ピエロの哄笑
孤独なピエロ
第1話
ピエロの哄笑
玉栄茂康
プロローグ
人は社会という重力世界に張った自分のロープを誕生から綱渡りするピエロである。競争で手に入れた職業というニッチェの衣装に合せるために自我と欲望を化粧で隠して生きている。どんなにあがいてもロープは消したり換えることはできない。見知らぬ誰かのロープと偶然近接して綱渡りの道連れになることはあるが個々の2本が1本になることはない。ロープから転落しないかぎりピエロは単独で未知なる終焉まで綱渡りしなければならない。
不条理な世界
私は望んでなかったのになぜここに在るのか?ロープの上を歩いて現況にきたがこの先はどうなっているか見当がつかない。ロープは私の父母が無意識に保持していたDNAの接合による有機体形成の結果彼等の子供として生まれた時にヘソの尾についていた。両親から受け継いだDNAは外見と運動能力さらに頭脳から思考までも支配する。生まれてから選択した行動の結果が今在る現況で運命と呼ばれているものだ。世間は運命を神のご意思によると諦念するが当人の期待してない結果に不満でも我々は自分の現況を無意識に受入れている。この世界に生まれ出された者は獲得したニッチェの小さな幸福に満足している。神は人間を平等に創ったと言うがこれは不条理におかれた我々の不満を押さえるために宗教家が創作した欺瞞だ。我々は生まれた瞬間から平等でない。御殿で生まれた者の贅沢三昧とゴミ溜めで生まれた者の困窮を運命とよび親が裕福か貧乏かで始まる人生が終焉まで続く不条理を神のご意思と感謝する者は阿呆である。宗教と偽善教育で洗脳された我々は神のご意思である運命に拝跪して不条理を感じることなく自分のニッチェで漫然と生きている。家族と社会そして国家との関わりで生じる重力のシガラミが足かせとなり我々は運命という神の思し召しの罠から抜け出すことができない。重力に巣食う権力という悪魔に取り憑かれた者とその追随者である司祭達は神のご意思である運命で我々を現況に固定している。悪魔は神の偶像と権威への拝跪を習慣と教育で我々の精神に注入して不条理を感知できない愚鈍にした。この不条理はDNAと訓育を介して恒久に引き継がれていくだろう。精神に刻印された運命拝跪は外的暴力で重力が壊滅された場合に悪魔と共に消滅するが数年後にはヒドラの如く復活する。遠い昔不条理の破壊に挑戦した者はいたが自分の操れる悪魔を復活させて
新しい不条理を創りだした。悪魔と密約を交わした権力者と司祭たちは悪魔を時代に合せて変身させ我々の精神を支配し続けている。
存在のブラウン運動
重力の世界で自分の存在が不条理だと思うのはおかしいだろうか?如何に足搔こうと我々は現況を受け入れて重力の世界で生きねばならない。我々は誕生から終焉まで重力と偶然に翻弄されるカオスの流れで生きている。カオスの中で自分の存在に疑問を抱き回答なんか探すのは無意味なことか。これまでに解答を見つけた者は皆無だ、見つけたと称賛された哲学者と思想家は大勢いたが彼等が見たのは陽炎であった。彼等は陽炎の実体化を目論んで複雑怪奇な学問の迷路を創ったが迷路の行き着いた先は幻影の如き神に回答を忖度した行き止まりだった。我々は意思の持つ行動ベクトルと内部エネルギーに偶然が作用するブラウン運動で未来に向かう現在という瞬間に存在する点の表象である。瞬間の連続が未来に連なるように存在は不透明な未来に繋がっているはずだ。我々の行動に偶然が作用した結果である現況は日常性の繰り返しで未来に向う。
存在の自由
存在が不条理から抜け出すには精神が重力の足かせを外して自分の意思で行動することだ。意思による行為の結果を自分のものと受け入れて運命を無視すれば行為と結果の軌跡を自分の人生にできる。我々の頭脳の容量では軌跡の一部分しか記憶できない。記憶から漏れた軌跡の残渣は過去の深淵に落下する。落下した記憶の残渣は暗黒の深淵を彷徨する亡霊となる。亡霊は時々深淵から這い上がって精神に悔悟と苦痛を与える。亡霊を棄却できるのは時間の女神で亡霊にベールを掛けて弔ってくれる。行為と結果を神のご意思と拝跪する者は自己の存在を神に付託して羊群に安住する者である。カオスの流れでは存在の保証は何処にもない。神の保証は重力の袂に隠れた悪魔の空手形である。夕陽に明日を祈っても明日が確実にくる保証はなく神への祈りは気休めの自己満足にすぎない。神に明日を祈っても身近で起こる突発事故にまきこまれ現況から抜け落ちた場合周囲がいくら神に祈願しても深淵から戻ることはない。人間の畏怖を好む死神は死にたくないと教会で震えている者に癌と突発事故を送るが死を恐れない者は無視される。博物館に展示されている偉人や賢人の伝記は深淵で彷徨っている亡霊の模造品である。彼等の人生は周囲の曖昧な記憶による口承の逸話を権力者と戯作者が脚色したものである。権力者は模造品に神性と威厳を糊塗して偶像に仕立て権威の伽藍堂に陳列してそれらの後継者のように
ふるまっている。
未来と過去
現在は光と同様に直進して未来となり瞬間を介して過去となる。過去は空虚な暗黒の深淵である。現在が瞬間で過去になることから未来と過去は瞬間を境とする平衡時空間と考えられる。数式で表すと現在から未来fへの膨張速度はdf(t)/dtであり現在は瞬間で変換されて過去になる。過去pの深淵もdp(t)/ dtの速度で膨張する。未来と過去の膨張速度は平衡しているdf(t)/ dt= dp(t)/ dt。未来と過去は前後であるから逆転と混合はなく瞬間i instantaneous Lim f (f - i) - f (p) / iで接するだけだ。現在の進行過程で偶然に影響されるカオスの流れは未来に続くが現況という瞬間は不安定に変化していく。行為と結果は瞬時に過去の深淵に飲み込まれる。深淵に落下した行為と結果はどう足搔いても再現できない。坊主達が死後の脅しに使う輪廻は過去が未来に再現されるというお伽話にすぎない。現在は未来に直進していき過去の深淵に吸い込まれた行為と結果は時の女神がベールで包み忘却の彼方に葬るので回帰することはない。
サーカス小屋
社会というサーカス小屋で生まれた私は歩き始めると母親から現在と未来に掛けたロープの上を歩く練習をさせられた。母に手を引かれて歩いた母のロープは太く丈夫で安心して歩いた。このロープは何で何処まで延びているのか母に尋ねると
「これは私のもの貴方のは生まれた時におへそに付いていたロープだ、今から貴方は自分のロープの上を独りで歩かなければならないのだよ」と言われたが私には意味が分からずロープを弄んでいた。
父に尋ねると「人は生まれたときから皆それぞれ自分のロープを持っておりそれを自分の重みに耐える強さにしながら綱渡りするのだ」と答えた。
母からもらったヘソの緒に外界で得た知識と経験の繊維を彼女の手ほどきで織り込みロープを編んだ。ロープができあがると自分の立っている現在から少し先の未来にロープを投げて綱渡りの練習を始めた。最初の頃母は私の横に彼女のロープを張り、私がロープから落ちないように脇から支えてくれた。父親は仕事が忙しくたまに酔った勢いで歩きかたを示してくれたが子供の世話は母親任せであった。
時々酔った父親から「ロープが未来のどこに伸びているかは誰にも分からず予想もできない、お前が独りで歩いていって確かめるしかない」と言われた。
綱渡りを始めると平行に張られた母親のロープが鬱陶しくなった。彼女がロープの補強方法だけではなく投げる方向と歩き方まで口うるさく説教するので自分の意思で行動ができない不満があった。母は世間一般の母親達と同じように世間体の良いロープとスマートな綱渡りをする子供を希望していたようだ。学校ではロープの補強に必要な知識と正しい綱渡り方法について古来より学者と賢者たちの残した資料をもとに作られた教本マニアルで教えられたが沢山記憶すれば優等生になるという形式的な知識の詰め込みで肝心の綱渡りには役に立たなかった。父が言ったように同一のロープは世界に存在しないから綱渡りの途中で集めた知識と経験を織り込んで補強しながら歩くしかなかった。途中で拾った雑多な経験を背中のリュックに詰めロープを補修しながら綱渡りした。背中のリュックは次第に膨れて重くなるが時々ロープから落ちそうな遊びをした、そんな我々の危なかしい綱渡りを懸念する老人達からいろいろ説教されたが彼らの語る経験談は自分達の成功例ばかりであまり参考にならなかった。学校教育を終えて社会に出ると生活のためにニッチェを他人と競争して手に入れなければならなかった。競争では拾い集めて袋に詰め込んだ学歴と知識が役に立った。重力社会ではピエロの演技に価値はなく化粧と袋の大きさで評価が決まり評価に対応したニッチェを得ることができた。
我々はロープの上から周囲がよく見えないのでほとんどの人はマスコミ双眼鏡を利用していたが商売目的で作られたフェイク偏向ガラスはゆがんで事実を見誤ることが多かった。人の目立ちたいと知りたい欲望を商品化したマスコミの情報洪水で我々の求める真実は押し流されていた。周囲を正確に見るには理性という精神の付属品を駆使するしかないが理性も錯誤と洗脳で正常に機能しない場合が多いことは後で知った。重力の悪魔から刷り込まれた偶像と権力への拝跪を精神から取り除くには自己否定が必要だが自己否定してもロープは重力の中空にぶら下がったままでカオスの流れでロープの先はいくら目を凝らしても見えない。現況はカオスの流れで変化しながら未来に続いており我々は瞬間を感じて未来を夢想する。
