第13話

    第三章

    一 潜入

 映美と郷子は同時に何か気が付いたような顔をして顔を上げた。郷子が言う。

「環姫、戸を開けて」

 何の物音もしていなかった。環は不審そうな顔をしながらも立ち上がって戸を開いた。ぎょっとして跳び下がった。戸の前に男が一人立っていた。これと言って特徴のない男である。菅笠を目深に被っているので顔つきは良く判らないが、子供でも老人でもない事は確かである。地味な羽織袴に大きな荷物を背負っている所は行商人風だった。男を見ると眠晃もぎょっとした顔になった。全く気配を感じていなかった。

「不覚っ」

 郷子が慰めるように言う。

「気付かなくても無理ないわ。その人は特別な裏鬼界だから。私たちでも気配を悟るのは難しいもの」郷子は男の方を見た。「久しぶりね、鬼深幻十郎。棺桶担ぎが何の用」

 男は素早く蔵の中に入り戸を閉めると苦笑した。

「何の用、じゃねえや。おめえらが呼んだんじゃねえか」

 郷子が笑った。

「そうだったわね。忘れてた」

「ご加勢していただけるのでしょうか」

 環が期待した顔で言ったが郷子は首を左右に振った。

「棺桶担ぎは特別な役目があるから手伝って貰えないわ。今日はその役目のついでに荷物を届けて貰っただけなの」

 仲間や天使の死体を妊婦の元に届ける事を専門にした裏鬼界である。森の中で映美が殺した天使の死体を回収しに来たのであった。幻十郎は荷を解くと長さ二尺ほどの太い棒を十本取り出して床に積んだ。

「康太郎からだ」

 康太郎は鬼界衆の機関職人で流星槍の発明者である。郷子が一本手に取った。

「流星槍ね。でもこれじゃあ一人ずつしか敵を倒せないわ」

 これは映美が使った物のように先が枝分かれしておらず先端まで真直ぐだった。幻十郎はにやりと笑って自分も一本取り、後ろの方を何か操作をした。すると前半分ほどの覆いが外れて鋭い刃物が何本も束ねられた物が現れ、それが放射状に開いた。郷子が目を輝かせた。

「凄い。これならかさばらないから沢山持って歩けるわね。流石はこうちゃんだわ」

「開花流星槍と名付けたそうだ。それからこれは」幻十郎は言いながら更に荷を解いて行く。真珠色と真紅の着物が現れた。「風子(ふうこ)からだ。新しい踊りの衣装が縫い上がった。どうする。じさまに預けて置くか」

 映美と郷子は同時に首を左右に振った。

「おめえらまさか…」

 映美が深く頷いた。

「よごしぇ(寄越せ)。着で行ぐさげ」

 映美と郷子に衣装を渡しながら幻十郎は呆れて言う。

「世界一派手な忍者だな」

 映美と郷子はにやにや笑っている。幻十郎も笑った。

「それじゃ俺は行くぜ。孕み女たちが待っているからな」

「お役目、ご苦労様だの」

 と映美が言い終わらない内に幻十郎は姿を消している。映美と郷子は蔵の外で着替えた。再び蔵に入って来た映美の真珠色の衣装は銀糸で縁取られており、羽織と袴には桃色の刺繍で細かい模様が縫い込まれていた。郷子の真紅の衣装は金糸で縁取られており、やはり羽織と袴に桃色の細かい模様が刺繍されている。二人は化粧をし、髪飾りまで着けていた。映美の髪飾りは銀糸を編み込んだ白い紐で、郷子の髪飾りは金糸を編み込んだ赤い紐で編まれていた。二人はそれぞれ流星槍と忍び道具の入った背負子を背負い、映美は刀を腰に差した。他の者があっけに取られているのを尻目に準備が終わると映美と郷子は頷き合った。郷子が言う。

「やっぱりこの方がしゃっきりするわね」

 元々踊りの衣装なので動き易いように工夫はされていたが、流石にそのまま城へは行かず、黒に近い茶色の布で体を覆い、同じ色の被布を被ると、映美と郷子は新之輔と環、その家来たちを引き連れて城へと向かった。捕えた職人は猿轡を噛ませ縛り上げたまま置いて行った。城への道すがら、新之輔は自分が意識を失っている間の話を聞き、映美と郷子に温められた記憶がない事を頻りに残念がった。余りに繰り返すので郷子は「いいかげんにしなさい」と怒鳴って赤くなり横を向いた。新之輔は初めて郷子を可愛いと思った。鉄の蒸気車の話を聞くと新之輔は呆然として立ち止まった。

