第5話

 部屋に上がり、彼女に聞いた話をまとめるとこうである。

 春香と由貴は同じ高校に通っており、一年ほど前、キャッチに絡まれているところをレキに助けてもらった。同じ時間帯に同じ道をよく通るため、その日以降もレキと会うことが度々あり、話が合うこともあって友人のような関係になった。三ヶ月ほど前に勉強会をすることになったのだが、由貴と春香は互いの家が離れており場所をどうするか悩んでいた。その際、レキが自分の家を使えと合鍵を渡したらしい。


「レキ君のいとこはですね、透明感があるところ! 理想的ではあるんですけど、でも下心はないっていうか、普通、急に家に来れば? って言われたら悩むけど、レキ君は多分私のことどうとも思ってないんです。それが良いですよね、わかります?」


 春香の話を纏める必要があったのは、彼女が話し好きで、かつその内容の六割がレキに対しての称賛だったためだ。

 1Kの部屋の居室で、シキョウと共にちゃぶ台の前に座っているヒバリは、台所で紅茶をれている──箱に『春香&由貴』と油性ペンで名前が書かれていた──春香の話をうんうんと頷いて聞きながら話が途切れたタイミングで、


「春香ちゃんレキさんのこと好きでしょ」

「え!? なんでわかるんですか!?」


 素っ頓狂な声。ヒバリは「なんでだろうねー」とのんびり返した。

 春香のことを、ヒバリは無防備な子だと感じた。人懐こいというか、警戒心が薄いというか。見知らぬ二人組の言葉を証拠もないのにやすく信じて、閉鎖的な空間に一緒に入ってしまうのには危機感すら抱く。


 ──素直で育ちが良さそうだし、そういう性格なのかな。


 台所の棚のあちこちを開けて何かを探している春香に、ヒバリは「手伝うよ」と立ち上がる。


「すみません、どこかにレキ君が隠してるマカダミアナッツがあるはずなんです」

「いいのかなそれお茶請けに出しちゃって……」


 苦笑いを浮かべながら、自分より少し背の低い春香を見下ろした、そのとき。


 ──……傷?


 室内に入って上着を脱いだ春香の鎖骨の辺りに、二本の小さな傷を見付けた。

 冬は乾燥する季節だ。知らない間に傷が出来ていることは多い。小さなものだし、発赤やうみも見当たらない。それほど気にせず、ヒバリはマカダミアナッツ探しを続けた。

 マカダミアナッツの箱は下の棚の隅に大事そうに隠されてあった。取調室で不気味だと感じたレキの印象が大分変わってきていた。ごめんレキさん、一個だけにするから──ヒバリのざんに反して両手サイズの皿にざらざらーっとナッツを流していく春香に、ヒバリは「でもさぁ」と切り出す。


「こんな時間に帰るの、さすがに危なくない? 高校そんな遠いの?」

「ああ、私、定時制に通ってるんです」

「あ、そうなんだ」


 なるほどそれで制服じゃないのか、とヒバリは納得する。

 湯を沸かしていたヤカンが小さな機関車のように湯気を吐き出していた。コンロのスイッチを止めて、春香は頭上にあるつりだなを開けようとした。が、身長が足りない。春香より頭半分ほど背の高いヒバリが「任してみ」と交代したが、今度はどの辺りにカップがあるのかわからず中を漁るだけに終わる。二人同時に唸り、二人同時にこの中で一番背の高い男の方を向いた。

 ちゃぶ台の前で居心地悪そうに座っていたシキョウは、二人の視線に盛大に顔を顰め拒絶を示したが、いつまで経っても視線が剝がれないので腰を上げた。棚を開けると一番右にあったカップを二つ取り、春香に手渡した。


「あの、もう一つ……」

「私は遠慮する」


 シキョウは束ねた髪を揺らして踵を返した。

 湯をカップに注ぐ。冬の外気で冷えた頰を、温かく香りの良い紅茶の湯気に撫でられた。ヒバリは紅茶のことは詳しくないが、ちょっと値の張るものなのだろうとわかった。

 先にナッツの入った皿を持っていくと、シキョウが彼個人のものと思われる携帯端末をいじっていた。手伝うとかないのか、と思ったが、人に気遣いは強制出来ない。

 やがて春香がカップを二つ持ってやってきた。シキョウに本当にいらないのかと尋ね、いらないと答えられると気を使うような表情でカップに口をつけた。ヒバリも礼を言って一口啜る。微かに桃の香りがする紅茶は、喉を通ってで広がり、冷えた体を温めた。


