第2話 見えない水
長靴をはいていてもベチャベチャになってしまった靴下を玄関で脱いでいると、ガチャガチャと忙しない鍵の回す音がしたと思ったら「ただいまぁー!」と、姉が勢いよく入って来た。
「おかえり」
「うっわー和樹が先かぁ。警報出て授業切り上げて下校になったから、先かなって思ったのに」
そう言いながら傘を振って水気を飛ばすのを見て、注意する。
「姉ちゃんそれ外でしなよ」
「すぐ乾くでしょ。……アンタのオキニの傘は?」
傘立てにないのを見て疑問に思ったようだ。
僕は少し前の自分がした親切を教える。
「前に石灯篭の話したじゃん。あそこで雨宿りしている子がいたから、貸してあげたんだ。僕はお母さんが橋まで迎えに来てくれていたから」
「石灯籠って、あの柳の?」
「そう」
頷くと、顔を顰められた。
「あんな場所で雨宿りって。よくあんな薄気味悪いところでできるよね」
「やっぱり姉ちゃんだって怖いんじゃん」
「ああん?」
凄まれたので何も言っていませんを決め込んだら、はぁと溜息吐かれた。
「怖いとかじゃなくて。……とにかく、アンタもあそこにはあんま近づかないようにしなよ。柳の木とか石灯籠とか、昔からあるものってちゃあんと意味あったりするんだからね」
そんなことを言う姉の表情は僕をからかう時にしている顔で。
「そんなこと言われても全然怖くないんだけど。ていうか普通にあそこ通学路なんだけど」
「和樹のくせに生意気!」
「わっ、危な!」
伸びてきた手を回避し、リビングに続く廊下をドタドタと追い掛けられながら走るとお母さんから、「二人して何してるの! 部屋の中は走らない!」と理不尽にもまとめて怒られたのだった。
そうして翌日、梅雨には珍しくも太陽が昇って空を青く彩る中、僕は困惑する。
学校に登校して教室に入ったら、僕の机のある場所を囲んで人だかりができていた。
何かと思って近くに居た友達に声を掛けると、引き攣った顔をして、「いや、お前の傘が……」と濁して口を閉ざす。
僕の傘? でも今日は晴れているし、傘はあの子に貸している筈だし。
一体何のことかと思い席に向かう。
取り囲んでいる子が気づいて避ける中、それを見て僕は言葉を失った。
僕の机の上に乗せてある、お気に入りの傘だったモノ。
明るい黄色の雨を弾いてくれる部分は大きく破かれて、中の骨組みは剥き出し。その骨組みも有り得ない方向に曲げ折られていて、傘の先端も削り取られたのか半分以上がなくなっている。
辛うじて無事なのは、持ち手だけ。その持ち手の箇所に『塩田 和樹』と油性ペンで書かれた名前があることから、この無残な状態の傘は、間違いなく僕のお気に入りのあの黄色い傘だと判る。
しかも傘だったモノの下は、薄く水の膜が張っており、今も尚ポタポタと落ちて床を濡らし続けている。
どうして? なんで?
突然の出来事とぽっかりと空いたような喪失で、呆然とそんなことしか頭に浮かばない僕の肩を誰かが掴んだ。
「和樹! お前、これ先生に言った方がいいって! こんなん絶対犯人見つけた方がいいよ!」
「でも昨日さして帰ってたよな? それなのにあるっておかしくないか?」
友達が口々に言う中、何とか僕は口を開く。
「……うん。皆、ありがと。これ、先生に言ってみる……」
そうこうしている内に女子の数人が雑巾を持って来てくれて床を拭くのと、傘だったものを手に抱えて友達が一緒に職員室まで着いてきてくれた。
傘の惨状とショックが大きい僕の代わりに友達が説明するのを聞いて、担任の先生は驚きながらも親身になって聞いてくれる。
昨日のことを声量は小さいながらもポツリポツリと口にすると、先生はギュッと眉を寄せて僕の頭を撫でた。
「そうか。人に親切にするのはとても良いことだぞ。塩田は良いことをしたんだ。傘は貸したその子がやったとは限らない。このことは塩田の家には先生から伝える。職員会議にもかけて同じことが起きないように対策も考えるからな。塩田、授業は受けれそうか?」
「……はい」
「皆。塩田のこと、元気づけてやってくれ」
頷く友達と一緒に職員室を出て、教室へと戻る。
傘だったモノは先生が預かることになった。
女子が掃除してくれたおかげで床はもう濡れていないし、机は濃い色を残しているけどそれは仕方がない。
友達がずっと話かけ続けてくれたのと、話題が僕も笑える内容だったので、沈んでいた気分も少しだけ回復してきた。
そんな矢先のことだった。
ポタッ
ん?