「戦車だ」

 後を歩いていた環が気付かずにぶつかった。新之輔の後頭部にぶつけた額を押さえて顔をしかめた。

「何だ」

 二人ともすぐに歩き出す。

「その武器を工夫したのは僕です。城に図面が残っていたに違いありません。上に付けたのは射剣筒ではなく弩でしたが」

「余計な事をしおって」

 環は新之輔を睨んだ。

「遊んでばかりいないで、たまには武器の工夫でもしろと言ったのは姫ですよ」

「そ、そんな事を言ったかの」

 環は視線をさ迷わせた。新之輔は頷いた。

「はい。役立たずの無駄飯食らいとも言いました」

「覚えておらぬ」

 環は赤くなってそっぽを向いた。前を歩いていた映美が笑いながら新之輔を振り返った。

「へなごしゅ(女性たち)は皆、ほだにそう(そのように言う)んだの」

 新之輔はにこりともせずに深く頷いた。

「城下の道を広く真直ぐにしたのは戦車が自由に動くためですね。あれが出て来ると荻軍は苦戦するかも知れませんよ」

「弱点はないのか」

 環が聞いた。新之輔はしばらく考えてから言った。

「思い付きません」

「ここに入れって言うの」

 雑木林の下の石を退かして抜け穴の入口を露出させると、それを見て郷子は絶望的な声をあげた。斜面に横向きに口を開けたその穴は郷子がどうにかこうにか潜り込める大きさで、土は見るからに軟弱で今にも崩れ落ちそうだった。土を吸い込まないように被布にしていた布を顔に巻いて覆面にし、背負子を環に預け、郷子が覚悟を決めて頭を入れようとすると目の前にどさどさと土が落ちて来た。郷子らしくない情けない顔をした。

「人目に触れぬのが忍びとは言え、このような所で生き埋めになって生涯を終えようとは。とほほ」

 落ちて来た土を掻き出しながらぼやいた。鬼界衆に暗黒は苦にならなかったが、穴の大きさは郷子の身体に合わせて誂えたようで胴回りに隙間がなく、しかも真直ぐ上に向かうのではなく、右に左に時には螺旋状に曲っており、身動きが困難で身をくねらせるようにして進まなければならなかった。しばらく進むと映美の鬼神通も通じなくなり郷子に更に心細い思いをさせた。八年間の間に木の根が伸びて穴の中に上からぶら下がり、横から突き出し、太い根が穴を横切っている所もあった。身動きの不自由な穴の中で、郷子は身をよじるようにして握三日月剣でそれらの根を切って進んだ。しかし、根が絡み合っている所は少なくとも崩れて来る心配は少なかった。時折崩れて狭くなったり、塞がりかかっている所があると、三日月剣を振るって周囲を掘り広げ、せっかく化粧した顔に落ちて来る土を払い除け、身をうねらせて下へ送って進む。そういう所は地盤が緩んでいて、大量の土が一度にどさ、と落ちて来て顔の上に積み重なり呼吸を困難にする事もあった。恐慌に陥ろうとする心をねじ伏せて少しずつ土を腹の下に押し込み、隙間を広げて呼吸を確保した。かと思うとたった今通り過ぎた足下が崩れ去って郷子の下半身を中空にぶら下げる。下を見ると引き返す穴は塞がっている。最も恐ろしいのは、穴が狭くなり身体が挟まって身動きが取れなくなった時で、このまま誰にも発見されずに干からびるのではないかと思うと叫び出しそうになった。落着け落着け落着けと自分に言い聞かせ、殆ど動かない身体を少しずつよじり、くねらせて後退し、改めて穴の周囲を削り取って広げてまた進んだ。無理な姿勢で身体を動かし続けているので筋肉が硬くこわばり凝ったようになって鈍い痛みを発し続けた。始めの頃は蝮に注意しなければなどと思っていたが、そんな事を考える余裕はなくしていた。

