第3話

 進展があったのは今日の夕方だ。マンション近くを通りかかった仕事帰りの会社員が、九日午前二時頃、駐車場から立ち去る男を見たと証言した。


「駐車場には防犯カメラがなかったんだけど、隣のビルには設置されていてね。同じくらいの時間に通りかかった人を確認してもらったら、一人まる人が」


 千代原に説明を受けながらシキョウとヒバリが通されたのは、随分と殺風景な部屋だった。机も椅子もなく、部屋自体も広いとは言えず、窓もない。しかし、右手の壁に不自然に大きな窓のようなものがあり、ヒバリは首をかしげる。注視すると、外ではなく隣の部屋が見えるようだった。

 そのまま進み、その窓らしきものから隣室の様子がはっきりとわかるようになる。スチール製の銀色のテーブルと、その前にぽつんと座る青年が見えて、ヒバリは「ああ」とピンときた。刑事ドラマでよく見かける光景だったからだ。


「これ、マジックミラーになってるんですか?」

「そうそう、あちらからは見えないんだ。さっきまで目撃者に面通ししていてね、『れいな人だったからよく覚えてる』だそうだ」


 言われてみれば、確かに美麗な顔立ちをしていた。シキョウが一目でわかる美しさだとすれば、この青年はじわりとむようなたんさを携えている。目元を隠す波打った前髪はミステリアスさを漂わせ、薄く開かれた唇のそばにある黒子ほくろは成熟した色気を醸し出す。擦れ違ったら印象を覚えているだろうほどには、美しい。


「吸血鬼──なんですか?」


 透視鏡の前で隣り合うシキョウを見上げながら問うと、紫水晶の目がじろりと見下ろす。思わず畏縮してしまいそうな目付きだったが、ヒバリは物怖じせず回答を待つ。


「……私に訊く?」


 初めて声を聞いた。少し荒いさざ波のように、どこか人を不安にさせる声色だった。


「シキョウさんは吸血鬼だって宮月さんに聞きました」

「それが?」

「気配でわかったりするのかな、と」

「──『気配』」シキョウが鼻で笑う。「そんなものでわかったら苦労はしない。君の言う気配とやらも臭いも見た目も、人間と吸血鬼で異なるものではない。とぎばなしと同じものを想像しているのなら恥をかく前に口を閉じて大人しくしていろ、不愉快だ」


 沈黙が流れた。千代原の視線が二人の間で跳ね、困ったように咳払いする。


「……シキョウさんはー……、なんか私のこと気に入らない感じですか?」

「そうだ。金に目がくらんで吸血鬼の監視などという仕事に名乗りを上げた君の存在が不愉快極まりない。理解したら余計な口は利くな」


 ヒバリのこめかみがきしんだ。意識して静かに深く息を吸い、静かに長く吐く。


「別にお金目的じゃな──」


 言い終わる前に、シキョウはきびすかえし部屋を出た。ぱたんと音を立てて閉まった扉に、正しくぜんとしたヒバリは口を「な」の形にしたまま千代原を振り返る。


「なん……え? あの人あんな感じですか? いつも?」

「ええと、そうだね、初対面の人には基本的に……。私にも最初はあの対応だった」


 眉尻を下げて「落ち込まないで、通過儀礼みたいなものだから」と慰める千代原。うなずくヒバリだが──口の中で、舌打ちが転がった。


 ──人嫌いなタイプかよ、めんどくさ。


 悪態を喉にとどめておく。そのとき、ふと横に立つ千代原の手に目が留まった。


「……あの、手袋裏返しじゃないですか?」

「え?」


 きょとんとする千代原の右手を指差す。よく見ないと気付かないが、着用している黒い革手袋は裏返しになり、縫い目がさらされていた。


「あッ本当だ。……うそだろう、じゃあ昼からずっと裏返しだったのか……」


 千代原は慌てて手袋を外すが、その拍子に手袋を取り落として、それを追うようにしゃがみ込む。優雅な見た目に反してそそっかしいことだ。手袋を拾った千代原は、恥ずかしそうに咳払いをし、ヒバリの肩をたたいて、「教えてくれてありがとう」と整然とした態度を取り戻そうと努めている。


