第16話

    四 捨丸と蘭香

「どちらでござる」

 蘭香は捨丸にどちらを相手にするかと訪ねた。二人とも既に新之輔に武芸の心得がない事は見抜いていた。

「小さい方」

 と捨丸が応えると蘭香は微笑んだ。

「楽な方をお選びなさったか」

「なんの。あの女は鬼川郷子じゃ」

「なんと……。噂以上の小柄さじゃ。お気を付けなさいませ」

「曹全殿の忍者組を倒して来たのじゃ。もう一人も並の腕ではあるまいて。蘭香殿も抜かりなく」

 捨丸と蘭香はのんびりと散歩でもするような風情で話しながら映美と郷子に近付いて行く。映美と郷子はじっと立ってそれを待ち受ける。新之輔は子供を抱えて今出て来たばかりの虎口を通って三の丸の陰に身を隠した。

 捨丸は両手を上げて、うんっと一つ伸びをした。浴衣の下で筋肉がうねった。背負っていた刀を降ろして郷子の背丈よりも長い刃を抜き放つと鞘を放り捨てた。郷子が間合いに入った瞬間、捨丸ののんびりした表情が消え、目にも留まらぬ連続の突きが繰り出された。捨丸の大きな身体からは想像も付かない速さ鋭さであったが郷子はするすると後ろに下がりながらことごとく切っ先を躱した。郷子の背が三の丸の壁に付いた。捨丸が裂帛の気合を込めて長剣を突き込んだ。しかしそこに郷子はいなかった。三の丸の壁を蹴って跳躍していたのである。長剣は先端を一尺ほども壁の中に埋め込んだ。壁から生えた太刀の峰に郷子がふわりと立っていた。捨丸は刀を抜こうとはせずに放すと拳を繰り出した。郷子は再び舞い上がった。捨丸の右拳は壁に打ち込まれた。民家の壁ではない。城である。防御のために頑丈に作ってある。男のふくらはぎほども太さのある丸太を並べ、それを両側から漆喰と壁土で固めた壁だ。その壁を拳が打ち壊した。轟音と共に漆喰が崩れて弾け飛び、丸太が折れて壁が凹んでしまった。舞い上がった郷子が着地しようとしていた屋根も崩れた。足を滑らせて屋根から落ちた。しかし落ちながら壁に突き込まれた捨丸の拳の手首に手刀を振り降ろした。しかしこれは利かなかった。利かないばかりか郷子の手が痺れた。郷子には初めての経験だった。両足を突いて綺麗に着地したが一瞬怯んだ。郷子は修練を積み多くの実戦を経験した手練れである。気力が萎えたのはほんの一瞬に過ぎない。その一瞬で捨丸は壁から剣を引き抜いていた。郷子と捨丸は対峙して睨み合った。

 捨丸は予想に反して刀ではなく左の拳を振って来た。しかし郷子は余裕を持って跳びすさる。捨丸は更に右の前蹴りを放って郷子を下がらせると、またしても長剣の突きを連続して繰り出して来た。荒さはあるが凄味のある技だった。郷子は逃げる。握三日月剣で切っ先を受け流し、一定の間合いを保ちつつ右へ左へと巧みに移る。男は突きながら前に出続け、郷子はそれを避けて下がり続けた。二人は壁に沿って移動していた。男の猛り狂う闘志は目を爛々と輝かせ、身体が発する活力は全身の毛穴から炎を吹き出すようで、郷子は顔面を焙られたかと錯覚するほどだった。それに向き合って眼光鋭く真剣極まりない表情をしていた郷子の顔が不意に崩れた。郷子自身は気付いていないが楽しそうな笑みを漏らしたのである。このような死闘の場には相応しくない無邪気とも言えるような笑顔だった。郷子は一言も発しなかったが捨丸には郷子の「面白い」と言う声が聞こえたような気がした。これには流石の捨丸も驚いた。ごく僅かだが技が乱れた。

