六
夜に入ったと分類される時間は、夏とは違って、この季節ではすっかり夜闇に包まれた景色になる。
自宅からコンビニまでは徒歩十分。特に急いでいるわけでもないから、運動も兼ねて久しぶりに歩いて来てみた。いつもはだいたい準夜が終わった帰りに立ち寄ることが多いからクルマだったりする。
店内に入ってカゴを手にし、真っ先に向かったのはお酒コーナー。今日は、飲みたい気分。
少しお高めのビールを数缶と、おつまみになるお菓子と惣菜、それに大盛りハンバーグ弁当を放り込んだ。なにかめくって読むものも欲しいかなぁと雑誌コーナーに向かう。
棚を曲がったところで、足がぎくりと止まった。
雑誌コーナーに見知った顔が、上條の姿があったからだ。
通路のど真ん中でいきなり立ち止まった気配が伝わったのだろう。上條はおもむろに立ち読みしていた雑誌から顔を上げた。
その表情が、ばつが悪そうに固まってゆく。
「あ……、みゃー先輩……」
「あ、の。……どうも」
お互い、思いきりぎこちない挨拶だ。
いまの上條は、朝見かけたような法衣姿ではなく、ダウンジャケットにマフラー、頭には厚手のニット帽を深く被った、完全冬仕様の恰好をしていた。〝和尚さん〟ではない、いつもの〝上條〟だった。ちなみに、手にしているのは微妙に大人向けっぽい雑誌だったりもして。そのことにはっと思い至ったのか、慌てて棚に戻す。コンビニに置いてあるんだから、がっつり成人向けなわけがないし、別に成人向けの本だとしてもいちいち顔を赤らめるような年齢でもない。
「家って、この近くじゃない、よね?」
どんな雑誌を読んでいたかなんて、どうでもいい。どうしてここにいるの。そんな思いが渦を巻く。
なにか言わなければと、とりあえず最初に思い浮かんだことを口にした。
上條の実家はここの校区の西の端。いま住んでるところはN市北部のはず。どちらもこのコンビニ圏外だ。
上條は答えることもなく、ちらりと店内に視線をさまよわせる。
「結城さんは?」
ひやりとした。なんだってそうストレートに訊いてくるかな。
どう答えようか言葉が見つからなくて、ただ、首を振る。
その意味を深読みされたのか、上條の顔にほんの一瞬、さっと硬い表情が降りてきた。
「部屋で待ってる、とか?」
「いやいやいやいや。違う違うって」
怪訝な顔のまま、上條は次に続く言葉を待っている。
ここで事実を言うのはなんとなく気まずくて、一歩、上條へと歩を進める。軽く首を上げて、上條を見上げる……も、まっすぐに見つめ返してくる眼差しに負けて、日用雑貨の棚に視線を流した。
「その……、なんて言うのかな。まぁ、
自然と小声になる。
でも、気持ちに後ろめたさはない。逃がした魚は確かに大きかったけど、わたしが欲しいと思った魚じゃなかったんだから。
とはいえ、それを目の前の上條にズバリいま言えるほど、わたしは豪胆じゃない。
「……」
「……」
息を呑む気配すらなかった。ちゃんと聞こえた、のよね?