 ──この人は気安そうな感じだな。


 そう判断した直後、透視鏡の向こうでシキョウが部屋に入った。

 何故かサングラスをかけている。ヒバリは首をひねりながらも、青年と向かい合って座ったシキョウの姿に視線を向けた。


《INAPOのシキョウだ。まず確認すべきことがある》


 シキョウは、青年が何か応える前に──応えるような仕草はなかったが──白いコートの内側から、手の平ほどのサイズの赤いカードを取り出した。

「あれは?」ヒバリが問う。


「人の血の色を再現したフィルム。シキョウ君は確認のしようがないみたいな言い方をしたけど、INAPOで最近作られたらしい」

「血の色?」


 眉をひそめるヒバリに、千代原が「見ててごらん」と隣室を指差す。


《これを、五秒以上眺めろ》


 青年は眼前にフィルムをかざされても動じなかった。植物のように、ただ静かに座って、フィルムを見詰める。一秒、二秒、三秒、四秒──奇妙な沈黙が続き間も無く五秒というところで、異変が起きた。

 青年の頰が微かに動いた。今まで全く動きがなかった分際立った違和感にヒバリはまばたいて、もう一つの変化にも気付いた。──瞳だ。

 瞳の色が、ありふれた濃い茶色から、赤ワインをこぼしたような深紅に変わっていた。じわりと、角膜の端まで赤色が満たされる瞬間がわかった。非現実的な光景に、驚嘆も疑問も言葉にならない。


 ──『吸血鬼』。


 視線を転じさせれば、シキョウはサングラスを外し、フィルムをテーブルの上に置いていた。


《吸血鬼だな。であれば、当然君に人権は存在しない。伴って黙秘権もなく、君の意思でここから退去することも不可能だ。私の仕事は鈴木由貴の死について君が知っていることを吐かせることであり、そのためにはあらゆる手段を取る》


 ゆっくりとした、しかし有無を言わせぬ口調で一息に言い切り、シキョウは指先でフィルムの角をはじいた。


《今日、一月九日の午前二時、自宅マンション七階から転落死した女性の首に咬傷があった。二つの傷の間隔と傷の深さが吸血鬼の特徴と一致している。君はその時間、付近の防犯カメラに写っており、目撃証言もある。──何故その時間、その場所にいた?》


 シキョウが明確に疑問を呈した瞬間、青年が、動いた。

 今まで石像のように膝に手を置いた姿勢を崩さなかったため、ヒバリは死体が起き上がった瞬間を見たように心臓が跳ねるのを感じた。

 青年は軽く首を振って目にかかった前髪を散らし、感情の読めない表情をさらす。


《俺はレキという。よろしくシキョウ》


 へいたんな声色だ。赤々とした目が照明に照らされ揺らいでいる。


《由貴は友人だ。夜中に散歩をしていたら電話がかかってきて、『自殺する』と》

《電話?》

《記録が残ってるはずだ。早まるなと言って駆け付けたけれど、間に合わなかった》


 それは、友人を亡くしてまだ一日もっていない顔ではなかった。後悔にゆがむでも、悲嘆に暮れるでもなく、起伏が感じられない。口から吐かれる言葉も同様に、国語の教科書でもつらつらと読んでいるようだ。


《何故それを話さなかった?》

《俺は吸血鬼だ。人間に血を吸ったなんて言えない。INAPOに連絡しようとは考えたけど、なにせ暇がなくてな──警察の中に協力者がいるとは知らなかったし、》赤い目が、を一瞬だけ向く。《INAPOが吸血鬼を飼っているとも知らなかった》


 シキョウの目尻がひくりとった。


《……、首の咬傷は君のものか?》

《ああ。マンションの駐車場に着いたらベランダに姿が見えて──そのまま。受け止められると思ったけど駄目だった。それで、目の前で血が飛び散ったものだから……》

《『友人』の血を?》

《そうだ。友達だろうが、腹が減っていれば啜るよ。君も同じだろ》


 千代原が手帳にメモを取りながらふむと頷く仕草をし、「一応筋は通ってるね。吸血殺人ではないか……」とつぶやく。

 シキョウの指が、湧き出た感情を端から解消するように、強くフィルムを弾いた。


《……友人と言ったが、どこで知り合った?》

《彼女、学校が東口の方なんだ。あの辺夜は危ないだろ。しつこいキャッチに絡まれていて、それを止めたら懐かれたんだ。お互いに好意的だったしちゆうちよなく友達と呼べる。だが、自殺するほど思い詰めていることに気付くほどの仲ではなかったみたいだ》


 レキがそう言ったきり、しばし沈黙が取調室を支配した。赤い瞳が、波が引いていくように徐々に元の暗い茶色に戻り始めたとき、シキョウが小さく息を吸った。


《師はどうしている》

《……、》

《君を吸血鬼にした者だ》


『吸血鬼にした』。ヒバリは、その発言で吸血鬼というものは先天的なものではなく、後天的に成るものだと理解した。


 ──いや、それよりも、今少し言い淀んだ?