 捨丸の次の突きを左の握三日月剣で流すと郷子は下がらずに前に出た。右手の壁を斜めに駆け上がる。捨丸は向かって来る郷子に右の拳を叩き込む。拳が触れる直前郷子は壁を蹴っている。再び捨丸の拳が壁に打ち込まれた。壁が歪んで拳を中心に蜘蛛の巣状の罅割れが径一間ほども走った。舞い上がった郷子は逆さまになって男の耳の上を狙った。掌底を叩き込む。打った郷子が吹き飛んだ。しかし手応えは充分だった。確かに骨に痛手を与えた。ところが捨丸は倒れなかった。倒れるどころか身を翻してまた郷子に向かって来た。不死身である。ふわりと地面に降り立った郷子の左上から長剣が襲いかかる。上体をひねって避ける。また突かれた。切っ先が肩を掠めて郷子の鎖帷子がじゃっと鳴った。倒れながら握三日月剣を投げる。顔面を狙ったそれを捨丸の篭手が払う。その一瞬で郷子は立ち上がっていた。

 何だこいつは。自分に向かってするすると間を詰めて来る大柄な女武者を見て映美はそう思った。強そうな女だった。並外れた剣技を持っている事は身のこなしを見れば判る。しかし映美を戸惑わせたのはそれではない。女が全身から発している奇妙な闘志だった。目がぎらぎらと輝き全身が活力に漲り、溢れ出て来る熱い何かで筋肉がはち切れそうになっているのが判る。ただ足を滑らせて間合いを詰めているだけなのに、動きたくて仕様がない躍動感が伝わって来る。目には見えないその気迫のような物で映美は押し下げられる錯覚を覚えるほどだ。それほどに圧倒的な力感を漲らせながら、女の表情に凶暴さや猛々しさ、戦いに臨む物にある筈の敵への破壊の意志が感じられないのだ。女はただ溢れて来る活力を解放したくてうずうずしているだけだった。方法は何でも良いのだった。それが映美との戦いという形を取ったのは偶然に過ぎない。映美には訳が判らなかった。主君への忠義というような律義な感情とも違っているようだ。この女は何でこんなに奮い立っているのだ。

 女は間合いに入るなり太刀を鞘走らせて、やおら身体を踊らせるといきなり一撃を放って来た。凄まじい剣風が唸りを上げて映美が思わなかったほどその切っ先が伸びて来た。映美は危うく跳びすさったが肩先を襲って来た剣を躱し切れず、かろうじて鍔元で受け止めた。がっと火花が散るその向こうに女の笑顔が見えた。何と女は笑っているのだ。死闘の場には相応しくない朗らかな笑顔だった。歓喜。

 映美は突然気が付いた。この女は恋をしている。明確な根拠はないがそう直観した。恋しい男に自分も思われてその喜びが脹れ上がって身を弾けさせているのだった。ほんの一瞬映美の顔が醜く歪んだ。嫉妬だった。映美は恋多き女だった。それも移り気というのではなく、その時その時には一途に恋をする。映美は美人ではなかったが醜くもなく愛敬のある顔をした陽気で気の良い女で、男性から見てまあまあ魅力的と言っても良かったが、どういう物か男運がなく、恋はことごとく破れた。

 女は突き出した剣をそのまま頭の上に振り被った。映美は目を剥いた。防御が一切なく、呼吸も測らない。測ろうとした気配もなかった。剣技に優れると見たのは見立て違いであったかと映美は思った。何の誘いもなくそのまま振り下ろして来た。速さ鋭さ共に充分だがこれほど素直な太刀筋では受けるのもた易い、映美は余裕を持って頭上で受ける。次の瞬間には右横面に来た。びゅっと風が鳴った。恐るべき速さだが、やはり防御は全く配慮されていない。映美はかろうじて鍔元で受けたが手首が痺れた。更に左横面。今度は続けて二度だ。やっと防いだ。初手から斬りたてられて映美はどんどん下がっている。立ち直ろうにも女の撃ち込みが激しくて余裕を与えないのだ。