 後どのくらいあるのだろう。もうどのくらい時間が経ったのだろう。この穴は永遠に終わらないのではないだろうか。どこかで横道に逸れて山の中を見当違いの方向に掘り進んでいるのでないだろうか。えみちゃんたちはもう石垣の下に着いたかしら。ずいぶん時間が経った感じがする。もう夜が明けてしまったのではないだろうか。ついに自分は間に合わなかったのではないか。捕われた子供はどうなっただろう。えみちゃんはどうなっただろう。ああ、同じ事をさっきも思った。何回目だろう。何十回? それとも何百回? また穴が崩れた。今度こそ埋まる。土が重い。息が苦しい。腕がだるい。身体が痛い。ここで諦めたら楽かしら。でも、えみちゃんが待ってる。子供が待ってる。大丈夫。まだ大丈夫。それほど長くは保たないかも知れない。でもまだ取り敢えずは動く事ができる。行かなきゃ。えみちゃんの所へ行かなきゃ。子供の所へ行かなきゃ。後どのくらいあるのだろう。もうどのくらい時間が経ったのだろう。この穴は永遠に終わらないのではないだろうか。

 目の前の穴を掘り広げる三日月剣がこつんと何かに当たった。また石だろうか、それとも木の根か。硬い物に沿って掘り進んで行くとそれは郷子の頭上に水平に置かれた平らな木の板だった。聞こえる。えみちゃんの声が聞こえる。幻じゃない。聞こえる! 聞こえるわ! 鬼神通が通じるくらい地表に近い所に来たんだ。出口だ。この板が出口なんだ。郷子は余りの嬉しさで胸が震え、もう何年も流した事のない涙を流しそうになった。板を押し上げた。動かない。何か重い物が乗っているようだった。閉じ込められた、と郷子は思った。せっかくここまで来たのに出られないなんて。こんな所はもう嫌。土の中は嫌。嫌っ。出して。誰かここから出して。嫌。嫌あっ。

 鍛え上げた強靭な精神を持っていた筈の郷子だが、経験のない閉塞感に曝され続けて精神に失調を来したようだった。頭上の板を掌底で叩き割ろうとした。恐慌に陥りかけた郷子を映美の鬼神通が宥めた。郷子ははっとして我に返った。えみちゃんごめんなさい。ありがとう。うん。もう大丈夫。みんな石垣の下に着いたのね。私が穴の中に入ってからどれくらい経ったの。一刻にもならない? 信じられないわ。何年も経ったような気がするわよ。お婆さんになったせいか腰が痛いわ。ああ、そうね。無理な格好を続けたせいね。

 郷子は映美と話し続ける事で平静を保ち、映美の居る方に向かって板に沿って掘り進んだ。やがて板が尽き上に空洞が開けた。見上げると天井からたくさんの刀が切っ先を下にしてぶら下がっていた。郭の床下である。つり下がっている刀は忍者封じだ。恐慌に陥って板を破り飛び出していれば刺し貫かれていた。おそらく三の丸だろう。穴が崩れ土が動いて出口の位置が変わっているようだが、それほど遠く離れている筈はない。刀の間隔が広くなっていて通り抜けられそうな所を見付けて、そこに向かって更に土を掘る。這って行って縁の下から外を窺う。

 やはり三の丸だ。すぐ目の前に石垣が見える。三の丸と石垣の間の道を慌ただしく人が行き交っている。忍びを警戒した動きではない。戦の準備だ。大勢の雑兵が走り回っている。女や子供の姿も見えるのは、籠城の際に食事の準備や洗濯など雑務をさせるためだろう。荻軍の進行は既に知られているらしい。やはり間者が居るのだろう。出陣している本隊にも報せが行っているはずだ。荻軍は短時間で一気に城を攻め落とさないと、引き返して来た本隊と城に挟み撃ちにされる事になる。しかしそれは郷子の知った事ではない。映美と郷子は子供を救い出せれば良いのだ。人が途切れるのを待って縁の下を飛び出し、映美たちの元へ一気に走る。土の中から出られた開放感で思わず笑みが溢れてしまう。

 城の塀や石垣は単純な直線や弧では構成されず、必ず複雑な凹凸が付けられている。面の形が単純だと、弓や飛礫を撃ち掛ける際に死角ができて敵の接近を容易にするからである。この凹凸を横矢掛かりという。

