その美味しさは変わらない〜赤いきつねと亡き父の思い出
結城芙由奈
その美味しさは変わらない〜赤いきつねと亡き父の思い出
今よりちょっと昔の昭和の時代―
信じられない話かもしれませんが、昭和50年代の映画館は驚くことにタバコも吸えたし、カップ麺まで館内で食べることが出来ました。
当時の映画館は「シネコン」と言うものは存在していませんでした。
映画会社が所有する、映画を上映するための建物の中に一つのスクリーンしか基本的に存在しない…それが昔の「映画館」でした。
映画館は1階席と2階席に分かれており、チケット代とは別に、「2階席」用の指定席を買えば、ほぼ貸切状態でゆったりと2階で映画を堪能することが出来ました。
当時私の父は神奈川県の某映画館で「支配人」という立場にいた為に、子供向け映画劇場が開催された時は2階の席で自由に映画を観ることが出来ました。
あの頃の映画館は今のシネコンのように食べ物の種類は豊富では有りませんでした。その代わりにスナック菓子や珍味と呼ばれる乾き物、そして一番驚きなのがカップ麺が普通に売られていたことです。その売られていたカップ麺こそ「赤いきつね」でした。売店で「赤いきつね」を買えば、映画館の従業員の人がお湯をカップに注いでくれる。そして観覧席に持っていき、映画を観ながら「赤いきつね」を食べるのです。今ではとても考えられない光景だったと思いますが、当時それは当たり前の光景でした。
そして私も勿論、真っ暗な映画館の中でスクリーンの明かりを頼りに「赤いきつね」を食べながら夢中になって映画を観た事を今でもよく覚えています。
****
それは、ある寒い日の夜の事でした。
車に乗って父が仕事から帰ってくると、玄関に大きな段ボール箱が3箱置かれていました。しかも段ボール箱には「赤いきつね」と書かれています。
私と4歳年上の兄は大好きなカップ麺が山のようにあるので大喜び、一方の母は父にこのカップ麺の山は一体何なのだ?と激しく問い詰めました。
すると父は照れくさそうにいいました。売店で「赤いきつね」の発注ミスをしてしまい、大量に届いてしまったから自宅に持って帰って来たと言うのです。
カップ麺が苦手だった母は父に怒り、こんなに沢山食べ切れるわけ無いのだから明日職場に戻すように言いましたが、私と兄は猛反発。結局母が妥協することで話は収まり、3人で「赤いきつね」を食べきる事にしました。
あの当時は小学校は土曜日も午前中までは授業がありました。鍵っ子だった私と兄は毎週土曜日は学校から帰ると2人でお湯を沸かして「赤いきつね」をお昼ごはんに食べるようになり、結局僅か一月足らずで大量の「赤いきつね」を食べ尽くしてしまいました。
****
時には厳しく、時にはユーモアに溢れていた私の父が癌になったのは私が高校3年の時でした。母も兄も私が当時受験生だった事もあり、病気の事は伏せていました。後で聞いた話によると、父の余命は残り半年と言われていたそうです。しかし、父は頑張り、私が大学1年の時に無くなりました。余命半年と言われていたけれども半年命が長引きました。
まだ父は現役で働いていた為、お葬式には大勢の映画関係者の方たちが来てくれました―。
あれから時は流れ、去年家族だけで静かに33回忌を済ませました。
私の子供は「赤いきつね」が大好きです。
「赤いきつね」を見る度に、昭和の記憶と亡き父の事が今も鮮明に思い出されます。
<終わり>
その美味しさは変わらない〜赤いきつねと亡き父の思い出 結城芙由奈 @fu-minn
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます