第15話
兄が亡くなってから早一月が過ぎた。忌引の期間が終わったあとでも、僕は辛くて一週間学校に行くことができなかった。兄が亡くなった日の夜、父は僕が今まで知らなかったことを話してくれた。今まで秘密を通していくことは父にとって辛いことであったと思う。いつ話したらいいかといつも考えていたのだと思う。兄の死が契機となって話すことができたのだと思う。僕と兄とは本当の兄弟ではなかった。父には子供の頃近所にピアノの上手な同じ年頃の男の子がいた。父とその子はよく一緒に遊ぶことが多く親友になった。彼らが小学校を卒業するまでその親友関係は続いた。小学校を卒業すると同時に音楽的才能を認められていたその子はピアノの勉強のためにオーストリアへ行った。でも彼らの友情はその後も手紙を通して続いていたらしい。父の親友は帰国した時はもう立派な大人で、プロのピアニストになっていた。彼は幼い男の子を連れて帰国してきた。彼はオーストリアで知り合った日本人のピアノを専攻する学生と知り合ってオーストリアで結婚することになった。彼らには男の子が生まれてその子が1歳になったころ彼の妻は交通事故で亡くなってしまった。父の親友が連れてきたその男の子が響太郎であった。父の親友は帰国するやいなや父と会い、驚くべき秘密を打ち明け、驚くべき頼みごとをしてきた。父の親友は稀にみる難病に侵されており、余命幾ばくもなく、彼の息子を実の子として預かって欲しいということだった。それから1年も立たずに父の親友は亡くなってしまった。さらに不幸だったことは響太郎が実の父親からその難病を受け継いでいたといことであった。父の親友はそのことが分かっていたら父に響太郎を預けることはなかっただろう。
僕は今兄の死によるショックと虚無感からまだ抜け出られないでいる。しかし今どうにか学校に通えるようになり新学年の学校生活にもなれ始めてきた。いま僕は学校の帰り道で駅から家に向かって歩道を歩いている。この歩道を兄と歩いたことを思い出すと自然に涙が出てくる。すれ違う人に泣いていることが知られたくなくて、つい下をむいてしまう。泣くのを堪らえようとすればするほど感情が込み上げてくる。兄とよく立ち寄って餡パンを買って食べたパン屋の前に来た時感情はもう抑えられなくなってしまった。僕はもう歩道を歩いている他の人々のことは気にしないで、大声で泣いた。無我夢中で走り出した。大声で泣きながら僕は走り続けていた。
玄関で靴を脱ぐやいなや僕は一目散に洗面所へと向かった。どれくらいの時間水で顔を洗っていただろうか。蛇口を締めた時、洗面所の下の床がびっしょりと濡れていた。僕は雑巾を持ってきてしばらく床を拭いていた。やっと気持ちが落ち着いてきたので雑巾をもとの位置に戻した。
僕はピアノの部屋のガラス張りのドアの前にいた。ガラス張りのドアを通してグランドピアノが見えた。ピアノの前にはいつも兄が座っていて、ピアノの音が聞こえていた。今ガラス張りのドア越しには兄の姿は見えない。ピアノの音も聞こえない。このひと月の間ピアノの部屋に入ることができなかった。ピアノの部屋の前に立つだけで涙が出てきた。感情が込み上げてきて嗚咽になっていくのである。でも今日は違う。人前で、大声で泣きながら走って来たからだろうか。今ドアの前に平静に立っていられる。僕はドアを開けて部屋の中に足を踏み入れた。兄の匂いがするような気がする。でも本当は何も臭わないのかもしれない。僕はピアノの椅子に腰を下ろした。ピアノの蓋は開いたままであった。ピアノの譜面台に大きな封筒が置いてあった。封筒には「恵太郎へ」と書いてあった。中には兄の手書きの楽譜が8枚入っていた。僕は楽譜を横に並べた。一見『天からの贈り物』よりも難しそうに見えた。僕の両手はいつの間にか鍵盤の上にあった。両手の指が自然に動き始めているのが分かった。僕は今までショパンとリストの上級者向けの曲に挑戦してきて、難解でも自然に弾けるフレーズがどの曲にもあったことを覚えている。今僕の眼の前にある楽譜はそのようなフレーズからできている楽譜のように何故か思える。不思議な感覚だ。難解な曲を初見で完璧に自然に弾いている。僕の左脳は100%聴き手になっている。今右脳が100%の力を出しているような気分だ。この美しい音楽は何だろう。今僕が弾いているピアノから聞こえていることがとても信じられない。僕の両手の指は鍵盤の上で自然に自由に動いている。両手とペダルを踏む右足にすべてを委ねているような気分だ。今僕の意識は単なる聴き手のようにこの音楽に酔いしれている。今まで聞いたことのない美しい音楽の中で僕の体が浮いているような気分だ。曲がクライマックスに近づくにつれてこの世のものとも思えぬ感覚が僕の全身を震わせていた。この曲のクライマックスの中である瞬間になんともいえぬ感動を覚えた。その瞬間が何故か永遠の時間のように思えた。そしてその瞬間に僕は兄の存在を感じることができた。
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