ある哲学者によると我々は実体を表象として認識すると説いているが生活に必要なことは実体を常識的に確認して対応をすることである。路上の石は表象ではなく実体として瞬間的に避けなければ転んで怪我をする。表象の認識は精神の特性と哲学者と神学者は言明しているが精神は人間が自己の優越と尊厳を動植物と区分するために創った欺瞞的産物でしかない。認識は感覚器を備える全ての生物の特性であり人間の精神は生理学的な推論にとどまっている。古来より哲学者と思想家は精神の神聖さを証明するためにあらゆる理論を駆使した
がたどり着いた結論は如何なる理論でも証明不可能な神に付託した。誰にも分らない精神の存在を神に付託している人達のたどり着く結論は当初から決まっており議論を複雑にして神の袖の下に隠してごまかした。中世の暗黒時代を鑑みれば教会を拠り所にすることで人々は神のお加護で平穏に日々を過ごせると信じ込んでいたがそんな保障は何処にもなかった。偶像を飾った伽藍堂から発せられる司令で同じ人間の住む異国を侵略し殺人と略奪を平然と行った軍団を神のおぼしめしに従ったと褒め称えた偽善者の君臨する世界で高名な哲学者と思想家は重力を恐れて沈黙を守り続けた。重力の悪魔は権力者に乗り移り異端者を排除する恐怖で理性を沈黙させた。暴力の恐怖の前で理性の有する真理の正義は役立たずである。
ピエロの綱渡り
人は社会という重力に適応するために精神をピエロのように知識と経験で化粧して現在から未来に架けたロープの上を化粧道具を詰めたリュックを背負って綱渡りしている。化粧と歩きかたは個人の意志で自由に変えることができる。意思による行動と結果、その結果に反応した意思による行動と結果が繰り返される反復の連続運動が未来に続いていく。途中で社会的ニッチェを手に入れて大衆に紛れて平凡で安全な綱渡りをする。平凡に飽いてロープから飛び出そうとしても重力に足をつかまれてせいぜいジャンプするぐらいだ。頑張って目標に向かっても結果は重力と偶然の関与で期待におよばないことが多い。偶然が飛び交う未来は期待通りの結果にならないことが出てくるがほとんどの人は落胆してもロープから降りずに綱渡りを続けている。低きに張ったロープから転落しても打撲の傷は浅いが傷は忘却という最高の薬で治療することができる。
高みに張ったロープから転落して深い傷を負うと綱渡りに自信を失うが自分の意思で選択した行動と結果は存在が自由であることを証明している、それとも結果を神の思し召しの運命と感謝して跪き他の運命を与えて下さいと祈願するか。
社会的ニッチェ
ピエロの背負っているリュックの中身は綱渡りの途中で拾った化粧品の知識と経験で詰め込むほどに重くなりバランスを悪くするが社会という生態系で職業というニッチェを獲得するには膨らんだ袋が必要である。豊かな生活を手に入れるには高位ニッチェを獲得しなければならないが類似の化粧をした大勢のピエロと競合することになる。世間はピエロの演技を見ずに化粧とニッチェで評
価する。ニッチェを維持するには失敗のない演技を続けるしかないが背中の荷物は増えて綱渡りのバランスは悪く足取りは重くなる。袋の中身を少し捨てれば軽やかに歩けるが捨てるには重力に抗した勇気がいる
ピエロは寝る前に化粧を洗い落し素顔に戻るが翌朝には化粧して袋を背負い綱渡りを始める。袋は演技用に拾ったガラクタを多く詰め込むほど価値が出てくるとピエロは信じている。ピエロは道具の詰まった固い袋の枕で安眠する。ガラクタで満杯の袋の中には思い出を治める余裕もなく思い出はガラクタに潰されて消えてしまったかもしれない。記憶の糸を手繰って深淵に漂う亡霊を引き寄せても悔悟の吐息しか出てこない。
ピエロは重力の世界で観客のいない孤独な綱渡りをしなければならない。苦しみと悲しみを化粧で隠して歩き続ける。孤独の寂しさから生まれた自虐ピエロが綱渡りの目的を知らない本人を嘲笑して毎日同じ繰り返しの綱渡りはもう飽きただろうこのへんでロープから飛び降りろと囁く。飛び降りようとしても重力に足を掴まれ動けない現況が漫然と未来へ続いていく。
ピエロの墜落死
私は過去から未来への綱渡りと掲げられた古びた看板の前に修験者らしい男と立って空を眺めていた。私は隣の修験者に「過去と未来の二つ塔にどうやってロープを張るのでしょうか?」と尋ねると修験者は「過去と未来の塔の間は瞬間という距離だからロープを張るのは難しくない」
私「あそこは大分高いですよ」
修験者「君には高く見えるが綱渡りをするピエロには高いほうが観客は集まるからね」
私「セフテイネットが張られてないようですが大丈夫かな」
修験者「高くてネットがないから観客が集まるのだよ、大衆は死と隣り合わせた見世物が好きだから」
私「あの高さからだと落ちたら死にますよ」
修験者「綱渡りがピエロの仕事だから落ちることはない、落下を考えると恐怖で足がすくみ動けなくなる。高みが怖ければ自分でロープを下げるか降りればよい」
私「観衆が見ているから今降りるのは格好悪いですね」
修験者「観衆に自分の演技を見せるにはあの高さが丁度良いのだろう」
私「これだけ観衆が集まれば地面で安全な演技をしても受けるはずですよ」
修験者「それだけでは観衆が納得しないね、観衆は興奮する危険な刺激が欲しいのだよ」
私達の周りに観衆が集まり賑やかになりだした。
観衆が息を凝らして見上げていると過去の塔から黒影に追い立てられてピエロが出てきた。だぶだぶ服のポケットは小道具で膨れて重そうだがうまくバランスを取って挨拶した。ピエロは観衆の見守る頭上を慣れた足取り余興をしながらで歩き出した。少し歩いたところで後ろについていた黒影がピエロの歩いてきたロープをピエロの足元から切り離してしまい込んでいる。
「さあ行けピエロ、もたもたするな後ろは無いから後戻りできないぞ」
風が吹き小鳥が眼前を飛んでもピエロは態勢は崩さないで歩いた。
私「ピエロは何処まで行くのですか?」
修験者「あの未来の塔までだろう」
広場の群集は子供の世話とおしゃべりで忙しいが気になるのか時々綱渡りを見上げている。ピエロはロープの上でバランスを崩して人々をハラハラさせたり出し物でおどけて笑わせながら歩いていたが途中の小塔の手前で立ち止った。ロープの張りがおかしいのか、見物客は早く進めとはやし立てるがピエロは立ち止まったまましばらく動かず何か考えていたがすぐに歩き出し塔の東口に入った。
修験者が呟いた。「観衆はピエロが足を踏み外して落ちる悲劇が見たいのだ」
観客は塔の無数ある出口の何処からピエロは出てくるのか興味があった。塔に入ったピエロは持参した手鏡で化粧を直している。いそがなければ観衆が待ちくたびれてしまう。近くの西口から未来へ張られたロープがでているがドアの裏に偶然の黒ピエロが隠れているかもしれないと身震いした。ピエロは北口から綱渡りを開始した。ピエロは片足ジャンプや逆立ちなど素晴しい演技で喝采を受けながら進んでいく。ピエロの後方からついてきた黒ピエロが突然猛烈な速さで近付きジャンプして頭上を越えてピエロの前に着地した。その反動でロープが大きく揺れバランスを崩したピエロは両手足を広げたまま私の近くの地面に叩きつけられた。口と頭から出血している。
私「医者はいませんか!」と叫びぐったりしているピエロを引き起こして
「大丈夫ですか?」と尋ねた。近くで見ると微笑しているように見えたがまだ少し意識は残っていた。「医者はいないのか、救急車を呼んでくれと!」叫んでいる私とピエロを人々は遠巻きにみているだけだった。ピエロに死が近づいていた。私の肩を軽く叩く者がいた、少女がピエロに渡してと野菊を差し出した。ピエロの手を開くと少女は野菊を手の中に収めて閉じた。「ありがとう」微かにピエロが言ったように聞こえた。
人々が去り私とピエロの死体が広場に残っていると修験者がやってきた。
修験者「近くの教会に行ってピエロの供養と埋葬を頼んだけど異端者の埋葬はできないと断られた、教会の神は異邦人の魂は救済しないようだ」
私「それはこまりましたね、彼をこのまま放置することはできませんし」
修験者「知人が一人もいないようだから墓は要らないかもしれない」
私「放置したら教会と街の人々が何とかしてくれませんか?」
修験者「異端者の死体を放置したと彼らは私達を非難するだろうね」
私「ではどうすればよいのですか」
修験者「しかたがない向こうに見える森に埋めてやろう」
私「彼を運ぶ荷車が必要ですね、近くで借りてきますか?」
修験者「それはやめた方がよい、見知らぬ者に死体を運ぶ大切な荷車を貸す者はいなはずだ」
私「では、どうするのです、二人で担いでいきますか」
修験者「交代で森まで背負っていこう」
薄暗い森の奥でくぼ地を見つけた二人は小枝で穴を掘りピエロの野菊を握っている腕を胸に置き遺体を仰向けに寝かした。
私「顔の向きはどうしましましょうか?」
修験者「ピエロ君は天国を期待してないようだけど地下の地獄も見たくないかな」
私「では顔はメッカに向けたことにして右に向けましょう」
修験者「君はモスレムかね?」
私「違います!どっちかわからないから適当にです、アッラーは誰でも迎えてくれると思いますからこれでよいでしょう」
埋め終わってから盛り土のうえに近くで拾った石を載せた。
私「何かお祈りの言葉をお願いします」
修験者「えっ、私は無神論者だから祈りは忘れたよ」
