第9話
「成田空港は久しぶりだわ。家族でハワイ旅行に行ったでしょう。あの時以来かしら」
「あれは瞳が小学4年生のときかな。家族で行った海外旅行はあれが最初で最後になってしまったわね」
「でも近いうちお母さんを行きたいところへ連れて行くからね。海外でお母さんが行きたいところ後でおしえてよ。ところでこれから来る疋田さんってお母さんの彼氏なの?」
「ただ誘われて数回お食事をしただけよ。彼氏というんじゃないわよ」
「この前の話では、短大で非常勤の講師をしている人なんでしょう。お母さん、よく考えてよ。自分から苦労することないから」
「だから彼氏でもなんでもないって言ったでしょう」
「こんにちは。はじめまして、娘の瞳です」
「はじめまして、疋田鶴夫と申します」
「立派な娘さんがおられるんですね。さっきそこで浜田さんご一家と山下さんご夫婦に会いました。売店に寄ってから来ると言ってましたから、すぐこちらに来ると思います」
山下芳生と浜田進が言葉を交わしながらこちらに向かって歩いてくるのが、鶴夫の目に写った。鶴夫の視線が彼女たちの背後にいきなり移った瞬間、紗友里と瞳は後ろを振り向いた。芳生と進がこちらに向かって歩いてくる。その背後に恭子とみすずが言葉を交わしながら歩いてくるのが見えた。そして彼らから少し離れたところを峰男が歩いていた。彼らは鶴夫と紗友里と瞳が立っているところへ吸い寄せられるように進んでいった。いつの間にか一つの塊のようになっていた。全員がお互いに交互に言葉を交わしていた。みんなの顔にはちきれそうな笑みがあった。会話の音量はますます大きくなって空港全体に響くのではないかと思われるほどであった。突然進が話しをやめて視線を移した。他の者も一人ずつ進の様子の変化に気がついて、進が目を向けている方へ目を向けた。土砂降りのような沈黙がその場を支配した。松山雄一郎と香と徹が彼らの方を向いて立っていた。
空港のロビーから見える空は曇った空であった。青空が微塵も見えない曇り空であった。しかし、彼ら全員の目が松山親子の方に向いた瞬間、針の穴ほどの雲の隙間から太陽の光が差し込んできた。松山親子の6つの瞳には溢れんばかりの涙があった。その6つの瞳が太陽の白い光をロビー一面に反射させた。ロビー一面に反射した光は7つの色へと分裂して輝いていた。雄一郎と香と徹の耳にはロビーに飛び交う七色の色に合わせてバイオリンの音が響いていた。
最初に鶴夫が近づいて行き、徹と香と短く言葉を交わしてから、雄一郎としばらくの間言葉を交わしていた。鶴夫は包みを渡し握手をしてから、一条母娘と入れ替わるように退いた。一条母娘と松山親子が互いに言葉を交わし始めるとその場の雰囲気が急に明るくなった。時々空港のロビー全体に響くのではないかと思えるような笑い声が聞こえた。急に静かになったと思うと、いつの間にか山下夫婦と入れ替わっていた。松山親子と山下夫婦は静かな雰囲気の中でしばらくの間言葉を交わしていた。
更に浜田親子が松山親子の前に立つと、針の穴ほどだった雲の隙間がいつの間にか大きく開かれていた。突然溢れるばかりの太陽の光が彼らのところに降り注いできた。浜田親子と松山親子は一番長く言葉を交わしているように見えた。賑やかとも静かとも言えないような独特の雰囲気の中で言葉が交わされていた。最後に、進と雄一郎だけでしばらくの間言葉が交わされていた。他の者は彼らが話しているのを静かに見つめていた。進は雄一郎に包みを渡した。
皆が見守る中、雄一郎と香と徹はゲートに向かって歩いていった。
雄一郎と香と徹はアリタリア航空のミラノ便の飛行機の3列の座席に座った。雄一郎を挟んで窓際に徹、通路側に香が座った。座席のシートベルトをしたあと、雄一郎は鶴夫と進から渡された包みを、足元に置いたリュックの中から取り出した。鶴夫から渡された包みを開けるとイタリア語の辞書が入っていた。次に進から渡された包みを開けた。ローリング・ストーンズのCD『レット・イット・ブリード』が入っていた。徹は窓の外をずっと見ていた。雄一郎は顔を窓に近づけ外を見た。雲ひとつ見えない青空が雄一郎の目に飛び込んできた。青空を遮るように虹が見事な七色で輝いていた。このような美しい光景を雄一郎は生まれて初めて見た。七色の輝きに合わせてバイオリンの響きが雄一郎の耳に聞こえてきた。いつか香と徹と一緒に聞きに行ったクラシックのバイオリンのコンサートで聞いた曲であった。確かバッハの無伴奏パルティータだっただろうと雄一郎は思った。しばらくそのバイオリンの響きは雄一郎の脳裏の中で響いていた。いつのまにかその響きに合わせて別の旋律が響いていた。それは間違いなくローリング・ストーンズの『ギミー・シェルター』であった。不思議なことにその瞬間、雄一郎は自分の決断が間違いのないものであることが確信できたような気がした。
完
『ギミーシェルター』のように輝いて 振矢瑠以洲 @inabakazutoshi
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