本当に好きなのは?

T.KANEKO

本当に好きなのは?

 「あれっ、奈緒美じゃん!」

 思いがけない場所で突然、男性に声を掛けられた。

 それは富士山の山頂でご来光を待っている時だった。

 岩場にびっしりと貼りつく登山客、雲の下から光が差し込み、ざわめき始めた人波の中から届いたどことなく聞き覚えのある声、それは懐かしさと、温かさと、気まずさを同時に運んで飛んで来た。

 声の主は秀三(しゅうぞう)、大学生の頃に交際していた元彼だった。


 私と秀三は大学のテニスサークルで知り合った。

 同級生の秀三は何をするにも熱くなる人で、私にとっては苦手なタイプだった。

 喜怒哀楽が激しくて、テニスの試合で勝てば大喜びし負ければ悔し涙を流す、サークル活動で遊びに行くと、とにかく目立ちたがるタイプで、ハイキングでは先頭に立って歩き、バーベキューではコンロの前を独占し、花見では朝早くから場所取りをする、それでいて自分の思い通りに進まないと臍を曲げてふて腐れる。とても面倒臭くて扱いづらい奴だった。


 私にはサークルの中に好きな男性が居た。ひとつ上の先輩で、何をやってもスマートで、秀三の様にみんなを引っ張る、というタイプでは無かったけど、結局最後にまとめるのは、その先輩になる、そんな誰からも信頼されている人だった。

 私はその先輩と何度か二人きりでデートをした事がある。

 とても優しくて、訪れる場所も、お店も、料理の選び方も、何もかもが非の打ち所が無い素敵な人だった。誕生日には大きな花束をプレゼントしてくれて、デートの時は手を繋いで歩くほどだったから、きっと私の事を思ってくれている、そんな風に感じていた。

 でもそれは私の勘違いだった事に気付かされる。


 それはサークルのスキー合宿の時だった。

 年季の入った温泉旅館のロビーに置かれていた革張りのソファーに座って、私はマンガを読んでいた。はじめの一歩という少年マンガだ。第一巻をパラパラっと流し読みしていたらハマってしまい、ロビーの本棚に全巻揃っていた事もあって読み漁っていた。

 そこへ親友の麻美とその先輩が腕を組んで帰ってきた。

 少し気まずそうな顔をする麻美と、麻美の頭に積もった雪を優しく振り払う先輩、麻美は私から視線を逸らし、先輩は最初から目を合わせようとすらしなかった。

 麻美と先輩が持ち込んだ冷たい空気がロビーに充満して、私の心はひどく沈んだ。 

 先輩が私以外の女性と腕を組んでいた事、それに腕を組んでいた相手が先輩とのデートの話を打ち明けてきた親友の麻美だった事、頭の中は真っ白になり、それがじわじわとグレーに滲み始め、やがて目の前は真っ暗になった。

 色んな事を裏切られたような気分になり、思い描いていた華やかな学生生活がガラガラと音を立てて崩れていくのを実感した。

 そこへ秀三がやって来た。風呂上りの秀三はのん気に鼻唄を歌いながらやって来て、私の存在に気づく。私は平静を保とうとしてマンガをペラペラと捲ったが、その仕草はかえって不自然に見えたかもしれない。

 秀三はロビーに置かれていた年代物の自販機をゴソゴソといじり、縦長の赤い容器と緑の容器を両手に持って、私の隣に座った。

 「どっちが良い?」

 それはどんぶり型ではない見慣れない形をした赤いきつねと緑のたぬきだった。

 お腹が空いていた訳ではなかったけど、何となく秀三に救われた気がした私は、緑のたぬきを選んだ。

 すると秀三は「良かった、俺は赤いきつねが食べたかったんだ」と言ってニコニコと笑った。その時の屈託のない笑顔と温もりが、空っぽになってしまった私の心を埋めたのだと思う。気付いたら私達は彼氏と彼女の関係になっていた。


 秀三は、私の好きなタイプとは全然違う人だった。だけど何故か一緒に居るとほっと出来た。好きなタイプじゃないから、良く見られようなんて思う必要もないし、元々悪い印象しかない人だったから、それ以上悪く思う事も無かった。

 二人のデートはいつもアウトドアだった。

 二人きりでテニスをしたり、海へ行ったり、山歩きをしたり、フェスへ出かけて声が枯れるほど大騒ぎをするなんて事もあった…… 

 がさつで、いい加減で、女性に対する気遣いとか、お洒落のセンスとか全く無くて、褒めたりとか、私への思いとかを口に出来る人じゃなかったから、決して自慢できるような彼氏では無かったけれど、それでも二人で居ると笑いが絶えなかった。

 お互いに主張し合うタイプだったから、ぶつかり合う事が多くて喧嘩も沢山したけれど、大抵は秀三に抱きしめられる事で落着していた。不器用な秀三は、そうする事でしか二人の間に出来た溝を埋める事が出来なかったんだと思う。

 私も抱きしめられて、秀三のがっしりとした胸板から伝わってくる温もりを感じると、何となくわだかまりが解消される気がしていた。

 仲直りすると秀三はいつもお湯を注いだ赤いきつねと緑のたぬきを持ってきて、「どっちが良い?」と聞いてきた。私が緑のたぬきを選ぶのを知っているのに毎回聞いてきた。そして汁が沁み込んでクタクタになった天ぷらをフーフーしながら食べる私を隣でじーっと見つめるのだ。