 雑兵の柳世賢(ゆうせいけん)は横矢掛かりの出っ張りの一つに建つ物見櫓の上に立って侵入者を見張っていた。しかし侵入者など居るはずもなかった。眼下の石垣は雨落とし(石垣の垂直な部分)が長く、切り込み接(は)ぎと呼ばれる精緻に加工した石を組合せる最新の工法なので、石はぴったりと隙間なく積み上げられ、つるりとして手掛かりが全くない上に、中途には登って来る物を妨害する逆茂木(さかもぎ)、忍者返しなども設置され、万が一それらを乗り越えて来れば石垣に沿って石を落として撃退する仕掛けもある。石垣を登って来る者を発見したらその石落としを作動させるのが柳世賢の役目だった。操作は侵入者を発見したら紐を切るだけの簡単な物で、そもそも侵入者があるとも思えなかったから楽な役目である。

 柳世賢はこれが不満であった。柳は百姓の子ながら武芸に優れ、槍ばかりでなく拳法、剣術、棒、相撲にも通じていた。このような役目は相応しくないと思っていた。見張に立ってから四半刻(約三十分)も経つが、戦準備に慌ただしい城内に比べ、塀の外側は静まり返っていたし、他の見張が敵を見付けたという合図もなかった。それでも柳は、不満なりに塀の角々に立てられた篝火の照らし出す石垣の表面をじっと見張っていた。しかし、動く物は鼠一匹見当たらなかった。だから、まさか自分の立つ櫓の上へいきなり敵が現れようとは思ってもみなかった。

 人通りが途絶えた時、柳は猿のような小柄な影を見た。物見櫓は荒く組んだ木材の上に見張小屋を乗せただけの物で、隙間だらけで隠れるような所はない。柳には影がどこからやって来たのか判らなかった。柳は目を疑った。それからはっとして剣を抜いた。抜いた時には影は目の前に来ていた。影は子供のように小さく、柳には被布のような布を被った頭頂しか見えなかった。刀を振り降ろした。手首に衝撃が走り刀は吹き飛び、櫓の床に突き刺さった。柳は前蹴りを放った。影は蹴りを擦り抜けて柳の右脇に立った。顎ががくんと仰け反った。それで柳の人生は終わりだった。郷子の姿をはっきり見る事はなく、自分を殺したのが男か女かも判らなかった。

 柳の身体は伸び上がって仰向けに倒れて行った。郷子の右足がすいと伸ばされた。落ちて来る柳の後頭部を足首と甲でふわりと受け止めて支える。櫓の上に柳の身体を静かに横たえる。郷子は櫓を降りると、消火用の水桶の水で石垣の斜面を照らしている篝火を消す。月が陰っているので石垣の下は何も見えなくなったが、逆茂木の陰から映美たちが姿を現したのが郷子の鬼神眼には判る。身体に巻いた布の下から綱を取り出す。芯に針金を編み込んだ細くて軽いがしなやかで丈夫な綱だ。外側は麻で包むように編んであるので滑りにくい。忍び道具を入れた背負子は穴に入る前に環に預けたが、綱だけは身体に巻いて来たのだ。石垣の上の塀は綱を縛り付けるような柱や出っぱりがなかったが狭間(さま)が開いていた。狭間とは塀を盾にしながら矢を射掛けたり飛礫を投げたりするための穴である。江軍は射剣筒も使うのだろう。郷子は綱を狭間に通し、抜けないように結び目を作ると綱を下に降ろした。

 最初に映美、次に環、続いて環の家来たちが次々に綱を引いて石垣を上る。映美はするすると苦もなく登り切ったが、他の者たちは逆茂木や忍者返しを避けるのに苦労している。特に鋭い刃物が石垣から横に突き出した忍者返しは危険だったし、強く押し付ければ針金が入った綱も切れそうだった。それでも、何とか敵に見咎められずに眠晃以外は登り切った。意外にも新之輔も滞りなく登って来た。登る動作その物は不器用だが夜目が利くらしく、登る先を良く見て予め障害物に備えて動くので迷う事がなかった。戦準備は一段落付いたらしく人通りが絶えている所を見計らってはいるが、もしも敵が現れて見付かったら、映美と郷子は環たちを残して姿を隠す積りであると予め告げてあった。環たちもそれは納得している。最後に眠晃を引き上げる。隻腕の眠晃は綱があっても石垣を登るのは困難で、綱を身体に巻き付けて上から引き上げた。後もう少しで登り切るという所で、篝火の消えている事に気付いた侍が綱を引いている映美たちの方に近付いて来た。敵に見付かる前に手を放す事はあらかじめ眠晃にも言ってあるが、今手を離せば滑り落ちた眠晃は忍者返しに切り刻まれる。

