第4話

 疋田鶴夫は4コマ目の夜の講義を終えて、今駅のホームから電車に乗ろうとしている。金曜日の夜ということでこれからどこに飲みに行こうかと、嬉しそうに話している会社員のグループがいくつか目につく。会社勤めという経験が鶴夫にはないので彼らの金曜日の開放感というものがいまいちピンとこない。鶴夫は文学部の大学院博士課程まで終了したが、博士号はいまだに取れていない。博士課程終了の年に高校の採用試験を受けることを考えてみたが、熟慮の末やはり研究を続けていくことに決めた。その年、大学の専任の職がないことを早々と知らされていたので、非常勤講師の職を紹介してもらいたいと指導教官の教授にお願いしていた。生活費が必要なので週5日間休みなしで、できるだけ多くのコマ数を引き受けることとなった。ほとんどが短大であった。英文学を研究してきた彼が、教えることとなったのは英文学の学生ではなく、他の様々な学科の学生の一般教養としての英語であった。彼が教えている学生のほとんどは英語が苦手で、英語に興味がないどころか嫌いな学生が多い。英語が必修科目なので、卒業するために単位を取らなければならないので、嫌々ながら出ている学生がほとんどである。月曜日から金曜日まで引き受けられるだけのコマ数を引き受けてきた。博士課程を終了して20年以上過ぎてしまった。予備校や塾の講師も考えたが、研究の夢を諦めきれずにここまで来てしまった。大学時代の彼の同級生で一般企業に勤めている者はそろそろ定年が近づいて定年後の人生計画を考えている。最近会った大学の友人からそのような話を聞かされた。

 いつも見かける場面が再現される。ホームに入ってくる電車。開かれる電車の扉。その扉から吐き出される人々の群れ。その扉の中に流れ込んでいく人々の群れ。その群れの流れに加わっていく鶴夫。いつも見かける会社員の顔。学生の顔。空いた座席に争うように飛び込んでいく人々の群れ。最初からその空いた座席に興味がなくつり革を掴む鶴夫。電車のつり革を掴みながら、ある中吊り広告に目が止まった。その広告を見た瞬間、彼の脳裏に30数年間の年月を超えて、ある場面が去来してきた。彼がビートルズの音楽を聞き始めたのは中学の時であった。ビートルズはすでに解散しておりそれぞれのメンバーが、ソロ活動を精力的に行っていた時代であった。中学の時彼のクラスで洋楽を聞いている者は、ほとんどがビートルズに夢中になっていた。ビートルズのあの曲がいいとか、あのアルバムを買ったけど、その中のあの曲がいいとかの話題が飛び交っていた。彼も最初はその流れにのってビートルズに夢中になっていた。クラスでは透明のハードクリアファイルにアーティストの写真を挟んで下敷きとして使うことが流行っていた。その中で断然多かったのはビートルズの写真であった。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ、とメンバーの名前を覚えて呼び合ってお互いに喜んでいた。鶴夫もその流れにのって透明のハードクリアファイルにビートルズのメンバーのファイルを挟んで楽しんでいた。その時彼に音楽上の衝撃的な出来事が起きた。偶然にもテレビでローリング・ストーンズのドキュメンタリー番組を見た。その番組の随所で出てきたローリング・ストーンズのコンサート風景、ミック・ジャガーの、その当時では奇抜とも思える服装と歌う時の彼の動き、彼はそのテレビから飛び出してくるその場面場面に圧倒され感動した。ミック・ジャガーの歌う様とその動きには、ある何とも言えぬ雰囲気があった。彼の歌声・歌い方には今まで見たことのないような独特のものがあった。彼の隣で物憂げにギターを弾いているキース・リチャーズの何とも言えぬ存在感、この二人の存在の効果を異常に高めている他のメンバー、鶴夫はその瞬間ローリング・ストーンズに夢中になってしまった。クラスではローリング・ストーンズのことを話題にするものは誰もいなかった。そのために彼はますますローリング・ストーンズに傾倒していった。ハードクリアファイルに入っていたビートルズの写真をすべてローリング・ストーンズの写真に入れ替えた。ローリング・ストーンズの来日が近づいていることを、書店で立ち読みした音楽雑誌で見かけた。当時中学生だった彼にローリング・ストーンズの来日コンサートに行くことなど夢のまた夢であった。最初からローリング・ストーンズのコンサートに行くことを諦めていたというより、考えもしていなかった。にもかかわらず彼らのコンサートが来るのをいつの間にか楽しみにしていた。しかし、やがて衝撃的なニュースが入ってきた。彼らの来日コンサートが中止になった。彼は普段から日本が欧米と比べて、映画をはじめとした芸術の表現の自由のない国だと感じていたので、この時その思いが最高度に爆発したような気分であった。そのため将来欧米で生活することも彼の夢の一つであった。そのため彼は英語には興味があった。英語だけは人一倍勉強した。