「由貴ちゃんは──」カップから口を離した春香が言う。「ちょっと危なっかしいところがあって。キャッチに絡まれたときも、相手の男の人の腕をぐーって捻ったりして、それで怒らせちゃって……。でも、自殺するような子じゃなかったと思います」

「……レキは? どんな人物だ? 様子がおかしいことはなかったか」とシキョウ。

「レキ君? レキ君は、全然逆です。穏やかで、由貴ちゃんが不機嫌そうにしてると、いつもなだめてました。あんまり感情的になる感じじゃないですよ」


 ヒバリは、無表情で動作が少ないレキの姿を思い出す。死んだ少女の血を吸ったという話を聞いたから気味の悪さを感じていたが、確かに、それを知らなければ穏やかという印象を抱いたかもしれない。


「でも、落ち込んでるんじゃないかと思って……。それで今日様子を見に来たんです」

「……春香ちゃんは平気?」


 ヒバリが訊くと、春香は苦笑いして、手元に視線を落とした。


「……なんか、……まだ実感がなくて。ニュースで知ったんで……学校に来てないの見て、やっと『本当のことなのかなぁ』って感じで、全然……」


 春香は暫く黙って、呟いた。「これから悲しくなるのが怖いです」

 彼女にいずれ訪れる、深い苦痛と、悲嘆と、混乱と、無力感。それを思うと、ヒバリの中で感傷が渦巻いて、舌は回転を悪くした。安っぽい慰めも形ばかりの共感も意味を成さないことを理解していた。だからかける言葉が見付からない。そのとき。


「くだらない悩みだ」


 正面から発せられたさざ波のような声に、ヒバリは耳を疑った。

 シキョウはまるで心底関心がないというような紫の瞳で、春香を見ていた。

 頭の中で火花が散った。カップを持つ手に力が籠り、自分の眉が吊り上がるのをヒバリは感じる。鋭く息を吸い、「シキョウさん、」とえそうになった直後、彼は続けた。


「何故おそれる? 悲しめなかったときの方が、よほど恐怖と苦痛を感じるだろう。大きな悲しみを予感し、実際にそれが訪れるということは、それだけ君が鈴木由貴を愛していたという証左だ。それだけ鈴木由貴が好ましかったと再認識すればいいだけだ」


 春香もヒバリも、目を丸くして、シキョウを見詰めた。今までロクにしやべらなかった男が急に喋り出して、加えてその内容が、冷血そうな顔立ちにかかわらず、まるでぶっきら棒ながらも優しいのようなものだったからだ。