 塀の陰から音もなく映美が滑り出して侍の背後から口を押さえ、もがく暇も与えずに喉を掻き切る。死体はすぐに見付からないように見張櫓に引き上げて、柳世賢に並べて横たえる。この時映美はちょっとした細工をしておいた。無事に眠晃も城内に入ると塀に沿って進んだ。すぐに奇妙な物に付き当たる。城の地面からは一段高くなった道が三の丸の内側から出ており、三の丸と石垣に挟まれた通路を横切って塞いでいる。階段があって通り抜ける者はその道の上に登るようになっている。道は石垣に達して更にその向こうに突き出し、空中に板の道が二丈(約六メートル)ほども延びて、そこで唐突に途切れていた。水辺にある桟橋に似た感じだが、この山頂まで水が来る事はどんな大洪水でもあるまい。

「天人鳥の飛翔路ね」

 と郷子が言うと環は頷いた。これを走って空中に飛び出すのだ。飛翔路の始まりの所は三の丸の一部になっている大きな郭の二階だった。人気がないのを確認して忍び込むと八枚の天人鳥が仕舞われてあり、もう一枚が製作途中で、布の張られていない枠だけの凧が台の上に固定されていた。様子を窺いながらしばらくそこで待った。二の丸側の人通りが絶え、見張の注意が逸れるのを辛抱強く待つのだ。

 環の想像とは違い、忍びの主な仕事は華麗な体術を使う事でも奇想天外な忍法を使う事でもなく、忍耐を発揮する事だった。身を潜め、息を殺し、気配を隠して、ただじっと待つ。忍びの仕事の殆どの時間はそれに費やされる。そしてそれがどれほど苦しい事か、環は初めて知った。ごく僅かな手勢で敵の真っ只中に居るのである。気配を絶つためには音を立ててはいけないし動きも最小限にしなければならない。心に負担の掛かる状況で気を紛らわす様な事もできないのである。ただじっとしているだけで追い詰められた様な気分になり、息が苦しくなり、深呼吸をするのだが息苦しさは去らない。駄目だ。耐えられない。環はそう思った。血走った目を見開き、油汗を流し、空気を肺腑に取り込もうと無理矢理息を吸って喉がひゅーひゅー鳴っていた。気が変になる。もうすぐ何かがぷつりと切れる。そうしたら自分は叫び出すだろう。間違いない。もう喉元まで来ている。そうしたら全てぶち壊しになる。家来たちは城内に入れず、鬼界衆の子供も救い出せない。それどころか侵入した我等も皆命がない。どうしたら良い。どうしよう。どうしよう。そうだ。刀で喉を突こう。そうすれば叫び出す事もない。切羽詰まって錯乱し環は鯉口を切ろうとした。

 不意に郷子が環を抱き締めた。声は出さなかったが郷子は環の頬に頬を押し当てて何度も頷いた。大丈夫。大丈夫よ。環を雁字搦めにしていた不安と苛立ちが溶けていき、楽に呼吸ができる様になった。涙が出て来た。追い詰められ、押し潰されそうになり、冷静さを失っていた自分が情けなく恥ずかしかった。郷子に余計な気遣いをさせた事が申し訳なかったが、気付いて貰えた事が嬉しくもあった。もう大丈夫と思ったか、郷子は環から身体を離し、目を覗き込む様にして微笑んで頷いた。環も大粒の涙を流しながら何度も頷いた。

 環ほどではないにしろ、環の家来たちも待つ事に不安や焦りはある。経験豊富な映美と郷子にしても全く苛立ちがない訳ではない。ところが新之輔だけは何の重圧も感じていない様だった。いつもの憂いという物が微塵も感じられないあっけらかんとした顔で郷子と環の無言劇を興味深そうに眺めていた。その新之輔を見ながら映美は、この男の頭の中はどうなっているのか、かち割って見てみたい物だ、と思っていた。