食い入るように見つめられているんだろう。ものすごい視線の圧力を感じる。
「
持っているカゴに視線が降りてきて、ようやく硬い声で問われた。
「ち、違うって」
女子にはあるまじきカゴの中身に、つい背中に隠してしまう。
「たんにがっつり飲んだり食べたりしたくなっただけで」
「……。外で、いいですか」
「えと。そう、よね。出ようか」
確かに、コンビニの店内で話しこむには、ちょっとふさわしくない雰囲気があったりもする。
気まずいと思いながらも、一応カゴの中身を清算する。「お弁当、温めますか?」という店員さんの声かけすら他人事のように聞こえるほど、予想もしていなかった上條との邂逅にわたしは混乱してしまっていた。
お店を出て、横の駐車スペースに停めてあるクルマになんとなく一緒に向かう。
「どうぞ」
助手席を示されて、「うん」とも「判った」とも言えない返事をもごもごと口の中で返して、ドアを開ける。
「お邪魔します」
ひと声かけて、乗り込んだ。
ハイブリッドの上條のクルマは、あちらこちらに散らばる檀家さんの家をまわる効率も考えて購入したんだそうだ。最初にご飯を食べた夜、自宅まで送ってもらったときにそう教えてくれた。お坊さんなのにハイブリッドだなんてという難癖に近い非難もあったんだけど、上條個人の所有で中古車だからと見逃してもらっていると苦笑いしていた。
「買ったもの、後ろに置いてもいいですか?」
「あ……。ん」
運転席に乗り込んだ上條が、わたしの手からお弁当やお酒の入った袋を取って、後部座席へと移動させる。
その、一瞬触れた手と、急に近付いた上條に、息が止まる。
上條は思い詰めた顔のまま、スタートボタンを押すこともなく、ハンドルに手を添えたままじっと前方を見つめていた。
「―――結城さんと、うまくいってるんじゃなかったんですか?」
重たくて、硬い声。まるで詰問されているみたいだ。
「まだ、付き合うとか、そういう段階じゃなかったから」
は、と吐き捨てるように上條。
「ふたりきりで何度も会ってるのに、付き合う段階じゃない?」
どこの小学生だよと、責められている気がした。わたしだってそう思うよ。だけど、この年齢だからこそ見極めたかった。慎重にならざるを得なかった。
―――ううん、違う。
ずっと心のどこかに引っかかるものがあったから、一歩を踏み込めなかった。
わたしは。
わたしは、前になにげなく聞いた上條の事情が引っかかってたんだ。ずっと胸の奥で
『それなりなお寺さんのところに婿養子に入れば、僧侶だけでなんとかやっていけると』
上條は、お坊さんとしてやっていきたいんだって確固とした信念を持っている。実家のお寺はお兄さんが継ぐことが決まっているから、上條にはどこかのお寺の跡取り娘と結婚をするしかない。
だけどわたしは、お寺とは全然縁もゆかりもない人間。天涯孤独の身だ。
上條を好きになったとしても、差し出せるものがなにもない。なにもしてあげられない。年上で、美人でもなく、スタイルもいいというわけでもなく、ただの看護師。お金持ちでもなんでもない。
わたしでは、上條を満たしてあげられないんだ。
そんな思いが、気持ちにセーブをかけていた。
だから、結城さんの甘い優しさに気持ちがよろめいてしまった。
なのに、見ないように蓋をしていた自分の想いはどうしても無視し続けることができなくて、結局、ひどい仕打ちをしてしまった。
あのとき。
電車を二本も遅刻して待ち合わせ場所に到着したわたしに、結城さんはなにかあったのかと心配してくれた。
結城さんと付き合おうという決心がぐらついてしまっていたわたしは、なんでもないのと誤魔化すことしかできなかった。
たぶんもうそのときには、結城さんは気付いていたんだと思う。
空港の展望デッキでスナメリみたいに大きな貨物機が着陸するのを見ながらも、目の前の光景よりも隣で滑走路を見つめる結城さんのことばかりを考えていた。
好きになれたらよかったのに、って。
どうしてこんな素敵なひとに想われているのに、応えられないんだろうって。これが自分以外のひとだったら、「なにがなんでも逃しちゃダメだよ!」って絶対たきつけるのに。
わたしは、展望デッキのフェンスにかけた指に、力を強くこめてしまっていたようで、結城さんに言われるまでそのことに気付かなかった。
『指、痛くなるよ』
展望デッキは思った以上に風が出ていたせいか、珍しい貨物機がやって来るというのに、お客さんはそれほど多くはなかった。
着陸した貨物機は、滑走路から外れて、駐機場へとゆるゆると移動していた。中型の飛行機の胴体をすっぽりとその中に収められるほどに大きな機体が移動するさまは、まるで小さな子供がおぼつかない足取りで歩いているかのようで、どこか滑稽にすら見える。