「……シキョウさんって、レキ君と少し似てますね」


 春香が微かに笑みを浮かべた、そのとき。玄関の鍵を回す音がして、次いで扉が開き冷気が流れ込んできた。春香が「あっ」と声を上げる。


「……春香? 来ているのか?」


 レキの声だ。帰ってきたらしい。春香が「おかえりー!」と迎えに行った。

 ヒバリとシキョウもついていった。玄関で靴も脱がないままのレキは、耳と鼻を赤くして、ぽかんとしていた。


「君達、どうして……」

「お邪魔してます。忘れ物届けに来たんですけど留守で、そこに春香ちゃ……さんが」


 シキョウが素知らぬ顔で例のメモ帳を手渡す。レキはそれを受け取ると、当然だが見覚えがないという表情で首を傾げ、すんと鼻を鳴らした。


「……これは多分、あの刑事のものだ。俺のものではないよ」


 ──ああそうか、鼻が利くのか。


 こちらの思惑がばれたかもしれない気まずさでヒバリが咳払いをしていると、シキョウが「拾ったのはその刑事だ」とつけ加えた。


「そうなのか。拾っただけのわりには……いや、なんでもない。ともかく、持ち主は他にいる。新品のようだし、見付かるといいな」

「……そうか。もう一つ、鈴木由貴を発見したとき彼女の上着のポケットに触れたか?」

「ポケット? ……駆け付けたときに触れたかもしれないが、それが?」


 メモ帳をシキョウに手渡しながら、レキは視線を上向かせる。シキョウは少し考える素振りをして、「いいや」と返す。

 沈黙が流れた。けんせいし合っているようなけんのんな気配。そろそろ出ないと不自然だとヒバリが感じたところで、シキョウが再び口を開いた。


「彼女から、散歩に行ったと聞いたが、どこへ?」


 靴を脱いだレキが、ちらりとシキョウを見上げる。春香が不穏な雰囲気を感じ取ったのか、二人の吸血鬼の間で視線を反復横跳びさせている。


「駅だ。自販機で飲み物を買って帰った。それだけだ」


 すん、と。シキョウの鼻が鳴った。その表情には、レキへの疑いがありありと浮かんでいる。


「えっと、あの、レキ君、目が紫外線に弱いんです。だからお昼に外に出れなくて、それで夜にお散歩してて……」

「そうか奇遇だな。私も昼間は外に出ない。太陽の光に当たると燃えて灰になる」


 おそらく、真実そうなのだろう。春香がなんの冗談かと不思議そうに首を傾げる。

 レキがそのとき、初めて明確な敵意をもつてシキョウを睨んだ。恐らく彼は、春香に自身が吸血鬼であるということは隠している。自分の秘密を勝手にあばかれそうになっており、かつそれを脅しの手段として用いられているのだ。怒りを覚えて当然だ。


「俺は散歩に行っていただけだ」


 繰り返される主張。シキョウは暫し黙り、やがて「そうか」と返した。

 レキと入れ替わるように、シキョウとヒバリが玄関に立った。「お邪魔しました」とヒバリが頭を下げる頃、シキョウは何も言わず既に外に出ていた。


「この辺りは暗いから気をつけて帰れ」とレキ。教師のような言葉だった。春香は「お休みなさい」と笑った。頷いてドアノブに手をかけようとしたところで、ふと気になって振り返る。

「あの、レキさん。ちょっと訊きたいことあるんですけど……」


 言いながら春香に視線をやると、レキはその意図をって春香に部屋に行くように伝える。春香が素直に頷いて短い廊下の先の扉の向こうに行ったのを確認して、「どうした」と続きを促した。


「率直に訊くんですけど、レキさんって、師匠さん? と何かあったんですか」


 心当たりがあったのだろう。レキは「ああ」と相槌を打ち、口元に手をやった。


「あれか……、少し、昔を思い出したんだ。それに気を取られた」


 変化のなかった表情に、僅かにもんが混じる。彼は口元に置いた指先で唇をとん、とん、と叩くと、小さく息を吸った。


「俺を吸血鬼にした人は……『先生』は、とてもこわい人だった」

「……」

「以前……明治の頃か。ある村に一時期身を寄せていたんだが、俺達が昼間外に出ないから、あやかしの類いじゃないか──と村の人に疑われた。追い出そうとしたんだろうな、若い男達が俺のことを散々に殴った。仕方なく村を離れて数日経った頃、先生が出かけて、帰ってきたら俺の目の前に抱えるほどのぬのぶくろを放った」


 落ち着かなそうに、指先が、口元を叩く。


「中を開けると、俺を殴った男の首だった。『お前を傷付けたのはそいつだろう』と。吸血鬼の怪我なんぞ数時間もすれば綺麗に治るのに、先生は死を以て報復した」


 絶句するヒバリ。言葉が出てくるはずもなかった。


「最近は警察の捜査能力が上がったこともあって、殺人を禁忌としたり……色々おきてが増えたんだが、昔はそうでもなかった。好き勝手に生きる吸血鬼も珍しくなくてな。先生の場合、気に入らない人間は全て殺していた。自分も元は人間だったのに……」


