第5話

 一条紗友里は足早に歩道を歩いている。彼女が向かっているのは、今歩いている歩道沿いにある居酒屋である。これからその居酒屋で深夜0時まで働くのであるが、彼女の頭の中は先程まで看護学校で学んでいたことでいっぱいである。看護学校から居酒屋まで歩いて10分ほどの時間内で頭を切り替えなければならない。平日の学校がある日はこのことが彼女にとって最も厄介なことのひとつである。その日の学習内容がいつもよりかなり難しい内容であった時、彼女にとっては辛い日である。居酒屋での仕事はホールスタッフをしているのであるが、客から注文を聞いているときに、その日学校で学んだ専門用語が頭の中を去来するのである。客から注文を聞いているときにその専門用語が耳に響いているような気がしてしようがないのである。だからそのような時は余程神経を集中させて注文に耳を傾けないと間違ってしまうのではないかといつも恐れてしまう。居酒屋から彼女のアパートまで歩いて5分位なのであるが、家に着くのは深夜一時近いことがよくある。IT企業で働いている娘の瞳は帰りがいつも0時近くなのであるが、その時間にはいつもすでに寝ている。紗友里は疲れ切ってシャワーを浴びてすぐに布団に入ってその日を終えることが多い。


 平日でも金曜日ということでその日はとても忙しい日であった。でもその日は学生のバイトの休みが少なかったので、後片付けの時間がいつもよりも早く終わった。0時半前にアパートにたどり着くことは珍しいことであった。玄関のドアを開けると台所の明かりが明々と点いているのが分かった。

「こんなにご馳走、どうしたの?」

「0時過ぎて日が変わったからもう誕生日ね。お誕生日おめでとう」

「ありがとう。一日働いて疲れているのにご馳走作ってくれたの?」

「ノー残業デイだったから6時に家に帰れたのよ。だからずっと料理していたの。楽しかったわ。ケーキも買っておいたよ」

「お風呂の用意しておいたからまず入って。疲れているでしょう。お母さんも明日休みでしょう。奮発して高級ワインを買ってきたからゆっくり飲もうよ」


 食事の後、瞳はテーブルの食器を全部片付けてワイングラスを置いた。彼女はその後すぐに屈んでデーブルの下から買い物袋を取り出した。中から取り出したのはいかにも高級そうなワインのボトルであった。ワインのコルクが抜かれる音がすると、すぐにグラスにワインが注がれる心地よい音が響いた。

「仕事忙しそうだけど大丈夫?」

グラスからワインを一口飲んだ後紗友里は言った。

「ぜんぜん大丈夫だよ。IT関係って結構ブラックな会社が多いけど、私が勤めている会社はブラックどころかホワイトよ」

「帰りが毎日0時近くで、なんでホワイトなの」

「来週から帰りが0時近くってことはないから心配しないで。実はわざと無理を言って残業をさせてもらったの。これ見て」

瞳は紗友里の前に銀行の通帳を差し出した。紗友里はその通帳を開くなり驚いた口調で口を開いた。

「こんなに、いつの間に稼いだの?」

「実はね新入社員で入ってすぐ、新しいプロッジェクトに入ったの。そのプロジェクトで開発したものが大当たりしたの。仕事が楽しくってこんなに残業することになったの。でもこの会社ホワイトよ。残業手当はきちんと出してくれたし、もうこんな残業させないって約束してくれたし」

「でもすごいね。たった3年でこんなに貯金できるなんて」

「だっていくらだって貯金できるわ。お母さん全然お金を受け取らないんだもん」

「働き始めたばかりの娘からお金なんか受け取れるはずがないでしょう。それにしてもこの額すごいわ」

「IT業界ってそういうところなの。一種のギャンブルのようなところがあって当たらないと悲惨だけれど、当たると宝くじが当たったような感じなの」

「そういえば瞳が勤めている会社の社長は確か女性だよね」

「そうよ、そして役員も全員女性よ。部長クラスも全員女性だわ。とにかく社員にしても圧倒的に女性が多いわ」


グラスに残っているワインをすべて飲み干してから瞳が口を開いた。

「ところでお母さん。この借家出ていかない?今中古の一軒家が都内でなければ安く買えるのよ」

「何を言っているの。まずあなたの結婚費用でしょう」

「大丈夫よ。中古ならまだ十分に残るから」

「そういうことじゃないの。お母さんとずっと暮らすと考えてもらっちゃっ困るの。あなたにはお嫁にいってもらって幸せになってもらう。そのことが私にとっての夢なのだから」

「あたしはお母さんの老後のことも考えて言っているの。お母さんこのアパートの家賃老後も払っていくの、大変でしょう?持ち家だったら高い家賃を払わなくてすむのよ。だから近いうち探しに行こうよ」

「でも私が看護学校を卒業するまでこのアパートに住まわせて。近くて便利なんだから」


 ワイングラスを片付けた後、瞳はノートパソコンを取り出してテーブルの上に置いた。

「何あなた、こんな遅くからまた仕事をするの?」

「仕事なんかしないわ。郊外に手頃な中古住宅がないか見ようと思って」

瞳はノートパソコンの電源を入れながら言った。パソコンが起動してからマウスをクリックしながら瞳が続けて言った。

「そういえばお母さんパソコンを買いたいって言ってたよね」

「そう看護学校に通って自分もパソコンを覚えなくちゃだめだなと思ったの。今看護師でもパソコンができないと大変だと言うことが分かったわ。パソコンができないと今は仕事にならないくらいの時代なのね」

「ねえお母さん、大型電気店系列のパソコンショップの広告に面白いものがあるわ。パソコンを割引価格で購入する代わりに、パソコンの講習が選択できるみたい。なかなか充実した内容みたいだわ。ワード、エクセル、パワーポイントまで学べるみたいよ」

「ワードは文章を書くものだよね。エクセル、パワーポイントというのは何なの?」

「エクセルは表計算ソフトと言って画面の中に表が出てきて計算式を入れることが出来るの。家計簿なんか簡単に出来るのよ。便利なソフトよ。パワーポイントはプレゼンテーションソフトと言って、プロジェクターにパソコン画面を映すことで使われることが多いの。写真や文字を使っていろいろ説明するのに便利だから使う人が多いの」

「分かったような、分かんないような。でも面白そうね」

「でもお母さんは看護学校と居酒屋のパートと・・・そんなパソコンの講習に通う時間なんてないよね」

「そのことだけど。私もう居酒屋のパートをやめようかと思っているの。瞳が大学を卒業して就職してからのこの3年間、そんなにお金がかからなくなったから結構貯金できたの。だから来年看護学校を卒業するまでパートは休もうかと思って」

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