『言わなくちゃならないことが』
気付けば、そんな言葉を吐いていた。
『謝らなくちゃ』
『知ってる』
吹き抜ける風の中、穏やかな声が言葉尻に重なった。見上げると、結城さんはすべてを受け入れているかのような大きな眼差しで、こちらを見つめてくれていた。
『小嶋さんの中に誰がいるか、本当は、最初から知ってた』
『!』
『それでも、もしかしたらと賭けてみたかった。いままで女性に不自由したことなんてなかったから、大丈夫、いけるって自分を鼓舞して。―――この前言われたばかりなのに、驕っていた。それがダメだったのかもしれないね』
『そんなこと……。自分でも判らないんです。本当は今日、結城さんの気持ちに応えようって思ってた。だけど、違うんだって気付いて』
どうして結城さんを好きになれないのか不思議なくらいだ。
彼に見つめられてときめく心がある。彼に名を呼んでもらうだけで胸は躍る。気持ちは駆け足に天へと昇っていくし、頭はのぼせてしまう。
好きにならないわけがない。
なのに、―――恋愛という意味での〝好き〟には、どうしても昇華できなかった。
『もしも、上條よりも早く小嶋さんと出会っていたら、おれを選んでくれただろうか』
どこか願いをこめるように結城さんは言う。わたしは自分の気持ちを見つめ返し、残酷を強いる思いで首を振った。事実、わたしは残酷なことをしている。
『それでも、上條を選んでしまうと思います。ごめんなさい』
『謝らないで。小嶋さんのその芯の強さは、一番の魅力だから。謝らないで』
最初からわたしの中に誰がいるのか知っていたと結城さんは言っていた。
最初から、判っていたんだ。わたしが自分の想いを自覚する前から。
だからわたしのいまさらな酷い振る舞いも、許してくれるのだろうか。
頭を下げるわたしに、ややして頭を上げて欲しいと静かな声が促す。
『最後にお願いがある。―――一度だけでいい、抱き締めたい。名前を呼ばせて欲しい』
結城さんの瞳の中に、泣きそうな顔をしたわたしがいた。そう請う声は、涙を
頷くと同時、攫われるようにして結城さんの胸の中にすっぽりと包まれた。大きな腕で、きつく強く抱き締められる。
『美夜―――。美夜』
耳元に届くのは、血を吐くような切なさが声になった激しい想い。
この想いに応えたかった。彼の眩しすぎるすべてを、受け入れたかった。
―――それでも。
あらゆるすべてを削ぎ落としてもなおわたしの中に確固としてあったのは、ただひとりの存在だった。
そのひとがいま、隣の運転席でじっと思い詰めた表情を湛えて唇を引き結んでいる。
どれだけそのままでいただろう。
上條はおもむろにスタートボタンを押すと、静かにクルマを発進させた。どこに行く、ともなにも言わずに。
「どこに行くのか、訊かないんですか」
自宅とは反対方向に向かうクルマに、上條は言う。
「……どこに行くの」
「決めてません」
憮然とした表情で上條。
「怒ってるの? どうして?」
交差点で止まり、ウィンカーが鳴る音がする。
「結城さんのこと、紹介してもらったのに勝手に断っちゃったから?」
「違います」
クルマの流れが切れるのを待って、右折をする。ラジオも音楽もない車内に降りているのは、重たい沈黙。アスファルトを走るタイヤの音と、時折唸るエンジン音が聞こえるくらいだ。
イヤだな。こういうの。
「じゃあ、なによ。なに怒ってるのよ」
「怒ってなんかいません」
「怒って言われても」
こんなふうに不機嫌な態度を取られるくらいなら、クルマに乗らなければよかった。
「ここで停めて。降りるから」
「ダメです」
即答が返ってくる。そうして、しばらくの沈黙のあと、
「―――どうして、断ったんですか」
前方を見遣りながら、上條は訊いてきた。掠れた声だった。緊張、している?
「結城さんみたいなすごいひと、なんで断ったんですか? もしかして、なにか酷いこと言われたとか、されたとかですか?」
「なにもされてないよ。なにも言われてもない。むしろ、わたしのほうが酷いこと言ったくらいだし……」
わたしが傷付いたんじゃない。わたしが、結城さんを傷付けたんだ。
「じゃあ、どうして」
その声音は、欲しい答えを望む響きを滲ませていた。
「どうして結城さんを断ったんです?」
上條は堤防へと向かい、そのまま堤防沿いにある小さな駐車スペースにクルマを滑らせる。照明もなく、季節柄か夜という時間からか、停まっているクルマは他にはない。おそらくはトラックの運転手がちょっとした仮眠を取る場所なのだろう。
「どうして」
一番端にクルマを停めて、上條は重ねて訊いてきた。
判らない?
薄々ではあっても気付いてるんじゃないの? だからそんな、期待をこめた眼差しでわたしを見てるんでしょう?