私「しかたない、では手を合わせてピエロ君アッラーが迎えてくれるから安らかに眠ってください」
修験者の差し出した手ぬぐいで手を拭いて返した。
修験者「君は奇妙な男だね、全く関係ないピエロの死体に世話をやくとは」
私「貴方こそ世捨て人なのに僕と同じことをしているではありませんか」
二人は大声で笑った。
修験者「これから私は仲間が待つ山に帰るけど一緒に来ないかね?」
私「お誘いありがたいですが。もう家に帰ります」
別れを告げて森の奥へ入って行く修験者を見送り、疲れて眠くなった、さて帰ろうと思ったが帰り道をすっかり忘れていた。しかたがない、あの大きな木の根元にある洞で寝るとするか。
都会のピエロ
夕闇の迫った駅前、あわただしい往来の中、駅の入り口近くは待ち合わせの若者たちで華やかである。その中に場違いな私は独りポツンと立っていた。舞踏を忘れたピエロのように引きつりそうな顔で遠くを見つめたり不安そうに足元の路面を踏みしめたりしながら人の流れに大切なものを探している。私は先ほどからそこに居ることが苦痛のであった。昼頃会社の女性をデートに誘い駅前で会いたいと告げていた。やはり今度も駄目だったと頭の中で繰り返しながらそれでもそこから離れず待つことの無意味さをかみしめながら佇んでいた。もうあきらめて帰ろう、いやもう少しだけ待とう、そんな独り言で自分をごまかした。私はまだそこから立ち去ることに躊躇していた。周囲の若者たちは雑踏の中に笑顔を見つけ次々に去っていく。とうとう独りになったが私はまだ立っていた。頭上の街頭が灯り、影が足元に疲れてうずくまったとき、時計を一瞥してそこから去る決意をした。影が解き放れると私は振り返ることなく逃げるように足早に駅前の広場を離れた。
私は駅前の賑やかな通りを歩いた。通り過ぎるカップルが眩しくてなるべく彼らを見ないようにうつむいて歩く。空っぽな意識が彼女の来なかった理由を繕うためにクルクル空回りしている。地面を眺めて歩き続け時々思い出してたちどまりため息をついて空を仰ぎ自分はこの社会では透明な存在なんだとつぶやいた。人の往来が多いひときわ明るい大きなデパートの前を混雑を避けてショーウインドウの近くを歩いた。ガラスの向こうにはきれいに着飾ったマネキン達が誇らしげに立っている。背広を着たスマートなマネキンを見てこいつの方がまだ自分より存在感があると思った。ガラスに映る雑踏を見ながら自分の存在は実態のない幻影だと思った、雑踏の中に独りのピエロが今にも泣きそうな顔つきで私を見つめていた。そうだ自分はピエロだ。生きることや恋することを真剣に考えて笑い種になるピエロなんだ。胴長の頭でっかち、低い鼻に厚
い唇の不細工なピエロ、それでも時々自分を忘れて観客に紛れようとして笑えない失敗をするアホピエロだ。サーカスではピエロが真剣の演技で失敗して転んだら、痛くても観客は笑ってくれるが私の演じるピエロは誰も観てくれず笑ってもくれなかった。透明なピエロはどんな演技をしても無視されるのだ。
私は田舎の若者たちと同じように都会にあこがれていた。田舎の日常性に我慢できず東京に漠然とした何かを期待して数年前に上京した。都会の空間は綱渡りをするには余りに狭かった。都会はすべてが過密で人間の存在空間は狭く人はすし詰めの箱の中で生きている。人波の中に綱渡りする空間はない、結局誰もいない公園で不審者に間違えられないようにひっそり綱渡りした。雑踏での綱渡りは往来の邪魔にならぬよう透明になった。雑踏で田舎ものがよくやる人をうまく避けきれずにぶつりそうになりそのたびに相手に謝意を伝えようとしたがほとんどは無視して通りすぎて行った。東京に住んでから2年目でロープは擦り切れていた。私は生きるために時に追い立てられロープを繕うことを忘れていた。
私は数カ月前から都会生活に倦んでいた。薄っぺらな時間が自分と無関係に流れて行く。私は昼休みに同僚や女子職員と旅行やスポーツに有名人のゴシップ談義で過ごすのを避けて仕事に没頭した。上京当時は仕事帰りに同僚達と居酒屋飲むこともあったが、最近は誘いもことわり続け付き合いの悪い人間になっていた。仕事と残業で一日は過ぎていく。私は残業や休日出勤を頼まれるといつも快く引き受けた。手当て目的ではなく他にやることがなかったからだ。実際仕事が終わるとアパートにまっすぐ帰るだけで休日は部屋で読書とコンピュータ-を触る以外何もなく残業を断る理由はなかった。午後五時、私は社内の解放の喜びからポツンと取り残された。女子社員たちの声が廊下に弾む、私は居残りの子供のように机に向かい書類をながめつづけた。私は仕事一筋の面白くない人間で上司としかたなく飲むことはあっても同僚たちと群れることはなく若い社員の中で透明な存在だった。いまさら学生時代のように余暇をマージャンとパチンコで過ごすことはできなかった。パチンコ店の有線と金属音の混ざった騒音、タバコで霞む部屋、終わった後の空しさと不快感を繰り返したくなかった。
電話が鳴りFaxが紙を吐き出す。これが終わるまで仕事は続く。
今日は残業がなかった。私は会社を出たが解き放なれた羊のように行き場所もなく漠然と帰路についた。駅に向かい、いつもの舗道を歩いた。急ぎ足の人にすれちがうたびに小さな風圧を感じたが無愛想で無視の風だった。
駅に着いても行き先はなかった。夕暮れの駅は帰宅の勤め人であふれている。
駅前の広場で私は立ち止まった、地面に転がしたロープがかすんでいた。思わず足元を踏みしめたがロープの先は人混みの中に消えていた。ロープの先を見ようと焦って前に進むが人にぶつかり罵倒された。キチガイのように何かを必死に探す私を恐れて広場に空間ができた。私は路上を見つめて歩き回った。足元のロープは消えていた。足を踏ん張り周囲を見回した。人々は私を避けて通り過ぎて行く。悄然と立ちすくむ者に声をかける者はいない。帰宅を急ぐ人波が立ちすくむ私の周りを流れてゆく。私の行動を不審に思ったのか広場端の交番から警察官が近づいてきたので慌てて駅に入った。
満員電車のガラス窓に映るモザイクの闇の向こうでピエロが私の現況を笑っている。息苦しかった、この箱の中は酸素が少なく扉に押し付けられ気が遠くなりそうだ。
私「人々は何を思い、毎日この箱に押し込められているのだろう」
ピエロ「生活のため今日を生きぬいたことに満足して家族の待つ家に帰るのだ」
私「生活という根がそれほど必要なのか」
ピエロ「人は働いて食わねばならない、みんな家族と温かい寝床を持っている」
私「人生が苦痛でも家族を養う責務を果たすのか」
ピエロは憂鬱そうに苦笑した。人の臭気が充満して頭痛とともに吐き気がした。揺れる箱の中で人々は押し合いながら沈黙している。不思議な光景だ、彼等は体が触れ合うのに相手の存在を認識してない。
プラットホームにはまだ酸素が少し残っている。人々はベルトコンベアに乗るように円滑に出口へ流れて行く。階段すら流れは滞ることがない。彼等は下を見ずに降りる。私は転落を恐れて階段を見ながら下りた。階段の途中に何か障害物があった。流れはそれを避けて降りてゆく。ごま塩頭の痩せた老人が階段にうずくまっている。私は老人の側に立ち寄り、小声でたずねた。
私「どうされました?」
老人「大丈夫です、少し目眩がしただけです」
私は老人の腕をとりゆっくり助け起こした。二人で降りる階段はいつもの倍になった。階下の混雑した通路で老人は壁に背をもたれ苦しそうに息を吐いた。
私「駅員に救急車を呼んでもらいましょうか」
老人「いや、それには及びません」
私は老人の側に座り込んだ。目の前を無数の足が整然と移動していく。ひと汗かいた後の寒気に目と喉がやけに乾いた。新鮮な空気が欲しかった。ここは大勢の人間がいるのに人間の温もりがないのはどういう訳だろう。
老人「すみません、本当にご迷惑をかけました」老人はふらふら立ち上がろうとした。
私「大丈夫ですか?」
不安定な老人を支えた。
老人「いつまでも、貴方にご迷惑をかけては」
私「いいんです、どうせ暇ですから」
二人は出口に向かう流れに入った。人波のなかで老人は倒れそうになったが何とか出口にたどり着いた。タクシー駐車場は大勢並んでおりふらついている老人に順番をゆずるような雰囲気ではなかった。前列の人に頼んだがことわられた。
私「すみません、だめでした、列に並ばないといけないようです」
老人「ご親切ありがとうございます。皆さん帰宅を急いでいますからしかたありません」老人を支えながら順番を待った。
老人は何度もむみませんもう大丈夫ですから行って下さいと言ったが支えがはずれると倒れそうだから無言で一緒に立っていた。