 こんな筈はないと映美は思う。やはり女の剣の技量は優れていた。しかし剣技に於いては僅かに映美が勝る。更に言えば映美は剣術の他に武芸百般を人並み以上にこなす。実戦に於いてはそれを応用して剣術の常識に捕われない変幻自在な動きができる。相手の武芸が剣術のみであれば、その技量が同等であっても兵法者としての総合力では映美が優位である。それが目の前の女武者には通用しなかった。技の差ではない。闘志の差であった。女は全く防御をしない。その剣技の全てを攻撃に集中して撃ち掛かって来る。怖れを知らなかった。映美も死は怖れないが子供だけは逃がさねばならないから女のように捨て身にはなれない。女は一瞬も止まる事なく剣を薙ぎ突いて来るが全く疲れを知らず速さ鋭さ共に衰える事がなかった。恋する女はつえー(強い)の。映美はその剣を辟易した顔で躱し、受けた。

 しかしもちろん映美もただ黙って防戦に務めている気はない。女は面を打つと見せて太刀をそのまま地へ吸い込ませ映美の脛を払った。映美には太刀筋が読めた。跳び上がって避けた。映美が躱すと待っていたようにその剣が腹を突いて来た。映美は左手の手甲で受けた。鋼で守られた腕ががっと鳴った。映美はその腕を刀の刃に滑らせながら前へ出た。腕と刀がこすれて火花が散った。一瞬で映美は女の懐に飛び込んでいた。左腕に女の剣を当てたまま片手殴りに打ち込んだ剣が女の鉄線を入れた皮兜の右こめかみを割った。女が跳び下がった。追おうとする映美の脛を狙って刀が払われ映美は止まる。二人は対峙して睨み合った。女の右目の横を一筋血が流れ落ちる。何を思ったか女がにやりと笑った。それを見て映美が顔をしかめた。

 捨丸が大剣で斬り掛かった。その一撃を郷子は危うく躱した。身体をさばいてくるりと回るように捨丸の懐に飛び込む。捨丸が小さな女を捕まえようと刀から左手を放した。郷子の小さな左手が捨丸の刀を握る大きな右手首を掴み、右手に握った握三日月剣を捨丸の分厚い胸に叩き込む。鎖帷子が切断され刃が胸に食い込んだが、腕を振って切り裂く前に捨丸は左手で郷子の肘を掴まえる。郷子も捨丸の右手首を放していない。互いに相手の腕を掴んだ格好になった。しかし力競べになっては郷子に勝ち目はない。郷子は後ろに引いて大男を誘った。捨丸が誘いに乗って前に出ればひねり技で腕を折る積りだった。捨丸は誘いに乗らなかった。手を放して前に跳んだ。郷子の横を擦り抜けざまに刀を振る。郷子は前に跳び込むようにしてその下をくぐり抜ける。

 くぐり抜けながら腰の雑嚢から取り出した小さな袋を捨丸の腕に叩き付ける。袋は獣の臓物で作られており丈夫で水も空気も漏らさない物だが、叩き付けられて破れた。飛び出た液体が捨丸の右腕を濡らす。郷子が受け身を取って立ち上がるのと捨丸が振り返って剣を構えるのが同時だった。郷子の左手指先から火花が飛んだ。捨丸の右腕が燃え上がった。液体は油だったのである。捨丸は刀から右手を離して振った。風を切る音がぶんっと唸って一振りで火が消えた。開いた腕の中を通って郷子の握三日月剣が喉を狙って飛んで来た。捨丸はこれを予想しており余裕を持って刀で払った。刀が触れる直前に小さな刃物は軌道を変化させて刀を避けた。捨丸もこれは予想できず、かろうじて左腕で払い除けたが姿勢が崩れてしまった。

 その時には既に郷子は目の前に来ている。しなやかだがそれほど速い動きには見えない。しかし実際には郷子の動きは印象よりもずっと速い。構えて踏ん張る事をせず全身を同時に動かす。力を溜める動作がないのでその技は唐突に見える。それほど速い動きはしていないように見えるのに気が付くと避けられない所まで手足が飛んで来ている。捨丸には郷子の小さな身体がぐんっと伸びたように見えた。その時には郷子の掌底が捨丸の右手を打っていた。小さな手が風を切る音が唸り力が弾ける。

