幸せの定義
そうま
cf.
赤いきつね×3…636円
エナジードリンク×2…426円
おいしいお茶×2…206円
おにぎりおかか×2…232円
野菜ジュース×1…138円
「お会計1638円です」
モニターに表示された金額を、良治は抑揚のない小さな声で読み上げた。癖っ毛の短い黒髪。緑色の、あまり格好良くない制服。黒のスキニー。履き潰したナイキのスニーカー。ウェリントンタイプの黒縁眼鏡は、マスクから漏れる吐息で曇っている。
彼とレジを挟んで、スーツ姿の若い男が読み取り機にスマホをかざしている。カウンターの上に置かれているくたびれた色の買い物かごには、商品が小綺麗に整頓されている。かごのへりには薄いクリーム色のエコバッグが引っ掛けられていた。
決済完了の文字が二つのスクリーンに浮かび、レジからレシートが排出される。スーツの男はスマホを上着のポケットに突っ込むと、かごの中のものをエコバッグへ詰めこみ始めた。
良治は、レシートを青いトレイの上に載せてカウンターの奥に差し出した。そこで初めて、目の前の客の顔を見上げてみた。
客の男は、おそらく良治と同年代だった。つまり、二十四、五歳だ。スーツの男の方は髭を剃り、髪をセットし、眉も整えていた。良治は、中途半端に伸びた顎の髭がマスクの端からはみ出ていた。しかし、目元のくまと、たるんだ皮膚のせいか、客の男の方が、良治より老けてみえた。
買った物の詰め替え作業を終えた客の男はエコバッグを肩にかけ、俯いたまま出口に向かった。ありがとうございました、と良治は独り言のように言った。
夜の街へ戻っていく男を見送ったついでに、良治は店内の天井四隅に配置されたミラーを確認した。レジからみて左奥のミラーに、雑誌コーナーの前に居座る男の姿が映っていた。
男は背が低く、帽子をかぶっていた。白髪混じりの長い髪が帽子からはみ出していた。雑巾みたいな色のナイロンジャケットに、色のはげたジーンズ。手に大きなレジ袋を下げていて、中には半額シールの貼られた菓子パンや惣菜が見えている。そして、マスク越しに微かに漂ってくる異臭。近場では有名なホームレスの男だった。
良治は鏡越しにホームレスの男の様子を観察した。ホームレスの前にある雑誌棚には、端から女性週刊誌、エンタメ系情報誌、漫画週刊誌と並んでおり、ホームレスは漫画雑誌とアダルト誌のちょうど中間あたりに立っていた。
ホームレスは、本棚の前に立ったまま、全く動かなかった。立ち読みをする本の品定めをしているのだと思われた。良治は、いつもは眼鏡を曇らせる鬱陶しい存在であるマスクに、今日ばかりは感謝した。これならば、多少はあの男から漂う臭いを気にせずに済むからだ。あのホームレスが、一度店に居座りだすとなかなか帰らないことは、良治もよく知っていた。男の周辺に近づかなければいいのだが、店員である良治はそうもいかない。荷物を積んだ大型トラックがコンビニの駐車場に到着する時刻は刻々と迫っていた。荷物には、雑誌類も当然含まれているので、このままだとホームレスのすぐそばで作業しなければならなかった。
良治は鏡に映るホームレスの動きをしばらく観察していたが、段々と足が疲れてきた。良治の脚は、黒いスキニーを履いているにしても、かなり細い方だった。食べ物をもとめて街をうろつくホームレスと比較すれば、間違いなく脚の筋力で劣っていた。良治はホームレスの監視を早々にやめて、バックヤードに下がった。
良治は、バックヤードの部屋の、パソコンの前の椅子に腰を下ろした。画面右下の四桁の数字は、深夜一時を表示していた。
勤務開始から三時間、残りはあと約五時間。良治は疲労の溜まった身体を思い切り伸ばした。すると、がつん、と彼の右手が机の上のスタンドライトにぶつかった。彼はさっと手を引っ込めて、赤みを帯びた手の甲を慰めるようにさすった。
バックヤードの空気はひんやりと冷えていた。もう十一月の半ばだった。良治は手をさすりながら机の横に置いてある電気ヒーターの電源を入れた。彼の下半身が、ヒーターの赤い光で照らされた。デスクの周りには、ファイリングされた書類が収納されているケースがあり、椅子の背もたれの後ろには金庫があり、その隣には従業員の制服が掛けられたハンガーラックがある。もともと狭い室内に所狭しと物が置かれていて、細長い通路のようになっていた。
良治はふと、あたりをきょろきょろ見回した。彼が働くコンビニの深夜シフトはツーオペ、つまり二人制で、そのもう一人の姿が見えない。今日は少し歳上の女と一緒のシフトだった。倉庫の方にいるのだろう、と良治は思った。そして椅子から立ち上がり、バックヤードの隅に直置きされている買い物かごへ近寄った。