 電車の中吊り広告には、ステージでマイク片手に飛び交うミック・ジャガーとその脇で物憂げにギターを弾いているキース・リチャーズが写っていた。1973年、彼が中学生だった頃、中止になったローリング・ストーンズの来日が1990年に実現した時、彼は週5日間目一杯受け持つこととなった短大での非常勤講師としての講義と、生涯の研究テーマのための研究と論文作成で、そういった情報には関心がなくなっていた。というよりも最初、洋楽や単なる欧米文化に対する憧れから英語に興味が湧いて、大学は英米文学科を受験して入学したのであるが、そこで文学に出会って彼の人生が一変してしまった。英米文学を勉強していく中でシェークスピアと出会うことは避けられないことであった。彼は大学での研究のなかでシェークスピアに出会って新しい世界を発見してしまった。シェークスピアの魅力の虜になってしまった。シェークスピアには文学を超えた何か不思議な魅力があった。シェークスピアの作品と対峙すると、人生そのものが迫ってくる迫力があった。彼は生涯シェークスピアを研究していきたいと大学時代に思うようになっていた。シェークスピアの研究を自分の仕事にしたいと思うようになっていた。それで他の学生よりも比較的早いうちに大学院に進学することを心に決めていた。こういうことでローリング・ストーンズの来日に関する情報に対して、ほとんど無感覚になってしまっていた。

 中吊り広告に写っているミック・ジャガーとキース・リチャーズの大きな見出しがあった。「ローリング・ストーンズ来日公演決定。最後の来日公演か?」今鶴夫は現代の2010年代に生きていて、この時代の人たちと同じ電車にのっている。しかし、鶴夫の心はローリング・ストーンズの広告を見た瞬間その場所にいなかった。彼の心は1970年代を彷徨っていった。ローリング・ストーンズの初日本公演が中止になった時の悔しい気持ちが蘇ってきた。今ローリング・ストーンズの公演が手の届くところにある。よほどのことがない限り、たとえば彼らの健康状態に決定的な問題が出てきたというようなことがなければ、この公演は中止になることはまずないだろう。1970年代ローリング・ストーンズの公演に行くことなど夢の夢に過ぎなかった。そして彼らの公演中止は彼の夢の夢を無慈悲にも引き裂く酷いものであった。そして今その公演が手の届くところにある。

 彼が降りる駅名がアナウンスされた。そのアナウンスの響きが彼の耳に入るやいなや彼の心は2010年代の現代に引き戻された。


 鶴夫は真っ暗になった家の前に立っていた。彼が家の玄関に近づくと玄関の表にあるセンサーライトが、彼が立っている一帯を照らした。彼は鍵を取り出して玄関の扉の鍵を開けた。彼が足を踏み入れると玄関ホールのセンサーライトが明々と点灯した。靴を下駄箱に入れてスリッパに足をいれてダイニングキッチンへと歩いて行った。ダイニングキッチンの明かりを点けると部屋全体が彼の面前にその姿を現した。昼間の間ずっと人の温もりから遠ざかっていたことからくる閑散とした雰囲気が部屋全体に漂っていた。

 この家は鶴夫の両親が彼に残してくれたものだった。父は鶴夫が大学院に入学した春に亡くなってしまった。鶴夫の父は何の変哲もない普通の会社員であった。入社して以来会社の営業部勤務で、営業成績も取り立てて目立ったこともないものであった。ただ真面目な性格のため適度に力を抜くということをしなかったようだ。帰りが深夜になることが度々あった。土日勤務も多かった。父が亡くなったのは自宅で持ち込みの仕事をしているときであった。亡くなったのは自宅であったので公務災害にならなかった。母にはそのことに不服を申し立てる気力もなかった。その年の秋、父の後を追うように母も亡くなってしまった。

 冷蔵庫から牛乳のパックを取り出してテーブルの上に置いた。食器棚からコップを取り出し牛乳パックの隣に置いた。椅子に座ってからコップに牛乳を注いだ。コップ一杯に注いだ牛乳をいっきに飲み干した。部屋に入った時テーブルの下に置いておいたコンビニの袋から弁当を取り出してテーブルの上に置いた。それから部屋の隅にあるライティングテーブルの上に置いてあったノートパソコンを取りに行ってテーブルの上に置いた。パソコンのアダプターをコンセントに繋いでからパソコンの蓋を開けて電源を入れた。グーグルを立ち上げた後検索のキーワードを入力した。「ローリング・ストーンズ 日本公演」と。検索結果がページ一面に見事に出てきた。一番信頼できそうなものをクリックした。「ローリング・ストーンズ日本公演 東京ドーム」前売り券購入予約のリンクがあった。すぐにクリックした。一番安いチケットで18、000円。その値段を見た瞬間は辛かったが、もう迷いはなかった。すぐに予約購入のボタンを押した。

 必要事項をすべて書き込んで確定を押して、返信メールの確認をした後グーグルを閉じようとした時、ある広告画面が目に止まった。「パソコンを購入する時、本店通常の割引を利用する代わりに無料のパソコン講習を受けることができます。内容はパソコン基本操作・ワード・エクセル・パワーポイントまでの講習を受けることができます。」鶴夫は日頃からエクセルとパワーポイントを研究と講義で使うために覚えたいと思っていた。しかし独学で学ぶことはとうてい無理だと思っていた。

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