第2話

 5時15分、今日も電車は時間通り恭子が住んでいる家の前を、いつも通りの音を立てて走っていった。5時15分、この時間になったら、夕食の最終支度をはじめなければならない。その日の夕食の献立は、いつも朝のうちに分かっていた。芳生の一挙手一投足を、注意して見ていなければ間違えてしまう。今朝芳生は、新聞を読むだけで、他に取り立てて変わったことはしていなかった。そのような時は、ハンバーグ、オニオンスープ、白米と決まっていた。ハンバーグもオニオンスープも、手作りでなければならなかった。そのため、簡単な昼食を済ませてから、夕食の準備に取り掛からなければならなかった。下ごしらえとして、牛肉、豚肉、パン粉、卵、塩、ウスターソース、ナツメグ、コショウを用意して、ハンバーグのタネを作らなければならなかった。

 夕食の用意には、いつも多くの時間を割いて、入念に作らなければならなかった。芳生は、味にうるさい人であった。特に、ハンバーグに関しては注文が多かった。

 銀行で融資部の部長をしている山下芳生が、平日帰宅してくるのは、午後9時頃であった。帰ってからすぐに風呂に入り、なんだかんだいって食べ始めるのは、午後10時頃になってしまうのがいつものことであった。

 午後7時には、料理の下ごしらえが、一通り終えており、後は温めたり、焼いたりするだけになっているのが、いつものことであった。午後8時を過ぎると、恭子はいつも体が、少しずつ緊張し始めてくるのであった。玄関の掃除に、抜かりがないか、下駄箱の靴は、決められた順番通りに入っているか、下駄箱の扉には、埃が付いていなかったか、入念なチェックをしなければならなかった。

 午後8時を過ぎてから、時間はあっという間に過ぎていった。午後9時10分頃に、ちょうど良いお湯加減になっているように、お風呂の用意をしておかなければならかった。お風呂の掃除をしてから、シャンプー等の確認、タオル、着替え等の用意を、しておかなければならなかった。

 午後9時きっかりに、扉の鍵穴に鍵を差し込む音、鍵を回す音、扉を開ける音がした。恭子はいつも、それらの音を聞くと、体全体が、固まっていくのを、感じたのであった。芳生は、いつも黙って、玄関に入ってくるのであった。扉を閉める音の、すぐ後に、下駄箱の扉を開ける音がした。玄関に向かった恭子の目に、最初に入ってきたのは、下駄箱の中を覗き込むようにして、じっと見ている芳生の、立っている姿であった。しばらくしてから、自分の靴を脱いで、下駄箱の中に、その靴を入れてから、恭子の前を通り過ぎていった。

 「お帰りなさい。お風呂の用意は出来ています」

 芳生は、恭子の声に、全く気づかないかの様に、浴室に向かっていった。浴室から、寝巻きに着替えて、食卓に出てくるのは、いつも午後10時少し前の頃であった。その時間に、炊きたてのご飯、焼きたてのハンバーグ、温めたばかりのスープが、食卓に置かれなければならなかった。そして、冷えたての瓶ビールが、用意されていなければならなかった。

 芳生が、浴室のドアを開ける音と、閉める音が、いつもと変わらぬ間隔で、聞こえてきた。芳生は、いつもと変わらぬ間隔で、テーブルの自分の椅子に向かって、歩いてきた。芳生が椅子に座ると同時に、コップの口を、下に向けて、テーブルに置いていたコップを、上に向けてビールをすぐに注ぎ始めた。泡立ったコップの口から、泡が落ちる寸前で注ぐのをやめた。そのコップを右手で握り、一気に飲み干した。

 