わたしは、どんな言葉を返して自分の気持ちを伝えればいいのか見つからなくて、だからただ上條の眼差しを受け止め、瞳の底を見つめ返すことしかできなかった。
シートベルトをかちゃりと外した上條の右手が、まるで壊れものに触れようとするかのようにおずおずと差し出され、わたしの頬を包み込む。
ひんやりとした感触に、肌の上を心地のよい鳥肌が走る。ゆっくりと瞬きをし、近付いてくる顔に、目を閉じた。
軽く引き寄せられるようにして、唇に乗せられるぬくもり。
一度触れたそれは、いったん離れるとすぐに再び押しつけられた。今度はついばむように、確かめるように。
数度唇をついばまれ、濃厚な吐息とともに上條の身体が離れる。
「どうして、抵抗しないんです?」
不安いっぱいの声だった。ああ、上條らしいと思った。
「抵抗、して欲しいの?」
「して欲しくないです」
「これが、答えだからよ。だから、結城さんを選ぶことはできなかった」
「みゃー先輩……。―――美夜さん」
初めて、上條から名前を呼ばれた。結城さんから呼ばれても、胸はときめいてもただそれだけでしかなかったけど、上條から呼ばれると、ようやく本来あるべき場所に帰ってきたんだという安心感がこみあげてくる。嬉しくて、自然と顔がほころんだ。
「なに。上條」
わざと、名字のままで呼ぶ。上條は恥ずかしそうに笑みを浮かべて、
「好きです。美夜さん。僕を選んでくれて、すごく、すごく嬉しいです」
「うん。わたしも、上條が好き」
好き。
なんてストレートで、なんて素敵な響きなんだろう。たったふたつの音なだけなのに、たくさんの透明で煌びやかな想いを凝縮している。いい歳した大人なのに、このふたつの音がものすごく愛しく感じる。
上條の唇が、また重なる。
「今日、あのとき、みゃー……美夜さんと目が合ったとき、心に素直になっていなかった自分に気付かされました。でもすべてはもう遅い。もう仕方のないことだと、諦めていくことを受け入れていかなければと自分に言い聞かせました。法要が全部終わったあと、寺で坐禅をしていたんです。根本に戻ろうと。ですけどふと空を見上げたら、星が輝いてて。街の明かりに消されない星がそこにはあって」
「ん」
上條の少し荒れた指が、頬を辿る。くちづけられたばかりの唇に触れる。髪を梳いて、蕩けるような眼が、わたしをじっと見つめていた。
「僕はなにもしていない。当たり前のことに気付いたんです。すぐにみゃーさんの家に向かったんですけど、結城さんが部屋にいるかもしれないということを失念していて」
上條らしい。
「それでビクついてコンビニでそういう本を立ち読みしていた、と」
う、と上條は身を硬くする。
お坊さんだろうと聖職者であろうと、成年男子が人間の三大欲求に逆らうことは難しいだろう。
「いいの?」
「?」
「わたしで、いいの?」
上條は、怪訝な顔をしながらも、「もちろんです」と優等生な正解を出す。
でも、……でも、ここで浮かれられないのがわたしのひねくれたところだ。
わたしは、ひとつ息を吐いてから気持ちを奮い立たせた。
「上條、前言ってたよね。どこかのお寺に婿養子に入れば、僧侶だけでやっていけるって」
「はい。言いましたね」
「仏の眼で世界を見たいって」
「はい」
ひたむきに答えてくる上條に、だからなのか、縋る声になってしまう。
「なのに、いいの?」
上條の眼差しが揺れる。
「わたしもう31よ? そういう年齢。将来のこと意識しなくちゃならない。わたしと付き合うだけ付き合って、それで大きなお寺のひとと結婚します、じゃあね、仏の眼サイコーなんて困る」
「そんなことありえません」
はっきりと上條は首を振る。すぐになにかに思い至ったのか、目を瞠って「あ」と声をもらす。
「もしかして、婿養子のこと、気にしてくれてたんですか?」
いまさら気付いたのか、この男は!
「当たり前じゃない。だって、わたしにはなにもないんだもの!」
声には隠しきれない不安な想いが滲んでしまっていた。上條はわたしの頭を優しく撫で、額を額にくっつけてきた。
「嬉しいです」
「え?」
「僕との将来を考えてくれてたんですから」
言って、キスをされた。キスはされるごとどんどん深くなっていって、唇が離れるたびに音がたってしまう。吐息は熱く絡まり、自然に開いた唇から、上條の舌が入り込んでくる。
待って。待って、上條。嫌なわけじゃないんだけど、ここ、堤防の道沿いだから、外から丸見えなんです……けど……!