 言い切ると、ぱ、とレキは口から手を離した。


「だから突然訊かれて、そのときの光景がよみがえって言葉を詰まらせた。それだけだ」


 目の前に放られた生首のことを思い出せば、確かに言葉が出なくなっても不自然ではない。ヒバリは納得し、頷いた。


「変なこと訊いてすみません」

「構わない。遠回しに探りを入れられるよりは不愉快ではない」


 レキはやはり淡々と言った。ヒバリは少し面食らったが、「じゃあ、怪しいなと思ったことはストレートに訊きにきますね」と返すと、レキは微かに口角を上げた。

 見送られて外に出ると、扉の横でシキョウが壁に寄りかかりながら待っていた。この男が自分のことを律儀に待っていることが意外で、目を瞬かせる。


「……お待たせしました」

「今の話を信じるのか?」


 今の話──レキの師に関することだろう。立ち聞きしていたのか、と引っかかりを覚えつつも「どこか矛盾してますか」と返した。


「めでたい頭をしているんだな。裏付けることが出来ないような言葉をみにするのであれば、君の中で全ての物事はとても単純なのだろう」


 壁から背を離し先へ進む白い後ろ姿から、はっきりとした敵意が発せられている。


「……あの、あんたすごい性格悪いんですね」


 頭の中だけで悪態をいたつもりだった。それがするっと口から出てきていて、ヒバリの中で、もういいやという諦めが先行する。


「言い方とかあるでしょ。天然にしてもわざとにしてももうちょっと人を傷付けないよう配慮出来ないんですか? 『めでたい頭』って、かなり腹立つってわかりません?」

「君と良好な関係を築くつもりはない。信用するつもりも」

「……一応同僚でしょう。私なんかしました?」


 少ない外灯の内の一つ。白い光の下で、白い顔が振り返った。

 たかった虫達によって遮られるあかりに照らされる顔には、嫌悪と侮蔑が浮かび上がっていた。まるで親のかたきを睨み付けるような、苛烈な表情。


「いいや。ただ、君が嫌いだからだ」


 そう言い放ち、彼は背を向けた。




 ヒバリとシキョウが去った後、レキは自身の背中に手を伸ばした。上着をまくげ、ズボンと腰の間に挟んでいたものを手に取る。

 それは、A4サイズの大きな茶封筒だった。厚さは一見して何も入っていないと思うほどだが、下の方に、冊子一冊分ほどの僅かな膨らみがある。


 ──吸血鬼の方には、臭いで勘付かれただろうか。


 ふうと息を吐く。部屋でテレビでもつけているだろう春香の方を一瞥して、レキは茶封筒を隠す場所を探す。春香には部屋をどう弄ろうが構わないと言っているから、よほどわからない場所にしないと見付かってしまう。迷った末、冷蔵庫の上に置いた。春香は背が低く、吊戸棚にすら手が届かないのだから、ここなら安全だろう。


「──なんでこんなことを!!」


 そのとき部屋から聞こえた声に、レキは小さく息を吞む。台所と部屋を隔てるドアを開けると、春香が熱心に見詰めるテレビから、深夜帯のドラマが流れていた。サスペンスドラマらしく、殺人犯が死体を前に問い詰められているようだった。


 ──「何故こんなことを!」


 犯人を責めている役者の姿に、かつての自分が重なる。レキが取り落としたまだ若い青年の生首を師が拾い上げて、断面から血を啜った。赤ワインのように鮮やかな赤い目。記憶の中の師はいつも冷徹で、人間のことを時に畜生呼ばわりするほど苛烈な人だった。

 レキは、師が苦手だった。

 美しい人だったが、怖ろしかった。いつも何かに怒っているようで。吸血鬼の名に相応ふさわしい冷血さと残酷さが、細胞の一つ一つを満たしているようだった。きんで飢え死にしそうだったレキを吸血鬼にすることで命を救ってくれたが、それも師の独断で、目覚めたとき不死身の化け物になっていたレキからすれば複雑な心境だった。

 無理矢理生者の世界にり戻され、しかし元の生活に戻り家族と暮らすわけにはいかず、流浪の旅をする。

 自分の人生をちやちやにされたという感覚が、ずっとあった。


「……」


 いつか、人として大事なものを失いたくないとすがった。懇願したつもりだった。これ以上、暗闇の世界にはいたくないと。しかし師は吠えるように笑って、言ったのだ。


 ──「お前は出来損ないの吸血鬼だ。いつまでも人間のようで」


 春香が後ろを振り返り、レキにどうしたの、というように首を傾げた。


「……もう遅い。送るから、今日は帰った方がいい」

「……レキ君は大丈夫?」


「大丈夫だ」レキは、自分の表情は師と同じように表に出辛いことを自覚していたから、意識して笑みを作るように努めた。「失うことには慣れている」

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