 郷子が穴から出た当初に比べるとずいぶん静かになっていた。夜襲はないと判断したのかも知れない。いずれにせよ、籠城に備えて集めた武士や雑兵を一晩中起こしておく訳にはいかない。寝不足では充分に闘えない。郭の外に動く者は少なくなるばかりで、兵舎も兼ねている二の丸三の丸のざわつきもやがて静まり、天人鳥蔵の隙間から見える範囲で起きているのは要所要所に立つ不寝番だけになった。

 突然、がらがらと何か硬い物が崩れ落ちる様な音がした。映美たちが背後にしてきた石垣の方だ。郭の角に立っていた不寝番たちが一斉に走り出した。映美の仕掛けが作動したのだ。映美は、櫓の上で石落としの紐を切り、倒した死体で押さえて置いたのだ。味方が倒れているのを発見した城の者が死体を抱え起こして紐が外れ、石垣に石が流れ落ちたのである。

 この隙に映美たちは三の丸の天人鳥蔵から飛び出した。窓を開いて次々に飛び出し、ひらりと地面に着地する。新之輔だけが不様に壁をずるずるとずり落ちて来た。最も背の高い眠晃が狭い庭を駆け抜けて二の丸の壁に背を付ける。映美と郷子は左右に分れて敵を見張る。眠晃は壁に背を付けたまま膝を折って中腰になる。環が駆けて行って階段を上る様に眠晃の膝、次に肩に足を掛けて二の丸の屋根に跳び上がる。即座に腹這いになって地上から身を隠す。環の家来たちも次々と駆け上がった。

 新之輔だけがもたもたしていると左右から映美と郷子が駆け寄って両側から押し上げ、次いで自分たちも両側から眠晃の身体を駆け昇って屋根に上がり、素早く周囲を見回しながら振り返り、屋根の下へ手を差し伸べると眠晃の身体を掴んで引っ張り上げた。映美と郷子のこれらの動作は全く止まる事のない連続した一挙動として行われ、この間、映美と郷子の動きはぴたりと一致して乱れる事がなく、二人合わせて一匹の獣であるかのようだった。

 山城の庭は狭く、屋根の上から映美と郷子には意外な近さに本丸が見えた。本丸側の見張も石垣の方へ走ったらしく庭には人気がなかったが、戻って来れば屋根の上の映美たちはすぐに発見されてしまう。今は月が陰っているが、雲間から出て来れば本丸の二階からも丸見えになる。映美たちは急いで屋根を飛び降りると走って何かの蔵らしい郭と二の丸の間の陰に入り込んだ。新之輔が言う。

「ここでお別れですね。姫たちは朝になったら味方を導き入れるため、虎口(こぐち)の閂を壊し、搦め手門近くに身を潜めるのでしょう」虎口とは城の門や要所の出入り口である。「僕たちは子供の捕われている場所を確認するために本丸に忍び込みます」

「ちんど(少し)待で」映美が新之輔にけげんな顔を寄せた。「今、何でそうだ(言った)?」

「本丸に忍び込む」

「ほの前」

「お別れですね」

 新之輔は映美の聞きたい部分を通り過ぎた。

「僕だぢでそうだの(僕たちと言ったね)」

 郷子も顔を寄せて来た。

「私たちと一緒に来る積り?」

 新之輔は頷いた。

「いけませんか」

「いけなくはないわ。むしろ本丸を案内してくれれば助かるけど、環姫と一緒に行くか、どこかに身を隠していた方が安全じゃないの」

「どこに居ても危険ですよ。ならば」新之輔は晴れやかに笑った。「面白そうな方に付いて行きます」

 筋は通っているが、命が危険に曝されている時に面白いかどうかという基準を持ち出す神経が映美にも郷子にも判らない。郷子が言う。

「判っていると思うけど、足手まといになったら置いて行くわよ。敵に見付かりそうになったらあなたを囮にして私たちは身を隠すかも知れない。子供を助けるためにどうしても邪魔だと思ったら、……殺す」

