第16話
窓から差し込んでくる、眩しい太陽の光で僕は目覚めた。僕は昨夜何とも言えない興奮のせいであったのだろうか。ピアノの部屋から自分の部屋に戻ったあといつまでも眠れなかった。ベッドに横たわりながら窓を見ると、見事な満月が明々と輝いていた。電灯を点けていない部屋の中に月の光が静かに流れ込んでいた。月の光で照らされた部屋の様子は、電灯で照らされたものとも、太陽の光で照らされたものとも違っていた。月の光の柔らかな輝きは部屋一面を幻想的なものにしていた。月の光によって作り出された部屋にあるすべてのものの影が、あたかもそのもの独自の色を秘めているかのような影であった。部屋の至るところにある月の光によって作り出された夥しい影がすべて異なった色を秘めているかのようであった。その夥しい色が作り出す月の色の幻想によっていつの間にか僕は酔いしれていた。しかし、その幻想的な光が徐々に暗くなり始めてやがて姿を消していった。いつの間にか濃厚な雲が満月を覆ってしまっていた。暗闇の作りだす光の沈黙はほんの一瞬と思えるような短い時間であった。僕の目は驚くほど短い時間で暗闇に慣れていった。部屋の暗闇を追い出すかのように無数の星が織りなす光が部屋の中に注ぎ込まれてきた。柔らかで、静かな優しい星の光が作り出す光の世界の中で今、自分が揺りかごの中にいるかのような安らぎを感じているような気がした。無数の星の光がいつの間にか僕の記憶から美しい旋律を呼び覚まさせ、体全体に音楽を響かせていた。そしてその音楽が僕を深い眠りへと誘っていった。
昨夜カーテンを閉めないで眠り込んでしまったようだ。慌てて時計を見ると9時を過ぎていた。一瞬焦ってしまったが、ほんの一瞬のことに過ぎなかった。今日は学校が休みであるということにすぐに気がついた。
僕は、階段を降りて、ピアノの部屋の中に入った。ピアノの蓋は開かれたままであった。兄が作曲した手書きの楽譜がピアノの譜面置きに一枚ずつ並べて置かれたままであった。一枚目の楽譜を手にとってみた。いかにも超絶技工を必要とするフレーズがそろっている楽譜であった。その一枚目の楽譜をもとあった位置に置いた。ピアノの椅子に腰を下ろして一枚目の楽譜をしばらく見ていた。一段目のフレーズの音符を懸命に読み込み、その音と指を合わせて頭の中で懸命にイメージした。両手をピアノの上に載せ昨日の自分の演奏した場面を懸命に思い出そうとした。指はどうしても思い通り動かなかった。昨日の自分の演奏は何だったのだろうか。単に夢を見ていただけだったのだろうか。僕は兄のことを思い出し、また悲しみがこみあげてきて、とめどなく涙が溢れてきた。自分はもう悲しみを抑えることができなくなってしまい。大声をだしていつまでも泣いていた。どれだけの時間だったか自分ではわからないほど泣いてしまった。
僕は階段を上って自分の部屋の入り口に立っていた。兄の部屋の方を見ると扉が空いたままであった。カーテンは閉まったままで暗い闇が部屋全体を覆っているような感じであった。僕は闇の中を手探りで行くような感じで窓際までゆっくりと歩いていった。カーテンを手でつかみいっきに開けると、太陽の白い光が部屋全体に流れ込んできた。太陽の眩しい白い光を受けて、部屋にあるすべてのもの、壁、時計、机、椅子、ベッド、本棚、飾り棚、オブジェ、カセット・ラジカセ・・・を照らしていた。部屋にあるすべてのものが太陽の白い光を浴びてそのものが持つ独自の色を反射させていた。部屋中を様々な色の光が飛び交ってあたかも音楽を奏でているかのようにリズムカルに輝いていた。ある方向から眩しい光が僕の目をめがけて飛び込んできた。それはまるで鏡から反射された太陽の光で目がくらんだときのようであった。その眩しい光が来る方向を見ると、机の上で孤立無援に他のすべての物を圧倒して輝いているものがあった。