 あの頃の私達は幸せだった気がする、何か特別に素敵な思い出があったという訳ではないけれど、秀三の傍にいると、着飾る事無く自然でいられて、思っている事をそのまま言葉に出来て、思いっきり羽を伸ばせた。将来の事なんて気にしないで、その時、その瞬間の喜びを感じて生きていられた。

 だけど、就職してお互いの勤務地が離ればなれになってしまい破局した。

 理由は良く分からない。きっと傍にいなければ溝を埋めあう事が出来ない関係だったのだと思う。


 雲海の中から浮かび上がってきたご来光、初めて見たその神々しさに私の瞳は潤んだ。だけど私の気持ちの半分は隣にいる秀三に奪われていた気がする。

 太陽がすっかり昇り、賑わっていた登山客が下山を始めても、私と秀三はしばらく岩場に腰を掛けたままだった。何を話すという訳でもないのに……

 沈黙に耐え切れなくなった私は声を掛けた。

 「秀三、彼女出来た?」

 「いないよ! 俺みたいな男と付き合ってくれる女なんて滅多にいないもん」

 「奈緒美はどうなんだ?」

 「私は出来たよ」

 「そっか……」

 秀三の笑顔の奥に寂しさが浮かび、私の胸はキュッと締め付けられるように痛んだ。


 秀三と別れて三年が過ぎた頃、新しい彼氏が出来た。

 同じ職場の先輩で、秀三とは違ってとても紳士的で、仕事が抜群に出来て、いつも冷静で感情を露わにする事がない、それでいて、言って欲しい事をきちんと言葉にして伝えてくれる完璧な人だ。だから喧嘩なんて一度もした事がない。

 読書とか、映画鑑賞とか、芸術鑑賞とか、どちらかと言うとインドア派な人だけど、お洒落な服装に身を包んで颯爽と歩く姿はいつ見ても格好良い。

 不満なんてひとつも無い、それなのに秀三を前にすると何故か心が疼き出す。

 それはなぜ?

 彼の前だと、いつもきちんとお洒落をしなければならないから?

 彼の前だと、愚痴をいう事が出来ないから?

 それとも、フェスで大騒ぎをしたり、言いたい事を言い合って喧嘩をしたり、朝まで飲み明かしたり出来ないから?

 違う、そんな筈はない。

 だって今の彼は、私が素敵な女性になれるように導いてくれているのだから……

 Tシャツと短パンで外出したり、上司の悪口を言ったり、胡坐をかいてお酒を飲んだり、出来もしない夢物語を語ったり、そんな事をしていたら素敵な女性にはなれない、それを彼は教えてくれているのだ。

 だから、彼に不満なんて何もない。

 だけど……


 「奈緒美、幸せか?」

 秀三が少し心配そうな顔をして、私の顔を覗きこんできた。

 「たぶんね。『羨ましいな!』って女友達には良く言われるよ」

 「そっか、それなら良かった」

 秀三の顔が、学生の頃よりも丸くなった気がした。

 「あっ、そうだ。ちょっと待ってて」

 そう言うと秀三は山頂の売店へ行き、赤と緑のどんぶりを両手に持って戻ってきた。

 「どっちが良い?」

 あの頃の様に、秀三は言った

 「懐かしいなぁ、こういうの食べるの久しぶり!」

 「あんなに好きだったのに、食べてないのか?」

 「私の彼、食べ物にこだわりがあってね、手料理か高級レストランでしか食事をしないんだ」

 「へぇ、うまいのになぁ」

 「私、今日は赤にしようかな」

 「あれ、そうなの…… 実は俺さぁ、緑が好きだったんだよね」

 秀三はヘラヘラと笑った。

 「だったら、言えば良かったのに」

 「だってさ、『秀三は赤って感じだよね!』って奈緒美が言っただろ」

 「そんな事、言ったっけ」

 「言ったよ、俺はさぁ、たぬきの天ぷらをサクサクって食べるのが好きなんだ」

 秀三は、わざと大きな音を立てて、天ぷらを嬉しそうに食べた。

 その顔を見つめていたら、突然、涙が溢れてきた。

 油揚げにたっぷりと沁み込んだ出汁の香りが口の中一杯に広がる。

 温かくて、甘いようで、しょっぱくて、冷えた身体にじんわりと伝わってくる。

 特別な場所で、特別な人と食べる、特別な味。

 「赤いきつね、美味しいね。私はこっちのほうが好きかも」

 「なんだよ、今さらかよ……」

 秀三はケラケラと笑った。

 

 山頂から分岐点まで、思い出を振り返りながら下ってきた。

 前を歩く秀三に、後ろから話しかける私、いつも見つめていた大きな背中。

 一緒に歩いていると、時代を遡ってあの頃に戻ったような気分になる。

 でも、もう戻れないんだな、そんな風に思ったら鼻の奥がツーんと痛くなってきた。

 「それじゃ、ここでお別れだね…… 元気でね」

  須走口を目指して下って行く秀三を見送った。

 「奈緒美も気をつけて、下りろよ」

 私は吉田口へ向かって歩き始めたが、ふと立ち止まった。

 山を下り始めた秀三の背中を見つめ、心の中で囁く。

 「もう一度、振り向いて、振り向いてくれたら……」

 だけど、秀三は振り向かなかった。

 秀三の背中が見えなくなるまで、私は見送った。

 「早く良い人、見つけてよね…… そうじゃないとさぁ……」

 私はそう呟いて、秀三とは別の道を下り始めた。


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