 郷子は真剣な顔をしていたが新之輔は屈託のない笑顔のまま頷いた。

「はい。真珠さん」

「何だ」

「その時には痛くないように殺してください」

 映美はまた、この男の頭の中はどうなっているのだろうと思いながら頷いた。

「まがしぇでけろ(任せてくれ)」

 環たちが出て行き、映美と郷子と新之輔の三人だけになると映美が聞いた。

「新之輔さ、日の出までどれぐれだ」

 新之輔は上を見上げて薄い雲の向こうからぼんやりした光を透かしている月を探し出し、周囲の郭を見回して方角を確認した。

「後一刻半くらいです」

「わがっだ」

 という映美の返事を聞いて新之輔が視線を戻すと、映美と郷子は背負子から小さな壺を幾つか取り出した所だった。油紙のような物で蓋がしてあり、壺自体も油でぬめっているような妙なてかり具合だった。二人で三つずつの壺を足下の地面に並べると、次に細長い木の箱を取り出した。箱の中にはやけに太くて長い線香が入っていた。映美と郷子は長さを測って線香を短く折った。新之輔の視線に気付いた映美がにやりと笑って聞く。

「何だが、わがるが(判るか)」

 新之輔は頷いた。

「壺は蝋でできていて油が入っているのでしょう。線香を刺しておいて短くなると火が点く仕組みだ。線香を折ったのはその時間を加減したのです。夜明けと共に、いや、その少し前に火を放つ積りですね」

 映美と郷子は顔を見合わせた。新之輔の察しの良さに驚いているのだ。映美と郷子は新之輔をその場に残して忍法不知火を仕掛けに去り、すぐにまた戻って来た。戦準備が終わっていったんは静まった城内だったが、背後の二の丸の向こう側で人の走り回るような足音が聞こえて来た。新之輔が囁く。

「櫓の見張を殺した曲者を探しているのですね」

 郷子が頷く。

「裏切り者が居るのじゃないかと味方同士で疑い合ってくれると良いのだけど」

「こっづ(こっち)探すに来る前に行ぐべ」

 映美が言うと郷子が頷いた。郷子が前を行き、新之輔を挟んで映美が後ろを警戒しながら物陰から物陰へと進んだ。新之輔が足音を消すのが難しい場所ではしばしば映美が新之輔を背負った。その時には背負子を胸に回す。本丸の出入り口には全て見張が立っていたが、その一人に郷子がそっと近付き、姿を見られる事なく気絶させた。居眠りをしたように槍を抱えさせてしゃがみ込ませて置く。三人はするりと本丸の中に侵入した。新之輔の案内で、人が居そうな場所を避けながら本丸の中央に向かって進む。新之輔はそこに石牢が作られていると予想していた。慎重に廊下を進みながら新之輔が映美に囁いた。

「忍者は屋根裏や床下を行くのじゃなかったのですか」

「ほだなとご(そういう所)は刃物つがだ(使った)忍者封じ、しぇごだま(沢山)あるさげ、却で危ね」

「なるほど」

 しばらく行くと、どちらに回っても人の気配がしてそれ以上進めなくなった。どうやらこちらへ進軍して来る荻軍の位置が確認され、未明にも城下に到着するという報せが届いたらしく、皆それに備え始めたようだった。映美と郷子と新之輔は武器の殆ど運び出された武器蔵の一つに入り込み、そこで隙ができるのを待つ事にした。人の居ない蔵の中にもちろん明りはなく、新之輔は映美と郷子に手を引かれて歩いた。夜が明けて荻軍の攻撃が始まれば、留守居の部隊の殆どはそれを迎え撃ちに出てしまうだろう。指揮を取る重臣を残して本丸が空になってしまえば映美たちには助かるが、荻軍が裏鬼界と通じている事を敵も知っているし、櫓の見張を殺した侵入者か裏切り者がいる事も判っているから警固の者が残るだろう。三人は槍か何かが入っていたらしい大きな箱の陰に身を潜め、周囲の気配を窺いながらじっと時を待った。新之輔の呑気そうな顔は郷子を少しばかり苛立たせるが、環のように緊張で神経が参ってしまう事がないのでそれは助かった。

「子供はここにいると思う?」

 と郷子が新之輔に聞いた。新之輔は黙って頷いた。郷子が重ねて聞く。

「どうして」

「本丸中央に近付くにしたがって八年前とは異なる、作り替えられた所が多くなっています。何か大きな作事をしたのでしょう。多分、僕と真珠さんが入れられたような石牢を作ったのだと思います」

「そこに子供は居るかしら」

「判りません。最初から居なかったのなら、居ないでしょう。でも、元々そこに閉じ込められていたのなら、何処かへ移したりはしないのではないでしょうか。鬼界衆は鬼神通で呼び合いますから、移動中に奪い取られる恐れがあります。ましてや本隊が出撃していて兵力が少ない時に移したりはしないでしょう」

