた。セツは死の
正しい判断だったと、セツは思っている。けれどそれはセツの都合であって、レキの都合ではない。レキにとってセツは、自分を化け物にして光の世界から闇の世界に引き摺り下ろした張本人。それはセツもわかっている。
「俺は貴方のようになりたくない。人として大事なものを失いたくは……」
弟子はいつまで経っても人間のようだった。家族を憎むことも出来ず、しかし愛すことも出来ず、血を飲むのに抵抗感があって、人好きだ。ひ弱で、哀れで──
同じような衝突は度々あったが、レキが離れることはなかった。頼れる相手がセツしかいなかったからだろう。時代が流れ、かつて江戸と呼ばれた土地が東京と名を変え、いくつかの戦争を終え平成の世が来ても、共にいることだけは変わらなかった。レキだけがINAPOに登録した後も、あてがわれたアパートには一緒に住んでいた。
「ですから、気に入らないからといって殺すのはやめてください、先生。警察は馬鹿ではありませんし、科学の力で捜査能力も上がっています。一族の安寧を考えるならばその衝動的な行動をお控えください」
「最近は殺してない。そもそも、私が気に入らないのは畜生だけだ」
「今朝お隣さんに足を引っかけたのはどこの先生ですか」
レキが溜め息を吐く。彼は、このアパートのお隣さんが年寄りに親切にするふりをして財布を盗んでいることを知らない。足を引っかけたのも、レキの財布をスろうとしたからだ。
「……先生。どれだけ嫌なことがあっても、人殺しだけはしないでくださいよ」
「何故? どれだけ畜生を殺しても害はないだろう。どんな人間でもそいつを愛している者がいるなんて
「違います」
1Kのアパートの居室。壁に寄りかかって座るセツに、レキは傍らに
「先生はいつも自分のためには怒りませんね。誰かのために、怒るでしょう。でもそれは貴方の持つべき怒りではなく、被害に遭った人が持つべき怒りです。貴方は──」
柔らかく息を吸って、レキが「他人の怒りを、奪っているのです」と言った。
レキの言葉はセツの胸の中心にある、小さくて
「……お前は人間に近いからな。人間の考えていることはよくわからない」
視線を逸らすと、レキが親に無視された子供のように眉尻を下げて、それから少々わざとらしく溜め息を溢した。
「……もういっそ学校でも通ってみてはどうですか。そうすれば一通りの倫理観は学べるでしょう。ついでに携帯の使い方も」
「携帯は使えている」
「詐欺メールのURL開いて百万円請求されたのはどこの先生ですか」
言い返せなくなった。そんな金ないと危うく電話までかけそうになったセツをすんでのところで止めたのはレキだったからだ。それに確かに学校にはまともに通ったことがなかったため、貴重な意見ではあった。
「なるほど。ではそうしてみよう」
「え」と、レキが目を丸くする。
「最近退屈が過ぎる。数年の暇潰しには丁度いいだろう」
「ま、待ってください。俺達は吸血鬼でしょう。学校なんて……」
「馬鹿者。昔は私のように子供の姿の吸血鬼も多かったんだぞ、人間の家に潜り込んで生活することなんてそう難しいことではない。まあ最近の養子や里親制度について少し学ぶ必要があるが……問題は名前だな。そろそろ変えた方がいい。昔使っていた『コウ』でも悪くはないが……、レキ、良い案はないか」
自分に似たせいで表情が変わり辛くなっているレキが、困惑を超えて
「……
「字は?」
「そう、ですね……以前見かけたのは『貴い理由』と書くものでしたが」
「『由貴』」セツ──否、由貴は口に出す。不思議とよく
「気に入った。お前の名前と音が似ているのもいい」
そう言うと、レキは微かに笑った。
吸血鬼はその日から人間の真似事を始めた。養護施設に潜り込み、数年後鈴木夫妻の養子になると、夜間学校に通い出した。
鈴木夫妻は親として限りなく完璧に近い人達だった。十三歳という偽りの年齢から一切成長しない由貴のことを、おそらくなんとなく不審に感じているだろうに、まるで「それはそれとして」とでも言うように由貴に健全な愛情を注いだ。
そして、春香。春香とは、入学して直ぐ出会った。人懐っこくて警戒心の薄い子供。特別な人間ではなかったが、携帯の使い方を馬鹿にせず懇切丁寧に教えてくれたという
由貴は、普通の高校生みたいに、寄り道をしたり、一緒に揃いの筆記用具を買ったり、試験に向けて勉強したりした。春香は善良な人間で、言い換えれば優しい分付け入られやすい傾向があった。都会の帰り道を一人で行かせるのは不安で、いつも一緒に帰った。
ある日、繁華街で悪質なキャッチに絡まれたとき偶然レキと会った。
「私に無関心な人が好き」春香はよく、そう溢した。「私のこと、どうでもいい人が」
レキのことを言っているのだろうと思い否定しようとしたが、それが出来なかった。自分の手元を見詰める春香の、嵐が過ぎ去った後のように
会ったばかりの頃、彼女に何故夜間の高校に通っているのかと訊いたことがある。高校一年生のときに登校拒否をしたと彼女は答えたが、その理由までは口にしなかった。
調べなければよかったのかもしれない。調べることが出来てしまう自分の能力がなければ、春香にネットの使い方を教えてもらわなければ、彼女の名前を検索欄に入力したり、元の高校で流れた悪質な、けれど真実に限りなく近い
ネットに上がっていた動画を見付けたときは、まだ辛抱出来た。けれど、男の内一人の後をつけて電話の内容を聞いたときは、舌の根を強く押さえつけられたような吐き気と悪寒が全身を支配して、いつかレキが触れた、胸の内の塊が、冷たくなっていった。
──「最近中々捕まんねーな。あ、そうだ、昔遊んだハルカちゃん? お嬢様学校のさ──そうそう。動画で脅したらもう一回使えねえかな。こないだ見かけたんだよね、東口の方の高校に通ってるみたいでさァ──」
殺してやろうと思った。
今直ぐ飛びかかって、力尽くで押さえ込んで、四肢を
夜の道で、周囲には誰もいない。大きく一歩を踏み出したとき、レキの言葉が脳裏を
──「人の怒りを、奪わないでやってください」
これは──。これは、由貴の怒りではない。春香の怒りだ。春香の持ち物だ。
今この男を殺したら、春香はどう思うだろう。ニュースを見て、自分の人生を粉々に砕いた男達が通り魔に殺されたと知ったら。天罰が下ったと喜ぶか──いいや。残るのは、
だってこの男達は、まだ春香に一言も謝罪していない。
裁かなければならない。人間の社会で、人間の道理で、人間の力で。天罰では納得出来ない。罪を暴き、罰を受けさせる。そのためにはどうすればいい。多くの声が必要だ、
その日由貴は何もせず帰り──次の日から、レキの家で勉強会が始まった。
──この世には悪がある。人を孤独に追い詰める、悪が存在する。
吸血鬼は、それをよく承知していた。
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