 捨丸の手から大太刀が飛んでいた。三の丸の屋根を飛び越えた。向こう側の地面に突き刺さったらしいぐさっという音。新之輔のうひゃあと言う悲鳴が聞こえたが郷子の攻撃は休みなく続く。掌底を次々に繰り出す。受ける捨丸も叩き返した。ただ流すだけでは郷子の掌底は受け切れない。技に負けていずれは体勢を崩される。反撃を加えて漸く持ち堪える。捨丸はこれまでの戦いで郷子の変化掌の恐ろしさを良く見極めていた。素手でまとも当たったのでは技で負ける。躱し続けて時間を稼ぎ好機を待つ積りだった。体力なら負けない。

 しかし捨丸は下がり続けて何時の間にか大手門の横まで追い詰められていた。すぐ後ろに塀がある。回り込もうとしたが小さな女はそれを許さなかった。矢継ぎ早に掌底を繰り出して来る。横に跳ぼうとすると蹴りが飛んで来た。塀を背負って捨丸は釘付けにされた。郷子の掌底に弾かれて捨丸の両手が開く。郷子が右手の指を四本揃え、郷子自身が切り裂いた鎖帷子の裂け目から捨丸の胸に突き立てた。指は付け根まで埋め込まれたが抉られた筋肉はそのまま指を咥え込んだ。指が抜けない。捨丸は拳で郷子の腹を打った。同時に郷子も捨丸の臍の上を蹴り飛ばしている。指が抜け郷子は飛んだ。一間以上も飛び、ひらりと受け身を取って立ち上がったが、その途端にごふっと咳き込んで大量の血を吐いた。

 捨丸も郷子の蹴りで痛手を受け、膝が抜け背を塀に滑らせて尻を地に突いてしまった。頭を一振りすると鼻から、びっと血が迸った。捨丸は天を仰いで吠えた。身体を起こした。全身の筋肉が盛り上がり、蓬髪が波打つように逆立った。

 女武者は剣先を舞い上げて派手な左上段を取った。構えに明るさがある。力強さに満ち満ちていながら怒りや恨みは感じられず、むしろ大らかであった。対する映美は下段。攻撃よりもむしろ相手の出方を見るのに都合の良い構えである。自然、構えが暗い。いつもは豪快にして俊敏、目の前の女にも負けぬ陽性の闘志を見せる映美の剣だが、今回はどうも勝手が違うようだ。女武者董蘭香は恋の勝者。一方の映美は連敗に継ぐ連敗であった。もう一つ意気が揚がらなかった。

 女武者が身体を引いた。誘いだと判っていたが映美は誘いに乗った。腹立ち紛れという感じだった。下から斜めに切り上げ、間を置かずに面を襲う。女武者は先ほどの重い攻めとは打って変わって軽い足捌きを見せて身体を躱すと刀身の横、鎬で映美の剣を摺り上げて振り被り踏み込んで面を打った。映美は下がりながら首を横に振って躱した。女の切っ先が映美の右肩をこすって鎖帷子がじゃっと鳴った。女は更に踏み込んで面を続けざまに三度打った。映美は右に二度躱し三度目は落ちて来る刃の下をくぐるように左に躱した。

 映美の剣が女の右面を襲った。しかし女は腰を前に出すようにしながら右膝を突いて頭を落とし映美の剣をくぐると刀を横に振って映美の右胴を狙った。映美がかろうじてこれを受けると更に左足を踏み出して左胴を狙い、それも映美が受けると立ち上がりながら下から斬り上げた。映美はその剣を自分の剣で押し下げながら跳び下がった。女の曲芸のような太刀捌きに映美はまたしても防戦一方となった。

 映美は下がりながら、次は突きか横面かと思っていたが、女は唐突に攻撃の手を止めてあろう事か横を向いた。女の視線の先で仲間の大男が郷子に塀際に追い詰められていた。女の目に不安の色が走る。映美は女の思い人が誰なのか知った。思った男と共に戦っている。その事が映美の嫉妬に拍車を掛けた。