授業が始まって時間が二十分は経った時、上から何かが落ちてきたのが視界に入った。
何だろうと思っていたら、またポタッと何かが落ちてきた。
黒板を書き写しているノートに二か所、滲みができている。
顔を上げて天井を見ると、確かに水が染み込んでいるような濃い色になっていた。
そこから、またポタッと水の粒が落ちてくる。
上ってでも、四年生の階で同じ教室の筈なんだけど……。
疑問に思いながらもどんどんポタポタと落ちてくる。気になって、「先生」と手を挙げて呼んだ。
「どうした塩田?」
「あの、何か天井から水が落ちてくるんですけど」
「水? 天井?」
寄って来て同じ場所を見上げるも、先生は首を傾げている。
先生ばかりでなく、話を聞いていたクラスメート達でさえ、「なに? 水?」「落ちてないよね?」という話し声まで聞こえてきて、焦りを覚えてノートを広げて見せた。
「ここ! 上から落ちてきた水で濡れたんです!」
先生が天井を確認している間にもポタポタポタポタと濡れ続けていたノートを見せても、首を捻って。
「どこが濡れているんだ?」
「え……」
ひっくり返して見ても、確実に濡れている。水を吸ってページがふやけている。字が滲んでいる。
手を当てても、そこには確かに湿った感触があるのに。
ノートがあった場所に、今もずっとポタポタ落ち続けて水たまりができ始めているのに。
ノートと天井を混乱しながら交互に見る僕を、先生は息を吐いてまた頭を撫でる。
「今朝の件がショックでそんなことを言っているんだな?」
「ちがっ! 本当に落ちてるし濡れて!」
「塩田。一旦保健室で寝ていよう。寝たら頭もスッキリするから。な?」
けれど自分の見ているものがおかしいこと扱いされて、納得できなくて再度口を開こうとしたら、友達が変な目で見ていることに気づいてしまった。
友達にも見えていない。僕が、僕がおかしいのか……?
ヒヤッと冷たいものを覚えて黙りこんだ僕を、先生は授業を中断して保健室まで連れて行った。
保健の先生に傘の件も含めて事情を説明されて、話を聞いた先生からも、「そうね。一旦寝てしまった方がいいわ」と言われてしまった。
清潔を感じさせる白いカーテンを引かれて、ベッドに押し込められる。
誰も僕が見たことを信じてくれない。
確かに水は天井から落ちていたのに。ノートも濡れていたのに。
少しだけ回復していた気分もすっかり落ちていた。
お気に入りの黄色い傘が壊されてしまったこと、授業中の出来事を思い返し、ジワリと涙が目に滲む。
グシグシと腕で目を擦って、布団を引っ被って蹲るように身体を丸めて目を瞑った。
先生の言う通り寝てしまえば、夢だったと思えるかも。
そんな期待を胸に目を閉じて、数分後。
何か、布団が重くなったような気がした。
「なに?」
パチリと目を開けて、被っている布団を触ると濡れた感触が。
え?
照明が点いているから布団も透かされて、被っていても視界はそう暗くない。だから分かる。手が濡れたこと。
触った部分を見ると、そこから何かがジワリと滲み出してきている。
滲み出てくるものはどんどんとその範囲を広げ、それに比例して布団も重くなっている。
有り得ない出来事に頭が真っ白になってしまい、服にまで何かの液体が染み込んでくるのが肌に直接冷たさを感じたことで、そこでやっと焦りを覚えた。布団から出ようと被っているものを持ち上げようとして。
「……何これ重いっ!?」
それは既に布団と呼べるものではなくなっていた。
手で掴んだそれから液体がジュワッと溢れて袖を濡らす。その間も滲み出す、いや最早上からバケツで水をぶっ掛けられているかのような重さに身動きが取れない。
掴んでいない部分からも液体がポタポタと出てくる。全身どころかその下でさえ、もうずぶ濡れ。
重くて持ち上げられない。
自分の力じゃ逃げられない!
「嫌だ! 嫌だ! 助けて!!」
声を張り上げても誰も来ない。
声も聞こえないのか!?
身体が押し潰されそうな恐怖に、訳のわからない命の危険に晒されていることに、喉から血が出そうなくらい大声で必死に叫んだ。
「助けて!! 先生!! 先生!! 誰かあぁぁ!!!」
「塩田くん!?」
バッと押し潰されそうだったものから解放されて、ベッドから転がり落ちる。
そこから逃げるように這って振り返ると、保健の先生がふわふわの布団を抱えて呆気に取られて僕を見ていた。……ふわふわ。
「どうしたの? 良くない夢でも見た?」
「夢?」
宥めるように掛けられた声に首を振る。
違う。夢じゃない。あんなことが夢の筈がない。けど。
「……なんで」
濡れている筈の身体が濡れていない。自分の服を、身体を見て触っても乾いている。
まるで初めから、何もなかったみたいに。
「せんせ、先生! 濡れてたんですその布団! 水がどんどん溢れてきて、それで……っ」
起きたことを必死に言い募ろうとしていた口は、最後まで言葉を発することはなかった。
奇妙な目で見られている。教室で見た目をして僕を見ている。
そして。
布団はふかふかなのに、その下。
ベッドの下に、水たまりができていた。
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