―生霊探し―

第一章 立花藍

第1話 

 真夏の暑い日だった。眼下のコンクリートからは蜃気楼が見えて遠くの景色がたゆんで見える。晴れ渡るような青空を入道雲が空を覆いゆっくりと雲が移動していく。


 その日、立花藍たちばなあいはベランダにビニールプールを出してもらい水着に着替えてプールで遊んでいた。母は洗濯物を干しながらにこにこと藍を眺めていた。 


「お茶を取ってくるからベランダに近づかないでね」


 母が藍に注意してからリビングに入ってすぐ、隣の部屋のベランダからペタペタと足音が聞こえた後、衣擦れの音が聞こえた。藍が音のしたほうに目を向けると隣室との仕切りにある隔て板から身を乗り出し歯茎をむき出しにして、ギョロリとした目で笑う女と目があった。 


「あ、知沙ちさちゃんのお母さん」


 いつもの笑顔とは別人だが隣の部屋に住む友達の母親だった。何も言わない。ただ、黙って藍を見つめていた。


 その時、藍の目に女の後ろにぴたりと張り付く黒いもやが見えた。知沙ちゃんをおんぶしているのか影かと思ったがそれは真っ黒いもやで、よくよく見ると靄の中にもう一人の知沙ちゃんのお母さんの姿が見えた。


 燦々と陽が照りつけるベランダは明るく、その黒い靄が普通の影ではないことは、幼い藍でもすぐに気付いた。藍が不思議に思い目を凝らそうとした時、母がベランダに戻ってきた。


「藍? あ、倉持くらもちさ……」


 母は藍の元に駆け寄った。


「どうしました……?」


 母は隔て板から見える隣人の形相に動揺しながらも笑顔で話しかけた。


「こ……こんにちは」

『イイネ。アナタハイイネ』


 藍にはそう聞こえた。女は顔をこちらに向けたままズリズリと手すりから身を乗り出しゆっくりと視界から消えた。直後、ドスンと肉体がコンクリートに叩きつけられた轟音が響いた。


「え……?」


 母は、何があったのか確認するように藍とベランダを何往復か見たあとポケットから携帯電話を取り出し震える手で電話を掛けた。


「きゅ……救急です! 今、今マンションから、人が落ちました。旺南おうなんマンションのじゅ……十階です。隣に住んでいる人で、一〇六号室の方です!」

「知沙ちゃんのお母さん!」


 藍がプールから上がろうとした瞬間、母は藍の肩を押さえた。


「見ちゃダメ!」


 母のあまりの剣幕に藍は驚いた。


「知沙ちゃんお母さんの後ろに何かいた」


 母は藍の言葉を聞くこともなく電話を終えると、震える手で藍を抱き上げて部屋に入った。


十年後 四月八日(月曜日)


 この春、藍は無事に受験を終えて櫻田さくらだ高校に進学した。自宅マンションの最寄り駅である櫻田南駅から電車通学で二十分ほどで通える距離の中堅レベルの進学校だ。一年生は普通科のみだが二年生からは理系と文系に分かれて大学受験に向けて教科コースを選ぶことが出来る。


 先週末の土曜日、無事に入学式を終えていよいよ今日から学校生活が始まる。今年の一年生は三クラスあり、小学生の頃から親友の相田桜あいださくらも同じ高校に入学し偶然にも同じクラスだった。体育館での朝礼の時、こっそりと桜の方を見ると桜は姿勢正しく立ったまま寝ているのを見つけて藍は噴き出しそうになった。


 桜は昔から天然なところがあって藍の心を楽しませてくれる。朝礼が終わるとぞろぞろと生徒たちが教室へ戻る中、藍は桜をからかった。


「ね、桜、寝てたでしょう」

「寝てないよ。ビシッと立ってたよ」

「いや、立ちながら寝てた!」


 二人は教室に向かいながら談笑した。二階の教室に到着すると、担任の服部はっとり先生から挨拶の後、右端の最前列に座る人から一人ひとり順番に挨拶をしていった。藍は緊張しながら自分の番を終えて皆の挨拶を眺めている時だった。隣の列の斜め後ろに座る男子の一人に目を凝らした。その男子は挨拶の順番が回ってくると、椅子を引いて立ち上がった。


三上崇之みかみたかゆきです。よろしくお願いします」


 藍は三上崇之を凝視して見た。三上は席に座ると前を見据えている。藍の心臓は驚きでバクバクと脈を打ち、動揺した。三上崇之。彼の背中には黒い靄に包まれた生霊が憑いていた。靄の中、肩くらいまでは体が見えるもののそこから下は靄に隠れて真っ黒くなってしまい見えない。


 黒い靄の中の三上は青白い肌をしており、目が白目を剥き出しているせいで異様に黒目が小さく見える。真顔の三上本人とは違い、生霊は怒気を持った表情で眉を寄せて目じりを吊り上げ、口を一文字にしている。その表情にギョッとした藍は息を呑んで前を向いた。


 順番通りに挨拶が終わったものの藍は動揺のあまり三上の後の人の自己紹介はほとんど耳に入ってこなかった。自己紹介が終わると、その後は通常通りのホームルームが始まり行間休みに入った。


「ね、部活は陸上部だよね?」


 桜が嬉しそうに藍の机までやってきた。


「もちろん」

「私も! 陸上部続ける!」


 二人は中学の時から一緒の陸上部だ。藍は長距離の選手で、桜は短距離の選手。


「だよね」

「部活見学、明日行こうよ」

「うん。そうしよう」


 藍は先ほどの動揺を顔に出さないよう、必死に取り繕った。

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