 今まで事前に録音しておいたように滑らかに答えていたというのに。千代原も気付いたのだろう、彼は口元を手で覆い、眉を顰めた。


は既に亡くなってる》


 再び、指先がフィルムを弾く音がした。そうか、ともわかった、ともつかない吐息のような返事をシキョウがして、その視線がヒバリと千代原の方を向く。終わりにする、といった意味合いが含まれていた。


《君の発言の事実確認を行う。今日は帰っていいが、暫くはINAPOの監視がつく》

《では、そうさせてもらうよ》


 ──? ……帰っていいんだ?


 死体損壊の自白だろうに、とヒバリが首を傾げている間に、レキはやはり淡々とした様子で立ち上がり扉に向かう。ドアノブに手をかけたところで、彼は振り返った。


」まだほのかに赤みがかった瞳が透視鏡を向く。「由貴のこと、何かわかったら教えてくれ。出来る限りのことはしたいから」


 そう言い残して、レキは出ていった。

 千代原がレキを送るために出ていくと、入れ替わりでシキョウが戻ってきた。自身を見て煩わしそうに寄せられた眉根に、ヒバリは自分の前頭葉でカチンと音がしたような気がした。


「……レキさんでしたっけ。あの人の言い分って、矛盾はないんですか?」

「自分で考えたらどうだ」

「考えた結果がさっきのファンタジー映画由来の質問だったんですよ。あれが不愉快ならちゃんと会話してくれません? そういう言い方されるとこっちも腹立つんで」


 シキョウの視線が、毒々しさを持ってヒバリをけた。ヒバリもまたポケットに手を突っ込んだ態度で、今にも飛びかかりそうに睨み上げる。うなごえでも聞こえてきそうな雰囲気の中、扉がかちゃりと場違いに軽い音を立てて開き、そこに目を丸くして立っている千代原がいた。


「……警察署内で……傷害事件とかはちょっと、やめてほしいんだけど……」


 苦笑いを浮かべる彼だが、その首筋は冷や汗をかいている。先にヒバリが動いて「大丈夫です」とかなり無理矢理笑い、次にシキョウが「問題ない」と首を横に振った。

 不安げな表情はそのままだが、千代原は「そ、そう」と頷いて扉を閉める。


「そうだ、今廊下で鑑識と話したんだけど、鈴木由貴さんについて一つわかったことがあったんだ」


 ヒバリとシキョウの意識が千代原に向く。彼は、自分のスーツのポケットの辺りに手を置いて、


「由貴さんが着ていた部屋着なんだけど、ポケットの内側に血が付着していたそうだ」

「血? 落ちたときのですか?」

「違うと思うよ。上着は私のものと同じように、」千代原が、自分のポケットの蓋を摘まみ上げる。「こういうポケットの口を覆うカバーがついていたんだ。血は、カバーの外側からポケットの内側にかけてこすれたみたいについてた」


 想像して、ヒバリは千代原が言わんとしていることを理解した。つまり、由貴の服のポケットを、血のついた手であさった人間がいるということだ。七階から落ちた由貴自身は即死だっただろう。そうすると、彼女のポケットに手を突っ込んだのは、駆け付けた彼女の母か、もしくは──


「もう少し早く知れていたら、レキにも訊けたんだけどね」

「連れ戻すか?」

「吸血鬼といえども一応任意だからなぁ。私としては無理強いはしたくないし」


 三人のいずれにも、数秒の考える時間が必要だった。やがて口を引き結んでいた千代原が「よし!」と顔を上げた。


「ヒバリさん」

「はい?」


 と言いつつも、千代原の手には何もなかった。彼は自分の懐をまさぐり、ペンやらガムやらを手に取っては戻しを繰り返し、最終的にはメモ帳を取り出した。最初の数ページは使っていたらしく、その部分だけ千切り取ると、残りをヒバリの手に乗せた。


「……え、これ千代原さんの……」

「いや、レキさんの忘れ物だ。届けなくてはいけないな。でも、私は仕事で忙しいし、警察が来たら怖がらせてしまうかも」


 ヒバリは馬鹿ではない。千代原が頼もうとしていることには察しがついた。ただ、方法がかなり強引なことに驚いただけで。


「自宅だったら、レキさんも緊張せず話せて、色々なことがわかるかもしれないね。もしかしたら、ポケットの中から取ったものが出てくるかもしれないし」


 千代原が笑った。チョコアイスに粉薬を入れて子供に飲ませる親と似た表情だった。




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