第3話 黄色い傘は
僕はその日、早退することになった。
心配するような憐れむような目で先生に見送られ、連絡を受けて迎えに来てくれたお母さんと車で家に帰った。
お母さんに何か話し掛けられても、無言でずっと俯いていた。
信じてくれない。
皆、僕が見たことやあったことを信じてくれない。
お母さんからもあんな目で見られてしまうと思ったら、何も言えなくなっていた。
家に帰って来た途端、晴れていた空は急に曇って、パラリと雨が降る。
好きだったその音も聞こえることが煩わしくて、両手で耳を塞いで部屋で体育座りをして篭っていた。
どれくらい時間が経過したのか、塞いでいてもザアアァァと強まる雨の音が聞こえる中で、ドタドタドタと忙しなく階段を登って来る音まで混じり始めた。
「和樹!」
バンッと勢いよく開け放たれた扉からすごい形相をした姉が入って来て、僕の両肩を強く掴んで揺さぶって来た。
「姉ちゃん!?」
「アンタ! 昨日アンタ何に傘貸した!?」
突然の暴挙と質問に混乱して呆けていると、更に姉は言い募る。
「お母さんから話聞いた! 石灯籠に傘を貸してあげてたって! アンタ昨日でも人に貸したって言ったよね!? 本当は何に貸した!?」
「え……。お、女の子。僕と同じくらいの。川、見つめてずぶ濡れで」
「馬鹿!!」
悪口ぶつけられたと思ったら、勢いよく腕を引かれて部屋から連れ出される。
「ちょ、姉ちゃんどこいく…」
「うるさい! お母さんちょっと和樹と一緒に出てくるから!」
「え、外雨よ? それにどこに」
「柳の木のある石橋! ほらさっさと傘さして!」
すごい剣幕にお母さんは何事かと目を丸くし、僕は姉に急き立てられてビニール傘を掴んで姉と一緒に雨足の強い外へと飛び出した。
「何であそこ行くの!?」
「今から謝りに行くの! 親切でやったことだって分かってもらわなきゃ」
「誰に!? 何で僕が謝らないといけないの!?」
聞くと姉は顔を歪め、速足で歩いていたスピードを落とした。
「……アンタが傘を貸してあげたの、多分カホちゃんだから」
「カホちゃん?」
「アタシの小3の時の同級生で同じクラスの子。明るい子だったんだけど、病気でお母さん亡くなっちゃってから、暗くなって。授業参観の日とか、羨ましそうに見て泣いたりもしてた」
もう遠目に見える場所まで来て、姉の視線は石橋へと向けられる。
「あの橋さ、『
「うん」
「別に読んで『さんずのはし』って。だからあの川も三途の川で、お前の母ちゃんそこにいるかもなって。クラスの男子がふざけてそうカホちゃんに言ってた。アタシは変なこと言うなって怒ったんだけど、あの子の目はキラキラしてて。その日はこんな土砂降りの雨でさ、その夜、クラスで連絡網回った。アンタは小さかったから覚えてないだろうけど、アタシは今でも覚えてる。だって数日後にカホちゃん、川の河口付近で亡くなっているのが見つかったから」
目を見開く。
「え……」
「土砂降りで川の水量も流れる勢いも増していたのに、カホちゃんはお母さんに会いたくて、その一心であそこに行ったんだよ。多分、足滑らして川に落ちて、流されて。……それから暫く経って、三途の川って言った男子はアンタみたいに、変なものを見て怯え始めた。ノイローゼになって引っ越して転校して行った」
雨足が強まる。
きっとこの土砂降りの雨は、カホちゃんがお母さんに会いたくてそこに行った日と同じ強さ。
姉が僕を見る。
「だからアンタが親切で傘を貸したことは、カホちゃんにとっては親切じゃなかった。お母さんが迎えに来てくれて一緒に帰る嬉しそうなアンタを見て、傘だけ置いてかれたカホちゃんはどう思う? 自慢されて怒ったんだって、アタシは思う」
『僕は大丈夫! 石橋の向こうでお母さんが待っているんだ。僕はお母さんと一緒に帰るから!』
『お母さん……?』
『それさして帰って! じゃあね!』
自分が言ったことと、あの子が喋ったことを思い出して青褪める。
「僕、僕そんなつもりじゃ」
「分かってる。だからちゃんと言わなきゃ。謝らなきゃ。親切だと思ってしたことでも、それが相手にとってはそうじゃないこともあるから」
諭すように言われて、怖々と石橋の向こうの柳と石灯籠を見る。
そこに小さな人影がある。
震える僕の手を握って、姉は一緒に石橋を渡ってくれた。
少しずつ近づいて、全身が濡れているその子は昨日と同じように、濁った川をジッと見つめている。
ドクドクと心臓の音が響く。
唾を飲み込んで、僕は口を開いた。
「あの……ひっ!?」
声を出した瞬間、グリンとその首が回って血走った両眼が僕の姿を捉える。
限界まで見開いた眼とギリリ、ギリリと鳴らされる歯ぎしりの音に、相手が明らかに僕に対して怒っていると分かってブワリと恐怖心が膨れ上がった。
思わず後ずさろうとしたその時、バシン!と強く背中を叩かれる。
「和樹!」
ハッとして隣に立つ姉を見ると彼女の顔も強ばって、足が震えていた。
姉がいる。姉ちゃんが信じてついてくれている!