「はいやっ」

 映美が裂帛の気合と共に刀を打ち込んだ。女武者はかろうじてこれを受けたが、映美の剣のあまりの勢いに、よろけてとととととっと後ろに十歩ばかりも下がってしまう。嵩にかかって映美がこれを追う。しかし目の端に郷子を突き飛ばし間合いを取って立ち上がった捨丸の姿を捕えると女にまたあのはち切れんばかりの気力が蘇って来る。

 しかし今度は映美も反撃に移る隙を与えない。前に出る。刀を右脇に引き左肩を突き出すようにして飛び出した。女武者が上段から映美のがら空きの左肘に向けて打ち降ろした。しかし映美は突進からあり得ないような急停止をすると右へ躱しながら刀をきらりと左斜めに返した。目にも留まらぬ早技である。打ち下ろされる女の太刀を映美の剣が峰で応じ、かっと青白い火花を飛ばした。女の太刀が跳ね上がった。体が崩れた所へ映美の突きが走った。女の胸、乳房の間に切っ先が突き込まれた。映美にとって運の悪い事にそこは鎧の鋼が特に厚い部分だった。剣先は突き通らず女武者は突き飛ばされて後方に転がった。受け身を取って立ち上がった。

 女武者は映美の気力が増してきている事に気が付いた。映美には底なしの体力があった。初手こそ女に気迫で押されたが一太刀毎に新たな闘志が涌き気力が充実していった。女武者が初めて顔をしかめた。映美は尻上がりに強くなる。映美は「肝が錬れる」という言い方をする。戦うほどに体力はもちろん落ちる。しかし性根が座り胆力が涌いて来るのである。それを映美は腹の奥で何かが錬られ、粘りが増して来る感じに譬えるのであった。女武者は長引かせるべきではないと判断した。それに早く映美を倒して捨丸に加勢したかった。

 ひゅっと喉を鳴らして右上段から映美の肩を狙って左下に切り下げた。映美はそれを右に刀で払った。刀を振り降ろしながら途切れ目のない連続した動作で女が腰を回すようにして足を振り上げて跳躍した。両足が空中で風車のように回った。旋風脚。回転飛び後ろ回し蹴りである。当たれば一撃で方が付く鋭さだったが強引に過ぎた。致命傷にはならなかった。しかし映美は躱し切る事もできなかった。映美の視界が赤く染まった。血が滴り目に入ったのである。女の爪先が掠めた額が裂けていた。

 女は止まる事なく息をも吐かせぬ集中攻撃を繰り出した。風車のように身体が回転する。無数の剣と無数の蹴りが映美に向かって降って来る。旋風(つむじかぜ)である。小さな、しかし剣呑な旋風だった。映美は僅かの差でそれらの全てを躱したが押しまくられて後退を続けた。映美の背が硬い物に触れた。大手門の閂だった。女が剣を振り降ろした。映美は左に躱した。女の剣が閂を真っ二つにし、太い角材の閂が地面に落ちた。映美の逃れた所は塀の端と門扉が作る角で逃げ場がなかった。女が裂帛の気合と共に映美の喉目掛けて突きを放って来た。

 捨丸の拳が左右交互に繰り出された。腹に一発食らっている郷子は圧倒され防戦一方となった。郷子はじりじりと後退する。前に出る事ができない。左右にも躱せない。下がって逃げる。捨丸の拳は鋭く、掠めただけで皮膚がぱっくりと裂けた。既に顎も右頬も左目の上も切れている。

 前蹴りが飛んで来た。跳び下がりながら腕を十字に組んで受ける。郷子の眼前に閃光が煌く。腕が痺れ息が止まった。足が縺れよろめいた。力が入らず体勢が立て直せない。姿勢を崩して膝を折り郷子は地に右手を突いた。捨丸が飛んだ。ごうっと獣のような気合いを発した。郷子の真上から頭頂を狙って踵を落とす。

 郷子は気力を振り絞った。例によって反動を付けない唐突な動作で身体を左によじった。捨丸の足裏が肩先を掠めた。郷子は腕を水平に薙いだ。膝に手刀が叩き込まれた。大男はむっと呻いて動きを止めた。郷子は反転し身構えた。捨丸が郷子に向き直った。