わたしはほとんど無理やり、上條の身体を引き剥がした。
熱に浮かされかかっていたせいか、ちょっとだけ上條は不満げだ。
「考えたうえで、わたしはふさわしくないってなるのよ。上條の夢を叶えてあげることは、どうやったってできないんだもの」
わたしには、なにもないんだから。
半ば荒い息の中、本当は言いたくもないことを伝える。
仏の眼で世の中を見てみたい。僧侶としてやっていきたいという上條の夢を叶えるためには、わたしでは力不足なんだ。
好きとかそれだけでは済まない問題なんだ。
どれだけ好きだと思っても愛おしく感じても、想いだけで突き進むことができないくらいには、わたしは年を取ってしまってる。
上條の手はわたしの手を優しく包み込んで、言葉もなく、ただ柔らかな表情のまま、眼差しをそこに落としていた。
次に発せられるだろう言葉が、怖い。
そうですよね、って言われる可能性がぶっちぎりで高いんだもの。
唾をこくりと飲み込んだとき、
「美夜さんは、住職の奥さんになる覚悟、ありますか?」
突然、そう言われた。
―――え?
はい!?
「―――か、みじょう……。それって、プロポーズにも聞こえるんだけど」
「え? ……あ! ホントだ。あ、いや別にそういうつもりじゃ」
「ないの?」
「え!?」
裏返る上條の声。そうよ、そうよね。上條はやっぱり、こうでないと。
「上條。わたしはお寺の娘じゃないし、親も兄妹もない。親戚もいない。天涯孤独なの。それでも、いいの? 年上だし、美人じゃないし、それでもいいの?」
「―――はい。美夜さんでなければダメなんです」
いきなり姿勢を正してそう返してきた。
「なにも、上條にわたすものがないよ?」
「美夜さんがいれば、いいんです。あなたがいればそれだけでいい」
不意を突かれた気がした。そんなわたしに、上條はにやりと意地悪気な笑みを浮かべて続けた。
「法衣が大好きな美夜さんが、いいんです」
「え」
ぎくりとした。
も、もしかして……。
「美夜さん、さっきコンビニで僕を見たとき、『なんで私服なの』って思ったでしょ」
いつもの空気が戻ってきてる。でも上條の手のひらの上で転がされるのは癪だ。
「……さあ。どうかしら」
「目が泳いでますよ」
頬をつんと突かれてしまう。
「もしも夏に再会したとき法衣じゃなくて私服だったら、僕を見てくれました?」
「
「はい」
結城さんもだけど、男のひとって『もしも』が好きなのかしら? これまで付き合ったひとたちは、どちらかというと仮定の話なんてありえないって端から受け付けなかった。もしかすると、職場環境の違いからだとか?
なんてどうでもいいことを頭の片隅で思いながらも、質問されたことを考えてみる。
「……、……。たぶん、上條だって気付かなかったと思う」
正直に告白すると、あんぐりと口を開けて上條は驚愕の表情を浮かべた。さすがにそれは、大袈裟なのではありませんか?
「じゃ、じゃあ、なんですか。法衣姿だったから僕に気付いたってことですか?」
「うん。すごくお坊さんの恰好が似合ってるかっこいいひとがいるなぁ、っていうのが第一印象だったもの」
上條はそのままがくりと運転席へと崩れ落ちた。
「僕はすぐにみゃーさんだって気付いたのに」
「目が合ったからでしょ?」
「違いますよ」
脱力しながらも否定された。え? 違う、って……。
「控室の隙間から状況はどんな感じなんだろうって覗いて、すぐに判りましたよ。美夜さんがいるって」
あんぐりと口を開けることになったのは、今度はわたしのほうだった。
「嘘。じゃあ、最初からわたしがいるって判ってて施食会してたの!?」
「もちろんですよ。先輩にはいいところ見せたいって、張り切りましたもん」
胸を張られても……。やっぱり上條は、仔犬属性を持ってるわ。
それにしても。
「最初は、普通に『先輩』で、だけど『わたし』を好きになってくれたんだ」
そう思うと、胸がほっこりする。上下関係でしかない立場だったのが、それを越えて一人の人間として見てもらえた。こういう気持ちの変化って、自分が認められてゆく過程に似ている気がする。
「ええ。ナース服着てなくても、美夜さんに惹かれてしまいました」
「……。すみませんね、法衣姿に弱くて」
仔犬なのに、根に持つタイプなのかも。
でも仕方がないじゃない。
上條、似合うんだもの。
墨染めの
誰がなんと言おうと、上條は法衣姿が似合ってる。きっとどんな服よりも似合ってる。
「上條」
「はい?」
「上條がお寺の息子でよかったって、思う」
「……法衣を着るから?」
なにを拗ねているのと、上條のニット帽を取って、ぺちんと坊主頭を軽くはたいた。
「法衣がきっかけで、上條が一番のひとだって、判ったからよ」
言ってわたしは、自分から上條の唇に唇を重ねたのだった。
了
墨染めに木蘭【改稿版】 トグサマリ(深月 宵) @mizuki_yoi
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