 恭子は、食器を洗いながら、ホッとした気持ちでいっぱいであった。今日も無事何事もなく終わった。芳生は、既に寝室に入って、眠っている。あの緊張感から、解き放たれた静かさの中にいる。一日中待っていた時間である。食器を片付けた後、テーブルのいつも恭子が座るいすに、ゆっくりと座った。しばらくの安堵感の後、どっと疲れが押し寄せてきた。芳生と恭子が結婚したのは、30年前であった。同じ地方銀行に同期で入行して、1年ほどで結婚した。彼らは最初に出会った時から、お互いに惹かれあった。それでお互いに、何の抵抗もなく、結婚するようになっていったのは、あまりにも自然な、成り行きであった。結婚後25年間は、幸せな期間であった。結婚生活には、何の不満も不自由もなかった。このような生活が、これからもずっと続いたら、いいと願ったし、続くと信じていた。

 それは5年前に、突然起こった。芳生が恭子に、暴力を振るうとか、暴言を吐いたということはなかった。芳生の口からは、今まで優しい言葉や、労りの言葉しか出てこなかった。それが突然、芳生の口から、真実の言葉、本音の言葉しか出てこなくなった。それはきっかり芳生が、融資部の部長に、昇格が決まったその日からであった。彼の顔つきは自信に満ちたものになっていたように、恭子には見えた。その日以来、彼の口から発せられた言葉は、優しい言葉や労りの言葉ではなかった。彼が今まで心に秘めていた、本音の思いが、言葉になって、発せられたように、恭子には思えた。その言葉の量と質は、日増しに大きく悪質なものとして、恭子には映った。それがあまりにも明らさまで、生々しいものとなって、発せられたように、恭子には思えた。彼女は自分の全てを、その場で見せられたように、感じている自分がいることに気づいた。彼女は料理が不得意であることを、そのことと関連付けている自分がいることに、気づいているのであった。


 翌日のことであった。恭子は結婚してから今まで一度もしたことがなかったことを実行した。その日の夕食の献立をすべて外注した。かなりの突然の出費であったが、恭子がコツコツ貯めた貯金の中から出費した。いつもの夕食のようにテーブルに料理を並べた。見た目だけではいつもと変わらないはずである。食べた時その違いが分かるはずである。

最後に冷えたての瓶ビールを用意した。

 芳生が浴室のドアを開ける音と閉める音がいつもと変わらぬ間隔で聞こえてきた。芳生はいつもと変わらぬ間隔でテーブルの自分の椅子に向かって歩いてきた。芳生が椅子に座ると同時にコップの口を下に向けてテーブルに置いていたコップを上に向けてビールをすぐに注ぎ始めた。泡立ったコップの口から泡が落ちる寸前で注ぐのをやめた。そのコップを右手で握り一気に飲み干した。

 芳生は空になったコップをテーブルの上に置いた。テーブルとコップのガラスがぶつかる音がした。芳生はいきなり椅子から立ち上がりトイレに向かって歩き始めた。と同時に鈍い音がした。キッチンのところで水道の水をコップに入れようとしていた恭子はその音に驚いてテーブルの方を見た。芳生はテーブルのそばの床に倒れていた。体を震わせていた。

 

 病室のベッドで静かに息をしながら眠っている芳生をしばらく見た後、恭子は大きなため息をついた。と同時にドアの開く音がして一人の男性医師が入ってきた。恭子はその医師に向かって深々とお辞儀をした。

「奥さん、ご苦労さまでした。ご心配だったと思いますが安心してください。緊急だったので簡単な検査しかしていませんが、特に体の異常と言ったものは見つかりませんでした。後日一応精密検査をしますが恐らく何も異常は見つからないと思います。」

「主人はどうして何が原因で倒れてしまったのでしょうか?」

「過度の疲労ですね。仕事がとても忙しかったのでしょう」

「精密検査はいつになるのでしょうか?」

「できれば明日。おそくても明後日には行いたいと思います。恐らく何も異常な結果はでないと思いますから心配しないでください。今日は大変お疲れでしょうからもうお帰りになってゆっくり休んでください」


 芳生は眠りから覚めた。カーテンの隙間から入ってくる太陽の光の眩しさが、芳生を一瞬だけ子供時代へ呼び戻したような気がした。悪夢から覚めたことは確かであった。夢の内容は全く思い出すことはできなかった。しかし夢を見ていたことは確かであった。仕事の夢を見ていたことは確かであった。だが、具体的なことは何一つ覚えていない。それどころか輪郭さえ思い出せない。その夢が仕事に関することで、嫌な夢であったということしか思い出せなかった。