老人をタクシーに乗せた後快適な軽い疲労を感じた。腹が減った。信号向こうの路地に会社の連中と立ち寄ったてんぷら屋がある。ガラス戸を引くと油の暖かく重い匂いにホッとした。「いらっしゃい」初老の主人が手ぎわよくネタを油鍋に浮かべている。入り口近くの若いカップルを避け鍋から遠いカウンター奥に座った。ビールを飲み、冷やっこにキスとアナゴを食った。幾つかを試してから、アナゴと茄子を再度頼んだ。有線放送と油の音はうるさいがそれほど不快ではなかった。客は次第に増え、やがて三人の紳士が隣に連なり私は奥の席にずれた。酔いが回れば人は饒舌になる。隣組の発する会社と同僚の悪口が耳に障り不愉快になった。会社から開放されても彼らの意識は自由になれない。私は雑踏の中に紛れ込んだと思った。残り酒を飲みほして勘定を頼んだ。飲み屋街から本通りに出る小道は暗かった、向こうから千鳥足で二人連れの男が歩いてきた。私は脇にそれて二人をやり過ごした、風圧を感じたがそのまま先を急いだ。後ろから「おい!挨拶なしか」と怒鳴り声が聞こえたが無視して先に進んだ。再度、「おい、お前!」と聞こえたとき、私は踵を返して二人連れに向かった、殴り倒してやろうと肘を腰に添えた。「おい、まずいよ、こいつやる気だ」相棒が連れの袖を引いた。私は一発殴らせてから渾身の一撃を入れてやろうと身構えた。「すみません、酔っているもんで」相棒は連れを後ろに回して言った。私はその連れが殴りかかるのを期待したが二人は私の目が異常に戦闘的であることに恐れをなしていた。私は相手の闘争意識が萎えたのに気づくき黙して二人から去った。嫌な気分だった、相手を殴らなかったことではなく些細なことで戦闘的になった自分が凶暴な野獣になったような気がした。
東京、同じ服と同じ意識のおとなしい人々、そして、もしかしたら皆孤独かもしれない。毎日の家畜運搬電車につめ込まれて満足している。生きるために、
家族のための忍耐、そして会社のために単純な毎日を確実にこなす。明日の安らぎの為に飲屋で我身の不幸を語り慰め合う。マスコミが虚栄の笛を吹けば大衆は笛音に誘われて踊り自分たちは人生を堅実に生きているのだと幸福になる。不平・不満を飲み屋で小出しに捨て終日の幸福に浸る。彼等には明日があるのだ。明日のために生きなければならない。
明るすぎる地上から星は見えない。都会の淀んだ大気は肩に重い。耳障りな足音が無力な精神を笑い真っ黒な路上でいやみに撥ね回るとかすんだ空へ逃げていった。人々は家族の待つ我が家に向かっているのだろう。疲れと酒のせいか少しふらつきながらねぐらのアパートに向かった。
いつものように高速道路架橋下の十字路に出て駅から流れてくる群衆に入った。
信号で中断されて停止していた群衆と車が流れだす。突然地面が揺れると高速道路が崩れて巨大コンクリートの塊が私と群衆を押し潰した。瓦礫の下で叫ぶ者と血に染まった男女の側で炎上している車。サイレンが走り回る。臨時ニュース、マスコミは唾を飛ばして嬉しそうに悲惨・悲劇を連呼する。視聴者はビールを片手に遠くで起こった喜劇を眺める。翌日マスコミに死亡者名が掲載され大勢の人間が私の存在を一瞥する。我々の存在は無意味なもの、市場でうるさく飛び回るハエのように一つの事象で叩きつぶされるものなのか。今日は昨日と同じではなかった。どこかで汽笛が鳴った。都会の眠りが迫っている、妄想から覚めた私は耳奥のざわめきを振り払った。明日の為に眠らなければならない。建て込んだ家並みの薄暗い路地を通り帰路を急いだ、街灯の裸電球は眠りの暖かさを告げている。通りでひときわ明るい酒屋の看板下の自動販売機の前で硬貨を取り出した、こいつは酒を吐き出すのにいちいち大袈裟な音を出す、私は酒を手に入れるのに静寂を破るこいつが嫌いだ。
薄暗いアパートの階段を靴音殺して二階まで上る。畳み敷きの一DK。ドアを開けると安堵が疲れた体に染み込む。蛍光灯が朝と同じままの生活を白く照らしだす。私と部屋は朝7時半に出た時と同じだ。ふと、ロープがないかと見回し苦笑した。
「馬鹿だなあ、あれはなくしたのに」
「新しいロープを編まなければならない。都会の重い大気に耐え、雑踏をすりぬける軽やかなロープだ。」溜息が出た、「駄目だこんな状態ではできない。軽くて強いロープなら雑踏で消滅したりしない。重力の支配の届かぬ高みにロープを張りたいが無理だ。今の私は与えられた仕事を余計なことは考えずにやるだけで1日を潰している、無意識にベルトコンベアに乗って自分の足で歩く必要のない生活だ、私の足は次第に萎えて綱渡りができなくなるだろうロープはここで生きるのに適応できない、こいつは私の人生にとって一体何なのだ」
巨大な生命エネルギーが、都会の空に渦巻いている。人々はそれを吸い明日
へ向かって生きていく。大気の重さが人間の存在を矮小にする。ここで生きるには、汚れた空気を吸うことに肺が適応するしかないのだ。壁の聳える窓際に寝転がり酒を飲んだ。壁の隙間から薄明るい都会の夜空が見えた。酒カップは空になりいつもの焼酎を引っ張り出す。時がゆっくり流れはじめる、酔いが時のよどみに私を引きずり込んでいく。天井の節が渦まき干渉しながら広がりはじめた。
存在を実在として認識するにはどうすればいいのか?存在は苦痛でないはずだ。今のままではだめだと分かっていながら思考はからまわりして遠ざかり手が届かない。会社は繊細な神経を鈍化させる。組織という網の一節になり果てるのはいやだ。辞めるのは簡単だが無職になるとまともな生活ができなくなる。結婚して暖かい家庭が欲しいが彼女はできそうもない。酒で意識を麻痺させることが今の私にできることだ。
孤独の舞踏
私は闇の空間に浮いていた。そこに止まるには飛翔する意志が必要だった。意志が少しでも鈍れば体はすぐに落下し始めた。重力を感じながら緩慢に闇の中を飛んだ。意志が飛ぶことに慣れるや闇はフッと消え去った。
澄んだ秋空の冷たい大気を感じた。収穫を終えた剥き出しの畑が地平線まで広がっている。微弱な陽光が降り注ぐ疲れた大地のあちこちの畑で百姓達が落ち穂を拾っていた。狭い農道の端で背の高い男が百姓たちを画いている。私はいつの間にか男の側にいた。筆先に凝集された男の意志は外界を拒否していた。精神が筆と踊っている。筆が色鮮やかなピエロになってキャンバスを飛びはねている。軽やかに太陽と大地を創造していく。精神は奇妙な足枷を付けていたが筆を相手に踊っていた。舞踏が永遠に続けば男はどんなに幸福だろうかと私は思った。
落日がせまるや男は疲れ果てたのか舞踏を止めた。すると昂揚した精神は現実に引きずり降ろされて消え去った。
私「暖かそうな日差しですね」
遠慮がちに小声で言った。男は少し驚いたようだったが、
男「ここには温かい陽光が必要なんだよ」
男は微笑しながら答えた。
短く刈り上げた頭にそげた頬、厳しい目つきにもかかわらず、そのほほ笑みには優しさがあった。霞んだ夕焼けが道端の二人の影を引き延ばしていく。百姓たちは荷車に麦穂を積むのをやめて祈りはじめた。疲労した大気が遥か彼方ま
で漂っている。
男「彼らの労働の後の祈りは美しい、例えそれが届かぬ祈りであっても」
男はスケッチをしていた。
私「彼等は何を祈るのですか」
私は祈ったことがなかった。
男「仕事を与えてくれた感謝と明日も今日が続くように神様に祈ったのだよ」
男は苦笑した。
私「仕事は地主からもらったものでしょう、明日も今日と同じように地主から仕事もらって同じことをする日は面白くないと思いますけど、やはり神様に感謝して祈るのですか」
自分の生活を思った。
男「百姓には明日が必要なんだ、神への祈りが明日を確実にすると思っているそれに胡椒の効いたような小さな喜びがあれば彼等は幸福だろうね」
男はキャンバスをたたみながら言った。
寡黙な百姓達が通り過ぎる。冷えた大気と大地の上を荷車を引き明日に向かう疲労した人々の風景に私は息苦しさを感じた。
男「もし良かったら、一杯どうだい」男は顔に似合わない、陽気な声で言った。
私「ありがとうございます、喜んでお供します」男について行くことにした。
男は私に話しかけるともなく、うつむき加減に黙々と歩いて行く。私は黙ったまま歩いた、その方が楽だった。男の沈黙は威圧感があったが私を寡黙にしたのは男から染み出る寂しげな何かであった。土くれの道を踏みしめながら私は都会の舗道にはない自分の重みを感じた。
柳の並木道を通り酒の染み込んだような古い居酒屋に着いた。看板に裸電球2個が灯り、入り口近くに古ぼけた薄汚い丸テーブルを5つ、周りに使い古した椅子がやたら多く並んでいる。宵の口で客は少なかったが、男は明かりから遠い端のテーブルに座った。ひじ掛けは酒飲みの汗と垢で黒光りしている。酒屋は実に無愛想であった。客が座っても注文を取りに出て来ない。夜風がしきりに柳を押す、歩き疲れた体が思わず震えた。労務者風の男が五人入り口近くに陣取ると、やっと腹にエプロンを乗せた主人らしい大男が出て来た。男は声高に腕を振りあげ主人を呼び寄せた。男は常連客ではなくむしろ厄介者扱いを受けているようだ。飲み代をかなり滞納しているらしかった。男が主人に頼み込む。
男「異国の友が来たから、何とかしてくれないか。なに滞納分はすぐ払うよ、二、三日中には弟が送金してくるはずだ」
赤鼻主人は大きな目で不思議そうに私を見つめた。私は立ち上がり頭を下げて挨拶した。主人は驚いたように、そして楽しそうに言った。
主人「よし、今回に限り異国の客人のためにサービスしましょう、ただし今晩だけですよ」
太った年増の女が、白ワインと食い物を運んできた。女も不思議そうに私を見た。私は立ち上がり挨拶と礼を述べた。女は対応にまごつき照れ臭そうに逃げて行った。皿には焼きたてのソーセイジとふかしたジャガイモそれにキャベツの酢ずけが乗っていた。ソーセイジをつまむとテーブルが揺れデカンタの口からワインが溢れこぼれた。
男「君との出会いを、運命に感謝しょう、ブロシット!」
私「ブロシット!」
酒が入ると男は快活になった。
男「これが僕の生活だ、職業も家庭もない無収入生活者だよ。社会の厄介者になっている」
私「僕の国に定職を持たないホームレスの人々はたくさんいます。社会を逃避する彼等の目的が明確でなく誤解されていますが何とか生きています、貴方には目的があるように感じます、描いていたでしょう。楽しそうに、筆が踊っていましたよ」