 遅い。僅かではあるがこれまでより捨丸の動作が遅い。構えた腕もやや下がっている。郷子の口元に微笑みが浮かぶ。利いている。積み重なった痛手が今漸く表面に顕れていた。この男も全くの不死身という訳ではないと郷子は知った。

 捨丸が前蹴りを放った。郷子はそれを躱してするりと懐に入り込む。左右から拳が降って来る。それを両手で打ち返すようにして払う。捨丸の手が開いた所へ右の掌底を突く。胸の下だ。肋を打った。捨丸は躱せなかった。肋骨が砕ける鈍い音がした。捨丸は崩れるように後退し間合いを取った。

 しかしすぐに前に出て来て右の拳を横から郷子の顔に叩き込んだ。郷子は身体を反らしてそれを避けた。顔の前を通過して行く拳を追いかけるように左手で掴んだ。下に引きながら地に身体を伏せるようにして捨丸の踏み込んでいる左足首を蹴り飛ばした。

 捨丸の身体が宙に浮いた。回転する視界の中に蘭香を捕えた。女武者は意外なほど近くに居た。地に落ちる瞬間、受け身を取ろうとした。その前に落ちて来るのを迎えに行く形で郷子の蹴りが捨丸の後頭部を叩いた。受け身を取る事はできず、逆立ちの格好で顎を引き後頭部を地面に叩き付けた。首の骨がごきりと鳴った。捨丸は草原で牛の群れを追っている自分の姿を幻視した。死ぬまでの僅かな時間の事である。肩と後頭部で逆立ちしていた捨丸の身体はやがて仰向けにどうと倒れた。

 映美は門の端に追い詰められていてどこにも逃げ場はなく、女武者の突きは躱せないように見えた。逃げ場はあった。映美は背後の門ごと右後ろに逃げた。女が閂を切り落としたため門が開いたのである。女の切っ先が首の横一寸ほどの所を通り抜けようとする瞬間、映美は女の胸に身体を叩き付けるように前に出た。両手で掴んだ柄を胸の下に当て、峰が顔に着くほど刀身を引き寄せている。両手を激しく動かして切っ先をじぐざぐに走らせた。初めて見る太刀筋に女は慌てて跳び下がったが躱し切る事はできなかった。間合いを取って映美を睨む女の左目は瞼を縦に裂かれ眼窩は真っ赤な血泥を満たして瞳は見えなかった。溢れ出る血を拭おうともせず女はぎりっと歯を食い縛って尚も刀を構えた。

 この時、地響きを立てて何かが倒れる大きな音がして映美も女武者もちらりとそちらを見やった。片目を抉られても声も出さなかった女が悲鳴をあげた。「ぎゃあ」とも「うがあ」とも聞こえる獣のような叫び声だった。女は映美を無視して倒れた捨丸の許へ走った。映美は追わなかった。

 女は倒れている大きな男の胸に取りすがって揺さぶった。何度も名を呼んだ。泣き叫んだ。時折「花州へ行こう」「牛はどうするのじゃ」という言葉が泣き声に混じったが、もちろん映美と郷子には何の事か判らない。

 やがて女は泣き声を止めて俯き、歯を食い縛ってうーと唸った。やおら立ち上がり、郷子に斬り掛かった。鋭い太刀だったが左目が見えないため距離感が狂っていた。郷子は斬り下げて来る女の腕を掴んで投げ飛ばした。女が突進して来る勢いを利用したため女の身体は宙を飛び、大手門に激しく叩き付けられた。映美によって既に少し開いていた門は更に押し広げられて女の身体はその向こうに落ちて行った。映美と郷子が駆け寄って見下ろすと、女の身体は門の前の石段を転がり落ち、前の道で跳ねて左手に掘られた空壕に落ち込んで傾斜を滑落して行ったが、既に意識はないようだった。

「助かるかしらね」

 と郷子が言った。映美は首を傾げた。

「さあでの(さてね)」

 二人にはどちらでも良い事だった。子供と新之輔の許へ行こうと振り返りかけた時、何か硬い物を擦り合わせるような「きりきり」あるいは「きゅるきゅる」という音が下から聞こえて来たのである。

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