 家で夕食の時トイレに行こうと思って立ち上がった時、体中に何とも言えないような感覚が走った。今まで感じたことのないような感覚であった。長時間正座した時足がしびれを感じる。そのしびれの感覚が体全体に感じたような感覚であった。特に頭部にその感覚を一番強く感じたような気分であった。朦朧とした意識の中で恭子の呼びかける声が聞こえた。救急車を呼ぶ恭子の声が聞こえた。いつの間にか救急車のサイレンの音だけが頭の中で響いていた。その後の記憶が全くなかった。

 病室のベッドに横たわって、カーテンから漏れてくる朝の太陽の光を浴びながら、芳生は今自分が置かれた状況を少しずつ理解できるようになってきた。仕事が洪水のようにいきなり芳生の一瞬空白になった記憶を通って押し寄せてきた。病気知らずの芳生にとって今人生において初めての入院の経験をしている。生まれて初めて病院のベッドに横たわって不思議な感情を感じていた。洪水のように押し寄せてくる仕事を客観的に見ている自分が存在している感覚である。

 ドアの開く音と同時に恭子が入ってきた。

「これから先生が来て説明してくれるそうですけど、単なる過労だということでよかったです。簡単な検査を昨夜してくれたのですけど異常はなかったと説明してくれました。よかったです。念の為今日か明日に精密検査をするそうですよ」

「いろいろ迷惑をかけて済まなかった。今何時だろうか?」

「時計はサイドボードの上にあります」

「いけない、もうこんな時間か。会社に連絡しないと」

「会社には私が連絡しておきました。精密検査の件も連絡しておきました。いくら過労とはいえ倒れたのですから数日は休んだほうがいいですよ」


 病室の扉が開く音で芳生は目が覚めた。看護師が昼食を載せたカートを移動させながら部屋に入ってきた。

「お昼ですよ。よく眠れましたか。奥様は先程帰ったところですよ」

昼食のトレーを移動式のベッド用のテーブルに置いた後、看護師はカートを押して部屋から出ていった。扉の閉まる音が静かに響いた。

 昼食を食べながら芳生が考えていたことは仕事のことではなかった。扉が開く音で目が覚めてから芳生の頭の中にあったのは恭子のことであった。融資部の部長に決まってから恭子に対して自分がとってきた態度と言葉のことを考えていた。恭子にたいしてすまないという思いでいっぱいであった。何といって謝ったらいいか考えていた。芳生の勤めている銀行の融資部は窓際部署のようなところになってしまっていた。恭子が銀行を辞めてから二十数年ほどの間に銀行は様変わりしてしまった。芳生の務める銀行の融資部の部長は恭子が勤めていた頃のような出世街道へのワンステップではなくなっていた。中堅の銀行にとって優良な融資先が激減してきてしまった。大学時代の友人たちから聞いた話では、インターネットがかなり関係しているのではないかということであった。クラウドファンディングなるものがかなり普及してきて、その所為もあるかもしれないということであった。優良な中小企業がクラウドファンディングを通して、かなりの資金を集めることができるような環境になってきているということであった。融資部といっても融資先が激減してしまった。そのため実質的な仕事としてカードローンの営業紛いのものが多くなってしまった。融資部の部長になってから毎日が地獄のようになってしまった。部長ということであったので恭子の前では自信を持った態度でいようと思った。そのことはしっかりと覚えている。しかし毎日の辛さのなかで無意識のうちに恭子に辛く当たっていたのかも知れない。芳生は恭子に謝らなければならないと考えていた。恭子に謝って関係を修復しなければならないと思っていた。仕事のことはどうでもいいと思うようになっていた。いざとなれば退職してもいいと思い始めていた。