男「何かを描きたい、描いていると精神が高陽するんだ。でもね、僕の絵はただの一枚も売れないんだ。それでも描いている」
私「描くことですか、でも生活は大変そうですね、そんなにしてまで描きたいのですか」
男「そうだ、僕は精神のために精神を食いつぶして生きている、弟を犠牲にしてだ」
私はいきなり息が詰まりそうになった。
私「なぜ、綱渡りで筆と舞踏しなければならないのですか?」
男は驚いたように囁いた。
男「君はロープを持っているのかね?」
私は手のひらを見せながら、都会生活でなくしたと告げた。男はうなづきながら、自分のを見せてくれた。丈夫で軽そうで短かいロープだった。
男「僕の友人にも都会でロープをなくした連中がいる」
私「彼らはどうしているのですか?」
男「絵を売って楽しく暮らしているはずだ、世間からもらう芸術家のソファーは座り心地が良いらしい」
私「絵が売れて名声とお金が手に入れば生活苦から解放され、自由に生きていけますよ。でも絵が売れて大金が入るとロープを見失うのですか」
人生の大半を会社勤めにつぎ込むサラリーマンからすれば芸術家と呼ばれる自由人は羨ましかった。
私「私たち大衆は生活のためのお金をかせぐことに人生の大半を費やしています」
男「確かに、人は食うために自分の精神と時間を何処かに切り売りするか、もしくは、僕のように弟に寄生するしかない」
私「眼力の無い金持ちは名声のある評論家の評価に盲目的に従い絵を高額で買いますから、絵が評論家に高く評価されなければ売れるのは難しいでしょうね」
男「僕の描いた絵は評論家から評価されたことがなくこれまで1枚も
売れたことがないのでこうして貧乏だ」
私「今の時代では金持ちに好まれるのは視覚的に明るく綺麗な絵でしょうか」
男は険しい顔つきで私を見た。
男「確かにそうだ売れている絵はみな明るく綺麗だ、僕は見たい対象に百姓を考えて描くから都会に住む金持ちには陰気臭くてうけないだろうな。明るい絵も描いているけど評論家には無視されている」
私「絵画は評論家の評価を得ても最終的には大衆が評価して価値が決まるのではないでしょうか。大衆の心の琴線にふれる作品こそ価値があると思います」
男は、ワインを一息に飲み干した。
男「確かに大衆の感性にふれる絵は価値があるだろう。僕は貧しい百姓を勇気づける絵を描くように心がけている。我々画家にとって意志を没入し何かを描く時の精神が舞踏する瞬間、それが至福なのだよ。作品は高揚した精神の痕跡であり、結果としては高揚した精神の遺物でしかない。大衆は痕跡を見ないし、精神の高揚も共感できない。彼らは遺物しか見ない。遺物を他人の目で評価された作品を高値で買い上げる。遺物の高評価に満足した画家は精神の舞踏を忘れた俗人だ。絵は精神の舞踏で描くもので金を稼ぐ手段になった時画家は堕落する」
私は男に強い飛翔力を感じた、私には全くないものだった。男の遺物は現在では男の想像もできない高値で大衆よりもはるか彼方の投機世界で引っ張り回されている。
ワイングラスが空になっていた。男はデカンタを掲げて手を振った、赤鼻主人はきげん良く受け取り、溢れるぐらいついできた。今度は私がと言いサイフを取り出し金を払おうとしたが日本円だった。それではと腕時計を外し渡そうとしたが、親父は受け取らなかった。男はワインをなみなみつぎ、一口ふくんだ。
男「僕は貧しい大衆が好きだ。彼らの報われない日々の生き方に何かして上げたいと思ったが彼らは僕など必要としなかった」
私「そして今は貴方が大衆を必要としている」男は笑った。
男「僕は神を信じていた、これでも元牧師だからね。大衆の惨めな生活を見た時、教会で神に祈るだけの自分に嫌悪して無力な牧師という職業に疑問をもった。教会の外に出て活動しても何ら現実は変わらなかった。その苦痛から逃げ
るために描いた、描きだすと神とか大衆とかみんな忘れてしまった」
私「確かに、何かに没頭すると時が停まり精神は外界から自由になった気分になります。でも牧師は一時でも神を忘れてはならないはずですが」
男「親父はコチコチの牧師でね。神をないがしろにしたと、ものすごく怒られた、勘当ものだよ。でも一人弟だけが理解してくれた」
私「優しい弟さんですね。でも大衆に手を差しのべるのは大変な業でしょう」
男「教会から彼らを眺めるのをやめて、僕はロープを牛糞の転がった地面に転がした。慣習という日常性は大衆をその閾の中に閉じ込める。呼びかけても、彼らは出て来ない、むしろ外にいる僕に石を投げつけてきた」
私「貴方は異邦人だったのですよ。彼らは貴方を好奇な目で見ても自分に接するとひどい病気が移るかもしれないと恐れ忌避したのでしょう。教会の中で彼等のために明日が今日と同じであることを祈ってやれば良かったのです」
男「大衆も同じ毎日を繰り返しなら自分の人生を面白くないと思っているが激しい変化は忌避する、欲しいのは現在の生活を崩さない程度の小さな刺激だ」
私「大衆の幸福はささいなものです、今日チョット変わったことを経験すればもう十分です。同じ毎日を漫然と生きている幸福な世界でそこから逃げ出そうなんて考えていませんよ。大衆は家族と生活を背負い地道に生きるのです」
男「確かに彼らは黙々と生きている、僕はそんな彼等に同情しながら彼らの日常性への執着を軽蔑している。僕はロープを高みに投げて虚空で綱渡りしている。だが下を見て足を踏み外すヘマをするのだ。僕が落下しても彼らは無視だ、深傷でうなろうと誰も助けてくれなかった」
私「大衆は巻き添えを恐れて貴方を助けなかったのでしょう。教会の誰かに救いを求めたのですか?」
男「君は神に祈ったことはあるかね?」
私「ありません、私は無神論者かもしれません」
私は幼い頃、母と一緒に海神様に祈ったことを思い出したが、これまで神に祈ったことはなかった。
男「僕は何日も祈った、神よこの内なる狂気を救い賜へとね」
私「何か啓示があって救われましたか」
私「そのままだよ、自分で解決しろということかもしれない」
私は男の精神が孤独に疲れ果て安らぎを求めているような気がした。
私「道端ではなく教会で平安を取り戻すことを考えなかったのですか」
男「教会では平安になれなかった。見捨てられたのだ。あそこは、神に愛されていると信ずる者が祈る場所だ」
私は不思議な思いで男を見つめた。男は神に見捨てられたと思っても神を精神の礎にしている。男の精神も大衆と同じように神に支えられているのだろうか。
私「教会を離れて他所で描くことはなかったのですか?」
男「金がないから徒歩で行けるところまで行った、たまに弟の勧めで気晴らしの旅には出たよ」
私「教会を離れて旅をすると楽しかったでしょう。いろいろな風景や人と出会い、少しは楽になりましたか?」
男「多くの人間と風景に出会った。当初は新鮮で楽しいが次第に憂鬱になった。1箇所に留まると人も風景も日常になり新鮮さを失うのだ」
私「そうですね、僕も都会に住み始めたときは新鮮に感じました。でも住むと全てが日常的になってしまい、意識が鈍化する一方で動きがとれなくなったのです。でも貴方は筆と楽しく踊ることができるではありませんか」
男「舞踏は少しの間しか続かない。僕の精神はますます閉じ込められていく、いずれどこかで破滅するだろうね」
私「描きつづければ良いではありませんか、描き続けるのですよ」
男「絵を描くには精神が対象に感動し、意志がそれに没入していくことが必要なんだ。その対象物が僕の視界からどんどん減っていく」
私「それは貴方が、現実世界を拒否しているからでしょう。その軽そうなロープでしたら、未来に投げることも可能だと思いますが」
「僕のロープは、未来ではなく虚無に向かっている。それを引き留めているのはこのピエロだよ。こいつと踊っている時が一番幸せだ」
私「ロープを闇に投げるとピエロ君が悲しみますよ。でもどうして平安から遠ざかろうとするのです?平安も悪くはないですよ」
「君は恋をしたことがあるかね?」
男は急に苦虫を崩してたずねた。
私はぶっきらぼうに「ありません、せいぜい片思い止まりです」
男は快活に笑いながら、私の肩をたたいた。
「僕も女を愛した、心からね、だが女から愛されたことは一度もないんだ」
二人で哄笑した。共にグラスを挙げて一気に飲み干した。
ピエロの一日
酔いが時を停めると苦い過去が這い上がってきて記憶の走馬灯になる。覚めれば時はもう遥か彼方で追いかける気力もない。気分が悪いのにそれどころではないんだ。ぼけた顔を水で濡らしたって変わりはしない。今日はもう確実にはじまっている。靴上の朝刊はいつもの世界が存在しているのを告げている。
TVのスイッチを押し、インスタントコーヒーをいれる。毎朝同じことの繰り返しでほかに何もないのだ。ホーム・ドラマのようにあつあつの朝飯を食い、
かわいい女房に送られて出勤したい。できたらそうなりたい、平凡な生活の方が幸せだと思った。路上に規則正しい足音が響き出勤時間を告げる、コーヒーを流しにほうり込みいつもと同じ服をきる。
都会の朝の空気は不快な大気に混ざった排ガスが喉をさす。歩道のプラタナスは一年過ぎた今もたいして成長してない。一年前はすべてが新鮮に感じた。お前は東京のプラタナスだった。通り過ぎる人に「おはようございます」と言った。駅員にあいさつしたら、驚いたように返事してくれた。都会の空気は次第に私を無口にした。意識の感じた新鮮さは薄れ大衆に埋没した。
