第3話 広がりゆく

 翌朝、俺は背筋にヒヤリとしたものが走るのを感じた。

 恐る恐る手を目に当て、何度か瞬きしても昨日と同様、それは変わらない。


「は? いや嘘だろ?」


 赤い斑点というより、昨日映っていたその箇所から、滲んでいるように視界に映る赤の範囲が広がっていた。

 まさか目から血でも出てんのかと思って恐る恐る少しだけ眼球を指で触って見ても、指には何も付かない。若干青褪めながらゆっくりと階段を下りて洗面所で鏡を見ても、正常に見える部分で確認したら眼球に赤いものなんてどこにも付着していなかった。


「……母さん、親父。俺の目、何もなってないよな?」


 リビングに行って二人に確認しても、やはり昨日と同じように何もないと言われる。


「どうかしたの?」

「いや。何か、見えるものが赤いって言うか」

「まさか何かの感染病か? 眼科に行って診てもらった方がいいんじゃないのか」


 痛くはないけど、どう考えても異常な事態にさすがに眼科に行くことにした。

 学校は取りあえず眼科に行ってから診断内容で休むか決めることにしたので、電話で担任の後に部活の顧問にも事情を話して俺は母親と一緒に近くの眼科へと向かった。


 そして、信じられない診断が下される。


「え? 異常なし?」

「どう診ても君の目は正常ですよ。異常は見られないのでこちら側としては何も」


 診療記録だろうか、メモが書かれたそれを見ながら言われたことにしかし納得がいかない。

 だってずっと赤い。赤がチラついている。

 けれど病院の先生がそう診断を下したのなら、何も言えなかった。だって俺しか分からない。母親だって、父親だって、俺の目は普通だと言ったのだ。異常なのは俺の目、俺だけ。


 異常はないと診断された以上、俺は眼科からそのまま学校に登校するしかなかった。

 授業中でも、休憩中でもずっと着いてまわる赤に、頭がおかしくなりそうな気がする。


 昼休憩、モヤモヤしながら購買にパンを買いに来た俺の肩を誰かが叩いた。

 振り向くと、そこに友人がいた。


「よ」

「よ、じゃないわ。お前スマホ見てないだろ」


 不満げに言われたそれに首を捻る。

 ずっと視界の赤のことが気になって、スマホを気にする暇はなかった。


「何かあったか?」

「あったも何も、……パン買ったら話す」


 人の混雑する場では話しにくいことなのか、少し周囲を気にする素振りを見せる友人を疑問に思いながら頷き、無事にパンを購入した俺達はそこから離れて花壇のレンガの上に腰を下ろす。


「で、何だって?」

「池田のこと」


 後輩の名を聞き、昨日のことが甦る。


「また何かされたのか?」

「顧問からお前が今日朝練休みだから、副キャプテン頑張れよって言われたんだよ。だから涼太いないし池田が昨日みたいに何か絡まれてたら、俺が助けなきゃじゃん? マジかよーって思って顔向けたら、アイツいないんだよ。何かもう俺、その時点で嫌な予感したんだわ。テキトーなこと言って顧問引っ張ってたら、また人気のない木陰で絡まれてんの見つけてさ」

「日和見主義頑張ったな」

「だろ? 頭は使いようってか。で、丁度顔殴られてた場面で現行犯。顧問にお縄頂戴されたと」


 殴られたと聞いて眉間に皺が寄った。


「池田は無事……じゃないけど、大丈夫だったか?」

「口の中少し切れてた。つーか話よく聞くと、どうも昨日が最初じゃなかったっぽくて。アイツの友達は知っていたけど、報復が怖かったし池田自身自分が解決するって言っていたみたいで。で、部活にしても俺らに迷惑は掛けられなかったからって本人が言ってた」

「ったく、アイツは……」


 はぁ、と溜息を吐く。

 言わなかったアイツもアイツだが、気づかなかった俺達も俺達だと思った。


「もー俺、すっげードキドキしたんだぜ? 問題児も生徒指導室行きだし、ホッとするわー」

「じゃあもう池田のことは大丈夫そうだな」

「おうよ」


 安堵してホッとした瞬間――猛烈な痛みが左目を襲った。


「いっ……!!」

「え、涼太!? どうした!?」


 眼球の奥からブチブチと引き千切られるような、凄まじい痛みを感じる。

 身体を折り曲げて必死に痛みに耐える俺に、慌てて友人が声を掛けてくるが答える余力もない。




 ……イ……ラモ マ……ニ…………イ……




 何だ……!?


 友人の声が聞こえる傍らで、違う音が聞こえた気がした。

 眼球の痛みは徐々に治まって、左目を押さえたまま、ようやく姿勢を元に戻すことができた。


「どうしたんだよ急にお前! 大丈夫か!?」

「……急に目が、痛くなって」


 恐る恐ると、手をどかす。

 そして全身硬直した俺の耳には、隣にいる友人の声など何も入らなくなった。



 左半分の視界が、赤で埋め尽くされていた。





◇+◇+◇+◇+◇+◇+





 午後の授業も、部活でさえも碌に集中なんて出来なくて散々だった。

 体調が悪いのかと心配され、試合のシーズンになる前に少し休んで体力を回復させろと、見当違いなことを言われて早めに帰らされた。部員を確認したがその中に池田の姿はなく、アイツも今日は大事を取らされているようだった。


 いつもよりも早くに帰宅した俺に母親は心配そうな顔を向けてきたが、目のことを言うと何だか今度は心療科のある病院に連れて行かれそうな気がして、早々に自室に引き籠った。


「あーもうマジで何なんだよ……」


 赤い視界。時折ある目の奥から響くような強い痛み。

 本当にこのままだと精神的におかしくなりそうだ。


 ベッドに寝転ぶ。仰向けになったまま、見える赤が億劫で強く両目を閉じた。




 ……。



 …………。



 ………………ザアアァァ、と雨が叩きつけられている。


 建物と建物の間、その少しのスペースで少年が複数の少年に囲まれている。

 彼等は手に持った傘で囲んでいる少年を叩き、楽しそうに笑っている。頭を両腕で庇って、うずくまる少年。


 それまで傘を振り上げて降ろす行動をしていた内の一人が、突き刺すような動きを見せていた。

 やられていた少年が意を決して、『やめて』と言おうと少年らの方を向いた瞬間――。



 空気を引き裂くような、喉を突き破るかのような音が少年の口から発せられる。



 左目を両手で覆って激しくのたうち回る少年を残し、青褪めた顔で少年らは走って逃げて行く。

 そんな彼等の後ろ姿を、少年は残った右目で、憎悪に歪んだ眼差しでずっと見ていた。




 ――ア イ ツ ラ モ  マ ッ カ ニ ソ マ レ バ イ イ




 少年の傍には投げ捨てられた、先端に赤い液体を纏わせた赤い傘があった――……。

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