心を奮い立たせ、ちゃんとあの子――カホちゃんと向き直った。
繋いでいる手をギュウっと握り締め、土砂降りの雨や濁流の川の轟音に負けないように、声を出した!
「傘がなくて困っていると思ったから! だから貸したの! あの黄色い傘は幸運の色の傘だから、君にも幸運がやって来るようにって!」
ギリリ、の音が消えた。
「ごめんなさい! お母さんのこと知らなくて、でもあの時僕が言ったことで傷つけちゃったからごめんなさい! ただ、本当に風邪を引かないようにって、渡しただけだったんだ……!!」
自慢なんかじゃなかった。
僕みたいに、空に虹が掛かるとか、落としたキーホルダー見つけたとか、そんな幸運が雨に降られて困っているあの子にも訪れればいいなって。そう思った、だけだった。
全部言い切った。
反応を待つ。歯ぎしりも、見開いていた目も普通に戻って、ただジッと川を見ていたように僕を見つめている。
周囲の音がうるさく共鳴し合う中、カホちゃんは口を開き、ただ一言。
「――ごめんなさい」
そう言って、消えた。
力がフッと抜けてその場に座り込む僕に釣られて、姉も座り込む。
ゆるゆると顔を上げて、姉に質問した。
「許して、くれた?」
「……多分?」
呆然としたまま暫く時が過ぎて、いつの間にか強かった雨足も弱まってポツポツ程度になっていた。
川の流れも元の緩やかさを取り戻した頃、復活の早かった姉が来た時と同様、僕の手を引いて立ち上がらせる。
「帰ろ」
「うん」
帰る前に一度手を合わせてお祈りした後、再び姉と手を繋ぎ直して石橋を渡る。
空気はひんやりとしていたが、手だけは温かく包まれている。
ポツ、ポツ、と軽く傘を叩く音を聞きながら上を見上げると。
「あ、虹だ」
「あ、ホントだ」
何気なく呟いた声のすぐ後に連なった声に顔を見合わせ、ぷっと笑う。
「もーホント手のかかる弟だわー」
「ありがと、姉ちゃん」
「どういたしまして」
二つ隣り合ったビニール傘の上で、七色の橋が美しく輝いていた。
そんな姉弟が楽しそうに帰っていく様子を、一人柳の木から顔を出して見つめる。
悪いことをしてしまったとしょんぼりとしている肩に、フッと軽く手が乗せられた。
「カホ」
聞けなくなって久しく経つ優しい声に振り返ると、懐かしい眼差しが少女を柔らかく見つめていた。
「おかあ、さん」
「やっと見つけた。晴れの日に隠れているから、全然見つけられなかったじゃないの」
雨ではない、流れる雫を拭われる。
「さぁ、一緒に帰りましょう」
「うん!」
一足先に帰って行った姉弟と同じように手を繋いで、女性と少女は柳の木の下から姿を消した。
後に残るのは、穏やかな風に身を任せる柳のサワサワ奏でる音と、サアァァと緩やかな川の流れ。そしてそこに佇む、石灯籠のみであった。
――黄色い傘は、幸せの象徴。
――小さな幸せを貴方に運ぶ。
黄色い傘 小畑 こぱん @kogepan58
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