朝の電車は目的をもつ者だけが乗る。仕事のために家畜運搬電車に我慢して乗る。東京に住めば慣れるといわれたが私には諦めという我慢にすぎなかった。人間はこの箱の中で薄っぺらな存在になる。人々は回り続けた古タイヤのように不快な臭気を帯びている空気を吸っても気づかないほど肺を病んでいる。我々はなぜこの街に留まるのか。会社組織にニッチェを得て平穏に生活するためだ。最初はそうではなく未知のロマンを求めたのではなかったか。
私は上野駅近くに本社をおく中堅の菓子製造会社に勤めていた。 会社にはいつも定刻前についた。「おはようございます」の音声が私は好きである。会社は活気がみなぎり販売業績は順調に伸びていた。私の業務は菓子原料を集荷し工場へ送付することである。販売量に対応した原料を農協から予定通り集めるのは簡単ではなかった。会社と農家は契約栽培で結ばれていたが相場により横流れや横入りの発生が多々あった。農家-農協-経済連と会社-工場、私は一日中、原料の流れに引きずり回された。それは一日で終わる業務ではなかった、明日もつづき、果てしなく続くのである。仕事は最後に工場にたどりつく。原料の搬入と検査に人手が足りない。工場長は工場に定着する若者が少ないとこぼしていた。駐車場の高級乗用車は単純工程に勤務する若者達のものである。彼らは五時になると彼女を乗せて颯爽と走り去る。
日曜日、残業を終えて、新聞広告で見た高級デパートの絵画展に行った。夕方の混雑はひどかったが、我慢して並び千五百円の入場券を買った。青服の警備員がいかめしい顔付きで立っている。展示絵が数臆円もするからだ。人々はエスカレーターに乗ったように眺めてとおりすぎて行く。私は押されながら立ち止まって見つづけた。白布で右耳を押さえた男の自画像に釘付けになった。男は神と運命から見放されて暗黒の深淵で亡霊になっていた。絵の後方に目をこらした。男の精神が宙に浮いたロープの上で筆と舞踏しているのが小さく見えた。人の流れは立ち止まる者を嫌う、私は押されて絵から遠ざかった。それでも再度流れに入り男の自家像を五回見た。
「あの男の綱渡りはとうの昔に終わったんだ」
涸れは神に救いを求めたが救われずに終わった。描くことで辛うじて生き延
びたのだ。彼は生きることを神に問い続けたが答えはなかった。大衆は明日のために神を必要としたが彼はもう明日を必要としなかった。今日があっても今日につづく明日が必ずくるとは限らない。切れ目はどこにでも転がっている。都会は急がしすぎて神に救いを求める暇もない。もっとも、ここの大衆は神なしで明日を信じて生きている。
電車の中で私は扉の外を漠然と眺めつづけた。暗がりの向こうでは光で穴だらけのピエロがかくれんぼしている。私はロープを闇空に投げ飛び上がりたいと思った。飛翔したい希望がありながら地べたを這って空を見上げて飛翔したいと願うウジ虫だ。ピエロが笑った。
「飛翔したいならこの扉から飛べよ」
突然扉が開く。乗客客たちが呆然と見る風の吹き込む扉から若い男がゆっくり夜空に舞い上がっていく。つぎの瞬間男は地面に叩きつけられて死ぬ。翌日の早朝ニュースで若い男が飛び降り自殺したと報じられ私の存在を知らぬ人々が朝飯を食べながらコメンテータの解説で哀れな若者に同情する。
ピエロ、混雑の中で身動きできずに凍っている私を笑うがいい。
駅前の広場で闇空から落下する雨が顔と肩にまとわりついた。肩に重さを感じながらアパート向かう。まばゆい街の明かりは私を憂鬱にした。飲み屋から流れるけだるい音楽は吐き気を誘う。闇の驟雨に傘をさす幸福はない。ねぐらに音をたてずにうつむいて歩く、行き交う人に顔を見られたくないし見たくもなかった。
いつもの自動販売機で缶ビールとカップ酒を買った。酔う前にやるべきことがあった。帰るとすぐにシャワーを浴び、暖かいコーヒーを飲んだ。机の書類をわきに押しやり、数枚しか使ってない便せん帳をおいた。ながいこと親と知人に便りを出してない。あれこれ考え机に向かうがうまい書き出し文が思いつかない。寝転がりしばらく天上を眺めた。簡潔にいくべきだと起き上がり書き始めた。「辞表、私は一身上の都合にて会社を退職致します」不安が広がる。本当にこれでいいのだろうか。会社を辞めた後どうする。やはりだめだ、途中で破り捨てた。便せん帳を放り投げビールと酒を飲んだ。大声でわめきたかった、俺はどうすればいいんだ。窓に写ったピエロが笑った。
ピエロ「誰に向かってわめく。お前には、救いを求める相手はいない」
私「なぜお前は私を嘲笑するのだ」
ピエロ「お前の弱さだ、飛翔する恐れる意思の弱さだ」
私「存在は苦痛だ、思考は空回りするだけで前進できず時間だけが過ぎて行く。ピエロ「過去を振り返ったところで過去のお前の意志は消えて幻影の俺が残っているのだ」
私「重力に支配された現況を意識の彼方に投げ捨てこのおかしな服を脱ぎ捨て
たい」
ピエロ「どんなにもがいても重力で得たニッチェから抜け出すことはできない、お前がニッチェの服で演技を始めてから俺が生まれたのだ」
ガラス窓の向こうでピエロが笑っている。
私「笑うなピエロ、精神が砂漠のラクダのように重たい荷物を背負って綱渡りするピエロを演じるのは苦痛だった、お前と離れたら気持良いだろうな」
ピエロ「ピエロの服を脱げばお前は透明になり誰もお前を認識しなくなる」
苦悩は無能な精神を責めつける。酔いで時が止まり私は眠るその間苦痛は去った。 明日は祈らなくてもくる。今日が切れて明日が来なかったらどんなにいいか。明日を夢見る人は幸せだ。彼らには明日が来るだろう。
病人
会社を退けた人々は陰鬱な冬空に押しつぶされないようにコンクリートの地面を蹴って足早に地下鉄駅に向かう。満員電車から吐き出されてホームに立つと誰かが「おい、雪国に来たぜ。」と叫んだ。
白いものが靴とズボンこびりついてきた。
混雑した改札口を通り抜けて出た外は粉雪の舞う夜景だった。
帰宅を急ぐ群の中で近くの独身らしい二人連れは「冷えたアパートに帰っても何もないから一杯飲んで温まっていこう」と話している。
「そうだ私も今晩飯を買わなくては」
コンビニで夕食の弁当に酒とつまみを買った。
【飲みかけの焼酎とビール2本で今晩は過ごせるはずだ】
アパートの部屋はいつもの様に暗く冷えきっている。
部屋に明かりを灯しこたつのスイッチを入れて潜り込んだ。体がぬくもってからコンビニで温めてもらって温もりが少しだけ残っている弁当を食べた。
背中に寒気がしたので振り返ると、寒いはずだ綿雪が窓にこびりついて消えていく。テレビは東北地方でほ突然の大雪で交通網が麻痺して足止めを食らった人々でごった返す駅を遠い世界のように写している。酔のせいだろうか明日は雪になる天気予報は自分の生活に関係ない別の世界に思えた。明日を信じる人々には必要なことだが私には明日の雪予報は無意味である。
炬燵の温もりと部屋の冷え込みに酒がいっきに眠気を誘導した。
私は吹雪の闇に張られたロープを綱渡りしていた。
「こんな闇夜に綱渡りなんて馬鹿げている、たぶん夢だろう」
周りを眺める余裕はなく先を目指して歩くしかなかった。歩く度にロープが揺れた。バランスを取りながらどれくらい進んだか振り返ると後ろから誰かがついてくる。
「おかしいな、綱渡りは私だけはずだが」
そいつはピエロだった。
ピエロ「おおい!俺をおいて何処に行くんだ」
ピエロがゆっくり近づいてくる
私「近寄るな、このロープは私だけだ」
ピエロ【良いじゃないか、付き合ってやるよ俺はお前の幻影だ、俺がいないとお前は軽くて風に吹き飛ばされるぞ】
私【余計なお世話だ、私は自分の重みで歩ける】
ピエロ「観客がいないと寂しいな、やる気は起こらないが何か芸をやるか」
ピエロは片足で跳ねたり逆立ちをした。その度にロープが揺れる。
私「ふざけるのはやめろ!」
揺れるロープで私はバランスをくずして落下した。闇に中を落下しながらピエロは笑っている。
私「馬鹿ピエロ!私は闇に落ちている」
ピエロ「心配するな、その闇は無重力の亡霊世界だ」
気がつくと私は雪の積もった広場に横たわっていた、落ちたショックは感じたが痛みはなかった。雪を払い周囲を見た、どうやらどこかの夕方の公園らしいく無人で芝生の向こうに街灯の点った木立があった。街灯の下で死人のように横たわる長椅子に雪が積もっていた。雪をはらい椅子に座り込んだ。雪は降り続いているが異世界にいる緊張から寒さは感じなかった。公園近くを流れている川向うはヨーロッパの中世をおもわせる町並みに抜きん出た教会の尖塔が見える。教会は神の威厳を大衆に示すために天まで届くような塔を必要としたのだろうとぼんやり考えているとステッキをささえに川辺りを歩いてきたらし人物が近づいてきた。足元がおぼつかなく今にも倒れそうで私はその老人を支えて椅子に座らせた。外套の肩に積もっている雪を払いながらたずねた。
私「大丈夫ですか?ご病気ようですが遠くから来られたのですか」
老人「家から少しでも遠ざかりたかったのだ、獣のように檻に閉じ込められてはよどんだ空気で肺が腐敗する、ここはまだましだが高山に登り清涼な空気を吸いたいね」
私「病床では登山は無理でしょう、でも高所に登るためのロープは編めると思います」
老人は驚いて私を見つめた。
老人「君はロープを持っているのかね?」
私「持っていましたが、ここへ来る途中の闇でパランスをくずして落下した時に失くしました」
老人「死体ではないとすれば実体のようだ、ケガはしてないようだね」
私「じつは、ボクは実体のないピエロなんです、サーカスのピエロのようにロープからおちても笑われるだけなんです、今回は無観客で闇は沈黙していましたけど無傷なんです。」
老人「私も若い頃は高山にロープをかけて綱渡りをした、落下を恐れず大鷲のように天空を飛翔する気分になったよ」
私「高山での綱渡りは危険ですよ、私は平地に暮らしている大衆と同じように地面に這いつくばって生きているのです。高みにロープを張ると変人扱いされ嘲笑されますからピエロになって地面の大衆を笑わせるのです。」
老人「高山に登るには強い意思で編んだロープと脚力それに清涼な薄い空気に耐える肺が必要だ」
私「高山に登ると下界が小さく煩わしく見えて下山したくなかったでしょう?」
老人「下山すべきではなかった。地面にへばりついて生きている大衆に高山の素晴らしさを教えようと考えたのは間違いだった」。
私「大衆は高みに張られたロープで綱渡りするピエロを喜んで見物しますがバランスをくずして地面に落ちると嘲笑でしょうね、見識のある人々はそれが怖いから綱渡りはしないでしょう」
老人「賢人は地面にロープを転がしてその上で舞踏するぐらいで満足している。」
私「若い頃のあなたは華やかで通行人の邪魔になるぐらいたくさんの舞踏を見せたでしょう。」
老人「確かに地上では彼等の拝跪している過去の遺物と偶像を陳列して破壊することは愉快で脚光をあびた。」
私「大衆の拝跪する頑強な遺物と偶像を破壊するには強力な意思と力に鉄槌が必要ですが
鉄鎚はどうしたのですか?」
老人」古代のギリシャとオリエントの遺跡に埋もれた鉄くずを拾い集めて鉄槌を作った」
私「大衆の拝跪物を彼等の眼前で破壊すると大きな非難がまき起こったでしょう。」
老人「ピエロの余興だと嘲笑された後は軽蔑と無視だった。」
私「貴方の友人は学識豊かで理解してくれたと思います。」
友人も自分の持っている拝跪物を破壊されるのを嫌悪して私から遠ざかった
よ。」
私「貴方は神は死んだと叫んだのにどうして古代人の伝承で創られた神の言葉と信じられている聖書とコラーンを排撃しなかったのですか?」
老人「神は我々の存在基盤を支えており私は神に代わる基盤を探していたからだ。」
私「我々の存在基盤を古代の墓を掘り返して探したのですか、まるで墓掘り人夫ですね」
老人「そうだ神を産みだした古代人の意図を知ることで神を知ろうと考えたが無理だったので古代オリエントの墓場から神を必要としない超人を見つけた」
それがツアラトゥストラですか?彼は神ではなく存在基盤を必要としない超人ではないですか」
老人「そうだ、如何なる存在基盤も必要としない自由意思で飛翔する超人がツアラトゥストラだ」
私「貴方は高山に張ったロープの上から地面に張り付いている大衆に超人を推奨したが見上げるだけで耳を傾ける者はいなかった」
老人「ロープの張った位置が高すぎて声が彼等まで届かなかった」
私「大衆には高所に張ったロープを綱渡りする危険なピエロにみえたでしょうね」
老人「大衆はいずれピエロはバランスをくずして落下すると期待していた」
私「私は自分の重みに耐えるロープを編んでいましたが化粧道具を詰め込んで重くなった背中のリュックでバランスをくずして落ちましたが周囲は無視でした」
老人「うまく綱渡りをするにはクモのように賢くなければならない。」
私「クモは身軽で風雨に耐えて獲物が網にかかるのを風に揺られながら獲物を待っている」
老人「クモは自分の重みに耐える糸で網を張り8本の足で重力を恐れず糸の上を自由に歩き回ることができる」
私「貴方は社会の重力―しがらみを恐れてなかったのですか?」
老人「拝跪物を掲げているのはその重力を操る悪魔だ」
私「権力と権威は重力の悪魔を利用するでしょう、大衆は権威に頭を垂れて拝聴しますよ、あの教会の巨大な尖塔は神の権威の象徴と思います、貴方も大學の塔から拝跪物の破壊を叫んでいたではありませんか。」
老人「その頃は新鋭の学者として大衆は拝聴してくれたよ。」
私「権威のロープの上から貴方が重力の大事にしている慣習と宗教文化を排撃しても周囲は傾聴してくれたと思いますが権威のロープを消失した今舞踏できないピエロになってしまったのですね」
老人「病は私の精神を弱らせ飛翔の意思も奪った。私の舞踏を見る観客は僅かしかいない」
私「ところでツアラトゥストラは何処にいるのでしょうか?」
老人は空を仰ぎ見てつぶやいた。
老人「重力の悪魔を避けて高山の洞窟で友人たちと暮らしていると思う、もう地上に降りてくる必要はないだろう」
遠くで老人を呼ぶ声が聞こえて老人は緩慢に立ち上がった。
老人「私を檻に連れ戻そうと悪魔の子分がやってくる。」
私「お元気で、貴方に神のおかごがありますように。」
老人「ありがとう、でも私には神のおかごはないのだ、神はもういないのだから。」
目覚ましと寒気で目が覚めた、こたつからから体が出ていた。冷えた台所で湯を沸かしながら洗面する。コーヒーを飲んで出勤、早足で地下鉄駅に向かうグループに混ざり家畜運搬電車に詰め込まれて会社に行き与えられた仕事をした。私は無意識にこの日課を数年続けている。無変化の日常に飽きながら確実に明日を迎える。ピエロが耳元で囁く。
ピエロ【無変化は当たり前だ、お前は現状の平安に埋没して変化を起こす意思がないからだ。」
私【無理を言うな、私は現状を変える力なんか持ってない普通のサラリーマンだ。】
ピエロ「お前は自分にないもので変化を起こしたいのか?お前は芸術家や学者だけが飛翔できると思い込んでいるのではないか。」
私「ああ、そう思っている、彼等は社会で認められた存在で自由な時間を持っているはずだ。」
ピエロ「重力の罠にはまった芸術家と学者には飛翔する意思はない、罠は居心地が良いからぬけ出す必要はないのだ。」
私「名声を獲れば金持ちになるから余裕ができる。著名人は御殿に住み自由に発言と行動をして社会で自分の存在をアピールしている」
ピエロ「高位のニッチェを獲得してそこにおさまると金が入り生活に余裕ができてお前のように会社に支配されずにすむと思うだろうが誰も重力から自由になれない。」
私「私を含む大勢の人間はニッチェにおさまって平穏に暮らしている」
ピエロ「お前たちは誕生からニッチに入るように社会教育で仕込まれた哀れな家畜さ。」
私「学校では人類の作った最高の思想である民主主義における自由平等と人間
の尊厳を教えこまれた」
ピエロ「社会を見ろ、君達は自由平等で尊厳が守られているかね?民主主義と共産主義に社会主義は重力の悪魔が大衆をすべて幸福にするふれこみで創った支配システムの偶像だ。毎日家畜電車で運ばれて労働させられる日常を君たちは運命だと思い込んでいるからこっけいだよ」
私「日常に慣れた大衆はそれが運命だと信じて小さなニッチェで満足しているからニッチェから抜けだして高所にロープ張って飛翔する意思なんかないのだ」
ピエロ「古代の権力者と司祭たちは無知な大衆を統治するため偶像に拝跪させたばかりでなく曖昧な口承を自分達の都合の良いように編集して神の言葉と称して精神まで拝跪させた。その欺瞞は現在まで続いている。
私「私は無宗教だから仏や神を信じてないし感心もない」
ピエロ「お前は宗教に存在基盤を置いてないから精神は自由だが重力の悪魔の罠にはまったままだ」
私「神に頼る者は孤独に耐え切れない精神的弱者だ、彼等は伽藍堂の偶像へ自己救済の祈願をして自己満足している」
ピエロ「高みにロープを張って綱渡りするお前の意思は都会生活で萎えている」
私「飛翔したくとも重力に足を引っ張られて高みに行けない」
ピエロ「日常を現況として受け入れ背負っている化粧道具を捨てて孤独を認識すれば重力の罠から抜けられる、実に簡単なことだ」
私「私に素顔に戻れというのか?」
ピエロ「そうだ、化粧道具を捨てれば高山で軽やかな綱渡りができる。」
私「重力の悪魔から担がされた荷物を捨てれば綱渡りの恐怖は消えるか?」
ピエロ「人生を歓喜にするためにロープの上で偶然と一緒に舞踏するのだ」
私「重力を無視してクモのごとくかろやかに綱渡りするか。」
ピエロ「重力の悪魔の支配する世界で自分の意思で張ったロープの上で偶然を楽しむ綱渡りを続けるのだ、観客のいない深淵での綱渡りだがクモのようにロープの上で舞踏すれば落下を恐れることなく暗闇から吹いてくる偶然の風に乗って飛翔することができる。」
ピエロの哄笑
私はボロボロのロープを肩にかけ焼酎を一本ぶら下げて星空の岩浜にいた。星を眺めながら波打ち際を歩く。焼酎が私の友だ、酔いが体に染み込む。私は語る、海へ、星空へ、闇へ。波がさざめく、星がきらめく、闇は沈黙だ。岩に腰掛け、私は語る、闇へ、彼方の闇へ。焼酎はまだ残っている。私は闇に一杯やった、星へ一杯、そして海へ一杯。 一升ビンを片手に岩場を乗り越え歩き続
けた。飲みながら、ほら星の分、海よ飲めと注いだ。海に突き出た岩上に座り、ビンを闇に突き出し叫んだ。一杯は星に、一杯は海に、一杯は闇に、そして残りは僕の運命に。波間から声が聞こえた。
「私にも一杯もらえないかな」
岩の隅に小さな老人が座っていた。私は目をこすった、幻覚ではなかった。
「ちょうど酒が切れてこまっていたところだ」
老人の差し出す湯飲みに焼酎をついだ。
老人「ありがとう。丁度いいところに来てくれた、星と海相手に飽いていたところだ」
私「彼らには酒をたっぷり飲ませないと、おもしろい話は出てきませんよ」