机に置かれている唯一のもの、それが眩しい光の出処であった。机に向かって歩いていくと、眩しい光線は僕の目から逸れて壁を照らした。机の上に置かれていた唯一のものはオーディオ・カセットテープのケースであった。そのケースのプラスチック体が鏡となって太陽の眩しい光を僕の目に向かって反射させていたのだった。そのケースを手にとって見るとラベルが貼られていた。そのラベルには「恵太郎へ」と手書きで書かれあった。ケースを開けるとオーディオ・カセットテープが入っていた。それにも同じように「恵太郎へ」と手書きで書かれたラベルが貼ってあった。僕はそのカセットテープを壁に打ち付けられた棚に置いてあるカセット・ラジカセにセットした。プレイのボタンを押してしばらくすると流れてきた曲はまさにあの曲であった。昨日ピアノの部屋にあった兄が作曲した手書きの楽譜。超絶技工を要するような音符が続いている楽譜。驚くことに僕は初見で弾いていた。そして同じ僕がそれを第三者的に聞いていたのだ。その曲の美しさに僕の体全体が曲の響きに呼応して震えていたのだ。兄を失った悲しみで打ちひしがれていた体が音楽の響きによって力を取り戻したのだ。いま部屋の中で響いているのはまさにその曲なのだ。何と美しい曲だろうか。今僕はこの兄の部屋の中で確かに兄の存在を感じることができた。
今テープでフルコーラスで聞いた、兄が弾いたピアノ曲が、僕の頭の中で響いていた。僕は階段を降りてピアノの部屋へ向かって行った。ピアノの譜面台に並べられた兄の手書きの楽譜を一つの束にまとめて袋の中へ戻した。僕はピアノの椅子に座った。僕の頭の中では先程の兄が弾いたピアノ曲が曲の最初から最後まで延々と繰り返しリプレイされていた。僕の体全体がその曲の美しさに酔っていた。僕は両手をピアノの鍵盤の上にかざした。僕の頭の中で数限りなくリプレイされていた兄の作曲したピアノ曲が突然ストップした。僕の頭の中には今音楽は聞こえずに沈黙だけが厳然と存在していた。突然僕の両手が動き出した。あの兄が書いた超絶技工の曲を今僕が弾いている。美しい曲とはいえテープから再生された先程の曲は不完全さを帯びたものであった。しかし今僕の耳に聞こえる生のピアノからの音楽には不完全さというものはまったくない。完璧な音楽の響きに僕は圧倒されている。何と美しい曲何だろうか。昨日聞いていたときよりも更に美しい響きの中で僕は感動を覚えていた。楽譜の束縛から完全に開放されて、今信じられないほど自由な感情と意識で僕自身が存在している。窓から降り注いでくる太陽の白い光が突然七色の光となって部屋全体で反射して飛び交っている。七色の光は僕が今弾いていて、そして聴いているピアノ曲に合わせてリズムカルに踊るように飛び交っている。そして今僕は昨日以上に兄の存在を感じることができた。「恵太郎一人でやっていけるよ。」という囁きがいま耳元で聞こえたような気がした。曲のエンディングを見事に弾き終えて僕の両手は鍵盤の上でじっと中に浮いた状態のようであった。その瞬間僕は確実に確信できた。今弾いたようには二度と弾けることはないと。でも同時に僕は確信することができた。僕に与えられた時間のなかで出来る限りの努力をして、超絶技巧の曲も弾けるように可能な限りの練習をしていきたい。そのような何とも言えないような意欲が僕の内に確かに芽生えていること、そのことが確信できた。おそらく僕に人並みの寿命が与えられているのだろう。そうしてもう一つ確信できたことがある。それは僕の内に音楽に対する愛が芽生えていることである。僕はピアノの蓋を静かに閉じた。
完
天からの贈り物 振矢瑠以洲 @inabakazutoshi
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