かごの中には、廃棄予定の商品が山積みされていた。おにぎり、パンをはじめ、野菜サラダや漬物などの惣菜、酒のつまみ、ホットスナック、ヨーグルトがあった。消費期限が迫ったものは店内から回収され、かごに詰められる。それをゴミ袋に入れ、店舗の裏のゴミ捨て場に持っていく。九十リットルサイズのゴミ袋が、毎日パンパンに膨れあがる。
今日は、かご三つ分の廃棄があった。良治は菓子パンが入っているかごをとくに丁寧に物色した。ヨーグルトも欲しかったが、そういう品はもう先に取られていた。それは、その歳上の女とのシフトの時はいつものことだったし、それで腹が立つということもなかった。良治の性格のゆえではなく、その歳上の女がシングルマザーだと知っているからだった。
二人の小さな子どもを育てる彼女に良治は同情的だったが、当の本人にそれほど悲壮感はなかった。かごの中から廃棄を漁る時もにこやかな表情をしていたのが、良治には印象的だった。
結局、良治は廃棄を漁るのをやめた。ロッカーの中の鞄からクレジットカードを取り出して、店内に戻った。店内にはまだホームレスがいた。レジ袋を床に置き、新製品のドライバーを特集しているゴルフ雑誌に熱中していた。良治はカウンターから出て、商品の物色を始めた。そして、チョコレートビスケットとブラックコーヒーを手に取ると、レジに戻った。店内に客がいる時、従業員は買い物をするなと言われていたので、手早く会計を済ませた。良治は再びバックヤードに戻り、商品を載せたトラックが来るまで、スマホで漫画を読んだ。
「38.3°C」
うぜぇ、と良治は小さくつぶやいて、体温計をベッドの脇に投げ出した。顔が赤く火照っていた。寒気はするが、布団をかぶるとすぐ暑苦しくなるので、その度に毛布を足で蹴飛ばした。寝る前にシャワーを浴びなかったせいで、髪は脂が滲んで寝癖が無造作にとっ散らかっていた。
枕元のスマホを手に取った。ロック画面が表示された。時刻は午後一時半。薄いカーテンは十分に日光を遮れていないので、部屋は白いもやがかかったような感じだった。空気はしんと静かで、冷たかった。
良治は昨日の午前中にコロナウイルスの一回目のワクチンを打ち、それから夜勤に出かけた。ただ、夜六時頃には副反応で熱と頭痛が発症していたので、全く仕事に身が入らなかった。今日も夜勤の予定だったが、明け方同僚に電話し、急遽シフトを代わってもらった。
良治は帰宅と同時にベッドへ倒れ込んだ。締め付けのあるスキニーを履いたままだったので、いまいち熟睡できなかった。体調も悪いままだった。
彼は目を覚ましてから、しばらくそのまま、スマホも触らずにただぼーっとしていた。十分くらい経って、上体をゆっくり起こし、伸びをしようとしたが、身体がだるかったので途中でやめた。彼は立ち上がり、スリッパを履くとよたよたと台所へ向かった。
台所には、満杯になったゴミ袋がいくつもあった。中身は、空になったプラスチックの弁当箱や、惣菜が入っていたトレイ、紙パックの野菜ジュースのゴミが大半を占めていた。流し台には、空のペットボトルやエナジードリンクの空き缶がいくつも並んでいた。流し台の隣にある小ぶりの冷蔵庫は、性能が良いとは決していえない冷蔵庫だった。良治は取手を屈みこんで取っ手を引いた。中には、何も入っていなかった。正確に言えば、使いかけのケチャップや飲みもしないのになぜか買った缶ビールはあったが、それは何もないのと同じだった。彼は、中に食べ物が何もないのはわかっていながら、冷蔵庫を開けてみたのだった。良治にはそういう癖があった。
良治は、近所のスーパーに食べ物を買いに行こうかと一瞬考えたが、重たい身体を引きずって行く気は起きなかった。自分のために何かすることは案外エネルギーが必要なのだと、彼は一人暮らしを始めてからよく思うようになった。同時に、今まで自分の世話を甲斐甲斐しいまでにしてくれた母親のことを想起した。
台所においた鏡に、自分の姿が映った。乱れた髪を手で梳かそうとしたが、しみ込んだ油分でどうにもならなかった。良治は外出を断念した。適当に菓子をつまんで済ませようと思い、戸棚を開けた。
薄暗い棚の中に、彼は予想外のものを発見した。菓子の袋に紛れて、ずいぶん前に買ったカップ麺が放置されていたのだった。良治は、口の端がくいと吊り上がるのを感じた。流し台に備え付けの棚の奥から鍋を引っぱりだし、水を入れ、コンロの上に置いた。ガス栓を捻り、コンロのダイヤルを捻った。火がごうごうと燃えだした。
お湯を注いで、数分待った。スマホのアラームが鳴った。上に載せておいたティッシュの箱をよけ、蓋を剥がした。黒縁のウェリントンが曇った。麺を啜る。熱い。汁を飲む。急に鼻が垂れてくる。啜って引っ込める。口の中で、麺と鼻水が混ざって気持ち悪い。眼鏡は曇っている。
幸せの定義 そうま @soma21
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