老人「そうだ、確かに酒が足りなかった。ところで背負っている袋、ずいぶんふくらんでいるが、酒のつまみでも入っているのかね」
張り詰めた袋は重たくなっていた。
私「重力世界で得たニッチェで生きるための化粧道具、習慣、人間関係、それに拾い集めた知識と経験のガラクタです」
老人「生きるには多すぎる荷物だが、まあ食うためにはしかたないか。だが、人生を旅するには背中の袋は空の方がいい。今からそんなに詰め込んでいたら重くて歩きづらいぞ。長い人生、道端に転がっている小物で袋はすぐ満杯になる。小物を山ほど集めて見世物小屋を開くのもいいが、足どり軽く旅するには背中の荷は空の方がいい」
「袋を空にすると、僕の存在が消えてしまいます。これらはボクのロープを編む材料に使います」
「それだけ織り込んだらさぞかし重たいロープになるだろう」
「都会の空間に張る強いロープを編みたいのですが、うまくできないので悩んでいます。それにロープを投げる方向もわからないのです」
老人は笑った。
「自分の意志で彼方に投げるかそれとも足元に転がし踏みしめて生きて行くか。そのどちらも君の人生、選択は自由さ。どう生きるか、時の女神は待ってくれる、ただし君が持っている時間の終りまでだがね」
「ロープを高みに投げて飛翔したいが僕にはそんな勇気がないのです」
「まずその荷物を捨てなさい、身軽にならないと飛翔できない。 飛ばんと欲する者は羽根を生やし飛翔する意志を持たねばならない」
「才能があればロープを高みに張ることができるのに僕には何の才能もないのです」
「ロープを高みに張るのに才能はいらない、上昇する意志をもつ孤独な人間になればよい。だが飛翔すればいずれ重力により日常に落下する。死ぬことはな
いが落下の苦痛に耐えるのはやさしくないぞ」
「僕は大衆の中に埋没したくない、日常を生きていくだけの人生から抜け出したいのです」
「大衆も個々においては同一ではない、彼らもまた一つの個性として存在している。生き方は個々異なり万人それぞれの生き方があり自分はその独りであると認めることだ。そうすれば自分の生き方を独自に楽しむことができる。世のしがらみを渡れない者は世間を恨み大衆を軽蔑する。存在は孤独だから思いやりと優しさを携え周囲と楽しむがいい、そうすればしがらみも悪くないことがわかるはすだよ」
「大衆の基盤である日常性は僕の精神を無感覚して押し潰します。毎日くだらないことに時間をすりへらして人生を終えるのはいやなんです」
「精神は飛翔してもいずれ疲労して落下する。大衆の靴で汚れているが日常はその落下を受け止めるクッションだから打身傷ぐらいですむ。落下を恐れず飛び上がってみてはどうだ。日常は連続しその中に存在するものをはぐくむ。どんなに足掻こうと君は君の存在する時代から抜け出ることはできない。君はこの時代の現在という風景の中の点に過ぎない」
私「私の存在は大衆に埋没しているのですか?」
老人「そうだ君の両親が重力の世界に住んでいたように君も誕生から大衆に紛れ込んで綱渡りした結果で現況に居るのだ」
私「大衆の創る重力の引力で私は現況に居るのか」
老人「重力の暗部に隠れた権力の悪魔に取り憑かれた集団は偶像を神聖化して大衆に拝跪させた、偶像に糊塗された権威から運命という幻影が創り出された」
私「神の思し召しという運命で獲得したニッチェを漫然と受け入れ、意志による行動の結果も確定しているという運命の偽証で多くの人々は未来への前進を諦めた」
老人「大衆は今日の続きの明日はあると信じて神に祈るがその保証はなく気休めに過ぎない
私「我々は保証のない日常の中で生き続けるのですか?」
老人「そうだ、明日は続くだろう君がそれを望まなくとも、しかし君の存在が明日に続く保証はない」
私「明日が続く保証がなくても大衆は自分たちの存在は明日に続くと思っています。彼らは忙しすぎて考える暇もない、僕達は明日を保障してくれる神を持ってないのです」
老人「我が大衆は日常性に同化しているから神という保証人なんかいらない。それに我々は明日への祈りをもたない民族だよ。我々は神をもつチャンスがなかったが代わりに仏を刷り込まれたよ。神仏は重力の悪魔から精神に植えつけ
られた概念にすぎない、だから神仏は君の問いには答えられないはずだ。宗教は無垢な子供の精神に「神仏」を刷り込ませた。これらは重力の悪魔を操る権力が子供の精神に教育を介して刻印したものだ。その刷り込みが行われなかった者は自由意志で考えることができる。だから神仏を心にもたないことは不幸なことではない」
私「神が精神に刷り込まれたものでも、神を存在の礎にする人は神のもとで世界を認識して明日を確信して生きていますよ」
「世界は神なくして存在しており、我々は自己の存在を支点にして世界を認識する。神教徒は自己の存在を支点にして認識できないに偶像に拝跪しているがこれは個人の趣味と見なせばよかろう。宗教は人間の矛盾との対決を避け続けてきた。矛盾を神の思し召しという商標のついたビニールに入れて意識の彼方の投げ捨てるか、宿題を隠す子供のように神の袖下に問題を隠し続けてきた。だから、いまだに迷える子羊を救えないでいる」
私「神の基盤があれば、僕は綱渡りで迷わないし安心して綱渡りできます。神の下では人生におけるすべてが必然となり、平安になるような気がします」
「人生に必然はない、あるのは選択と偶然だけだ。だから我々の存在と人生は自由であり、そこに必然性を裏付ける法則はない。自由だから法則がないのだ。我々の選択の軌跡、即ち人生では、偶然も結果として未来を羅針する因子となる。宗教は意識の自由を縛ることから始まる。神という名を拝した重りと戒律の鎖で精神に足かせをつけ意識を地面に固定する。偶然は神のもとで必然にすりかえられる。そもそも君の誕生自体が偶然であり、その延長上に君は存在している。我々は、誕生という偶然から死という絶対にかけられたロープ上で踊るピエロってことだ」
私「自分で解決しろということですか、自分の意志でロープを編み未来へ投げて歩くのですか」
老人「そうだ、神という足かせをつけないだけましだ。君は自分の意志でロープを未来に投げることができる。君は誕生の瞬間から生きる模索を行う義務を負ったのだ」
私「僕には自由がない。生きるために働くだけでロープを投げる自由すらありません。だが、僕の意識はそこに埋没することを拒否します、だから精神は全てを拒否すて穴蔵住まいをしたいのです」
老人「精神を暗闇に閉じ込めてはいけない、精神には日の当たる広場が必要だ。陽光に当て暖め、風雨に打たせ強くするのだ」
私「僕にできるのは、会社を辞め社会のしがらみから抜け出すこと、そして全てを拒否することで精神は平安になれます」
老人「違う、全てを拒否すれば人生はつまらなくなるぞ。人は現在を経験しな
がら未来に歩いてゆく、そして死に至るがその過程で精神は偶然を楽しむ。結果に喜びと悲しみと怒りがあり、精神は自ずから鍛えられる」
私「限界状況の中で、僕は自分の意思で選択し未来にロープを投げねばならないのですか。孤独ですね。結局僕の人生はひとりロープ上を歩くピエロですか」
老人「存在は深淵に張ったロープを綱渡りするピエロだ、足元の暗黒を恐れずに演技すれば楽しくなり深淵の静寂に向かって微笑することで孤独から救われるだろう。人は有から無に流れる浮草、軽やかに流れることを覚えるのだ」
私は袋の中身を岩の上に放り出した。学歴に知識と経験それに途中で拾った雑学のガラクタを海に捨てるのを躊躇したが思い切って捨てた。
老人「わしは帰るぞ」
老人は波間にすべり落ちると、漁火に向い悠然と泳ぎはじめた。波間から老人の詩が聞こえた。
「若者よ、存在はお前のものだ。誕生から青春を経て終焉に至るまでに何を経験するか、それはお前の自由。若者よ自分の意志でロープを未来に投げて歩け、そして存在の歓喜を独り舞踏せよ」
波間で輝き踊る小さな妖精たちは一瞬の存在を歓喜している
闇の彼方から、うねり、ざわめき、くりだしてくる波音は永遠のリズムで時がつづくのを告げている。私の存在は明日を必要とするが明日は私の存在を必要としない。明日は続くだろう私の存在が無に帰するまで。
老人の座っていた岩に詞か刻まれていた。星明かりで文字を拾った。「飛翔を意識する者よ、重荷を捨て未来に続くロープを軽やかに綱渡りせよ」
私は残った焼酎を飲み干し、ビンを思い切り星空に放り投げた。寂しい音が闇に散り、破片がキラキラ波間に落下した。
私は暗い浜道をとぼとぼ帰った。小さな街灯の下でピエロが踊る。人々の暖かい眠りを妨げないように足音を忍ばせ背を丸めて歩いた。私のベッド、星空と闇に囲まれ波音が響く。深い眠りが私を誘う、波がざわめく、星がきらめく、闇は相変わらず沈黙だ。
私は夢を見た。闇の彼方に伸びたロープをピエロが踊りながら綱渡りしている、下手だが楽しそうな演技だ。ふと、ピエロが私を見て微笑したように思った。私は化粧を拭いてロープから飛翔しようと決めた。ピエロは消えて私は静寂の暗黒で揺れるロープに立っていた。孤独を恐れる精神を励ましながら勇気を出して過去の深淵に向かって叫んだ「私の演技はこれで良かったのか?」
「それでよかったのだ!」静寂の暗黒にピエロの哄笑が反響した。
ピエロの哄笑 孤独なピエロ @stamaei
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