第11話

 パリ北駅から僕たちはツアーでチャーターしたバスに乗った。バスはエッフェル塔に向かって走っていた。バスの車窓から見えるエッフェル塔は視界を遮る高層ビルというものはなく上空に降り注ぐ太陽の光を悠然と浴びていた。高層に囲まれた東京タワーとは随分と違った光景であった。高層ビルらしきものはパリ市街の外側に見えるだけで市の中心部は歴史そのものであった。フランス革命と関係のあるバスティーユ広場、ヴィクトル・ユーゴーの小説の舞台にもなっているノートルダム大聖堂、ナポレオンと関係の深い凱旋門等の光景が僕の乏しい知識を通して飛び込んできた。僕にもっと歴史の知識があったら数多くの歴史的観光名所がいい知れぬ感動をもって僕を圧倒しただろう。でも僕の乏しい知識でもこの都市が伝統と文化を保持していることを感じとることができる。東京のように高層ビルが都市の中心に威張りちらして建っていることはない。この都市の中心部には歴史的建造物が誇らしくその存在を保持している。都市の至る所に歴史的建造物が均整をとりながら存在している。その存在を視界から遮る高層ビルというものがない。首都であるのに高層ビルがない。大都市なのに何と伝統的で美しい光景なのだろうか。都市計画が10年20年サイクルでできたものではない数百年というグランドデザインの中でできあがったものであることが分かる。観光ガイドがショパンが住んでいたという建物を説明してくれた。そういえばショパンはポーランドから出て来てここパリで活躍したことを彼の伝記で読んだことがある。ここパリが芸術の都であることを感慨深く思いながらガイドが指し示す方を見ていた。

 僕らを含めたツアー一団はエッフェル塔前で降ろされ、しばらくの間思い思いに記念写真を撮るなどして過ごした。その後ベルサイユ宮殿とルーブル美術館を観光してから百貨店らしき建物の前で降ろされた。2時間の自由時間であった。日本系列の店であることが分かった。この店でショッピングをさせたいのであろう。僕たち家族4人は店の中をひとまわりしてから、店の外に出た。僕たちの目に飛び込んできたのはシャンゼリゼ通りで、通りの先には凱旋門が見えた。僕たちはシャンゼリゼ通りを凱旋門に向かって歩いていた。凱旋門の数百メートル手前まで来たときある人集りがあった。ピアノを奏でる音が聞こえてきた。エディット・ピアフで有名な『愛の賛歌』をピアノソロにアレンジしたものであることが分かった。僕たちはその人集りの一部にいつの間にかなっていた。アップライトのピアノに向かって30歳代くらいの女性が懸命に『愛の賛歌』を弾いていた。彼女が弾き終わって立ち上がると人集りから大きな拍手が沸き上がった。その拍手はしばらく止むことがなかった。彼女が立ち上がった後のピアノ越しから一組の男女がお互いに向き合って盛んに両手を動かしているのが見えた。どうやら手話でお互いに会話しているようであった。演奏者のいなくなったピアノは凱旋門を背景に寂しく立っていた。天気のいい日には誰でも自由に弾けるようにとピアノが置かれていることが時々あるらしかった。『愛の賛歌』の演奏があまりにも素晴らしかったので、その後演奏するのはかなり勇気が必要で弾こうとする人はひとりも出てこないために、ピアノの椅子は空いたままだった。『愛の賛歌』を弾いていた女性の姿はもう見えなくなっていた。ピアノ越しには手話で会話している男女の姿がまだ見えていた。彼らはまだ盛んに両手を動かしていた。

 気がついたらいつの間にか兄がピアノの前に座っていた。彼は『天からの贈り物』を弾き始めた。凱旋門は太陽から地上に存在するすべての色を浴びていた。そして、それらを真っ白な水飛沫にして反射させていた。星の数ほどの無数の水飛沫の一つ一つが兄の弾くピアノから発せられる無数の音ひとつひとつと融合して沈黙と真っ白なまぶしい白い世界を創り出していた。やがて星の数ほどの音は、7プラス5つの音から醸し出される旋律になっていた。その旋律に合わせて凱旋門から7つの色が輝いていた。やがて7プラス5つの音は数を増していき、無数の音からなる沈黙へと変わっていった。それに呼応するかのように凱旋門の放つ色も7色から何万色もの色へと変化していき、やがて真っ白に輝いていた。

 兄が演奏を終えた時、先程の幾倍もの人集りができていた。そして先程の幾倍もの拍手があって、しばらく止むことがなかった。手話で話していた男女は両手を全く動かしていなかった。彼らが口を動かして話しているのが分かった。女性の方の片手が動いたかと思ったら、彼女の手にはハンカチが握られていた。ハンカチを握りしめた彼女の手は彼女の目をおさえていた。

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