 恭子は買い物から帰って家の玄関の鍵を開けようとすると鍵がすでに開いていた。家に入るとダイニングキッチンの明かりが点いていた。

「帰っているとは思わなかったわ」

「御免、知らせなくて。精密検査が終わればもう好きな時に帰っていい、と言われたんで嬉しくて帰ってきてしまった。やっぱり家はいいね」

「まあ、夕食の用意をしてくださったの?」

「ご飯だけは炊いたけど。他は全部でき合いのもので、すまないね。せっかく買い物してきてくれたのに、すまないね」

「だいじょうぶよ。今日中に食べなくてはならないものではないから。まあ、みんな私の好きなおかずなのね。嬉しいわ、どこで買ってきてくださったの?」

買ってきた食料品を冷蔵庫に入れながら恭子は言った。

「病院の近くにできたばかりのスーパーがあったよね。そこで買ったんだ。とにかく早く食べよう」

テーブルにはおかずが盛られた皿が置いてあった。その脇にご飯を盛った茶碗を置いて芳生は椅子に座った。恭子もテーブルの椅子に腰掛けた。

「美味しいわ。こんなに美味しいのだったら、家で料理するのが馬鹿らしくなってしまうわ。二人だけならこんなふうに食べたほうが安く上がるのじゃないかしら」

「美味しいね。見た目だけじゃないね。こんなに美味しくて値段も手頃で、今は便利だね」

芳生は食べるのをやめてしばらく窓の方をじっと見つめた後、恭子の目を見ながら続けて言った。

「昼間病院のベッドで横になりながらずっと考えていたんだけど、君には謝らなくちゃいけないと思って。実は今の融資部は窓際部のようになってしまったんだ。仕事の内容がサラ金紛いのものになってしまって、心がぼろぼろになってしまっていたんだ。自分のことだけで頭の中が一杯で無意識のうちに君にとっていた態度がどのようなものであったか全然気が付かなかったんだ。病院のベッドで横になりながらじっと考えていた時君に対してとった僕の態度が鮮やかに頭に浮かんできたんだ。本当にすまなかったと思っているんだ」

「たぶん仕事のことじゃないかと思ったけれど。でも、もしかしたらDVの素質もあるのじゃないかと一抹の不安はあったけど」

「本当御免、すまなかったと思っているけど。」

芳生は暗くなった窓をしばらく見ていた。箸置きに箸を置いてから恭子の目をじっと見つめてから口を開いた。

「実は退職しようと思って」

「そう言ってくれて安心したわ」

「驚くと思ったけど、ずいぶんあっさりしているんだね」

「だって私たちには子供がいなくて二人きりだし。どうにかなるわ。それよりも大事なのはあなたの体よ」

「それからそのスーパーの隣にパソコンショップもあったんだけど、そこで新製品のパソコンの購入予約をしてきたんだ。その店では20万円以上のパソコンはかなり割引してくれるみたいなんだけど、割引の代わりに無料のパソコン講習を選択することが出来るようになったみたいんだ。基本からワード、エクセル、パワーポイントとかなり充実している講習のようなんだ。それで早速そっちの方を選択して申し込んできたんだ。再就職するのに少なくともパソコンくらいできないとどうしようもないだろうから」

「そこまで考えていたんですか。でもいざ辞めるとなると仕事の引き継ぎの方は大丈夫なの?」

「実際もう仕事の引き継ぎの問題じゃないから。うちの銀行の融資部は実質サラ金だから。やってることはお金に困った下流老人予備軍にカードローンを連発発行しているだけだから。だれでも出来る仕事だよ。僕がいついなくなっても困ることはないよ。良心の呵責がなくて自分の時間がなくても平気なら誰でも出来る仕事だよ」

「失業となれば雇用保険の給付も受けられるし、ハローワークでパソコンの講習も本格的なものが無料で受けられるんじゃないの?」

「そう、でも僕はパソコンに関しては全くの素人だから、職業訓練としてハローワークを通してパソコンの講習を受ける前に、手始めに今回のような講習を受けてみたいんだ。ある程度パソコンの基本的なことに慣れてから本格的な講習を受けたいんだ」

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