「新之輔さんは案外頼りになるわね」

「案外は余計ですよ」

 新之輔は朗らかに笑った。どうしてこの男はこの状況でこんな風に何の心配事もなさそうに笑うのだろうと郷子は思う。非常に頭が良いようなのに年相応の大人らしい深みという物が感じられないのだ。どう思うか聞いてみようとして映美を振り向くと、ぼうっとした顔で妙に潤んだような目をして新之輔を見詰めていた。鬼神眼では色は判らないが顔を赤らめているのであろう事は容易に想像が付いた。郷子が感じた新之輔の薄っぺらさを映美は何かさわやかさや天真爛漫さのように感じているらしかった。郷子は映美の尻を蹴った。

「えでっ(痛い)。何するだ」

 映美は囁き声で叫ぶという器用な事をした。

「しゃんとしろ」

 軍議の間は二階、映美たちが居る武器蔵の真上にあった。さして広くもない板の間である。小さな床の間があるが軸も花もなく、人間の頭蓋骨が月見の団子のように三角形に積み上げてあった。奇を好むのは城主、江泰英(こうやすひで)の趣味である。しかし、その城主は父親の領主泰晴と共に出陣中だ。片瀬城に向けて進軍していたが、今頃は伝令から荻軍十慶城に迫るの報せを聞いて引き返し始めた筈である。今、軍議の間にいるのは五人。床の間の前に座るのは城主の留守を預かる城代、黄昇(おうしょう)である。腰が曲り干からびた枯れ枝のような老人だが、奇妙に眼光だけは鋭く胆力を感じさせる。

「荻軍はどこまで来た」

 皺に埋もれた口から出る声も嗄れてはいるが弱々しさは微塵もない。黄昇の前には左右に二人ずつの武将が並んで向かい合って座っている。黄の右手奥の武将が平伏した。中肉中背だが、おとなしそうな雰囲気のためかやや小柄な印象を受ける。角のない穏やかな表情をした男で、害のなさそうな感じだが有能そうにも見えない。戦準備のため鎧の下に着る直垂(ひたたれ)を纏っているが武将の猛々しさは全く感じられず、むしろ気の弱そうな感じがする。一言で言えば凡庸な印象の男である。武士よりも百姓か職人が似合いそうだった。商人としては押しが弱く見える。ところがこの男が留守居の忍者隊を指揮する忍び大将、曹全(そうぜん)なのであった。留守居に残されたのは無能故ではない。

「はっ。既に鈴沢の峠を越えたよし」

「目と鼻の先じゃな。数は」

「二千余り。他に四百ほどの隊が既に南の森に潜んでおります」

「小癪な、挟み撃ちにする積りだの。合わせて二千四百か。今の我等には大軍じゃの」

 主な部隊は出陣して城内には四百ほどの兵しかいない。黄の右手手前の武将が口を開く。

「それに、未だ見付からぬ城内の曲者が居りまする」

 男性としてはやや甲高い、人を苛立たせる所のある声だった。やはり鎧直垂を着た色の白い男である。鼻筋の通った細面に薄い唇は涼やかで、髪は後ろに撫で付けているが前髪が二筋三筋額に掛かっている。睫の長い切れ長の目も形良く類い希なほどの美男と言っても良かったが、目つきが全てを台無しにしていた。妙に濡れ濡れとした黒目がちの目には知性は高いが品性下劣な腹黒さと、人を見下げたような傲慢さ残忍さが滲み出ていた。名を林進(りんしん)と言う。城代は林進を見て言う。

「曲者は裏鬼界か」

「おそらく」

「荻軍本隊に城の注意を引き付けておき、その隙に別働隊に山を上らせ、内側から門を開いて導き入れるという計略と見たがどうかの」

 と老人が言うと卑しい目つきの美丈夫がかしこまって頭を下げる。

「ご明察と思われます。更に裏鬼界が城内を攪乱するのでござりましょう」

「裏鬼界の目当ては仲間の子供であろう」

「御意」

「返してやれば引き取ってくれるかの」

 老人の言葉に美丈夫は嫌らしい目を細めて首を傾げた。

「さて。どうでござりましょう。少々痛め付けましたからな。却って怒らせるやも知れませぬ」

「せっかく捕えた鬼界衆を渡してはなりませぬ」

 と言ったのは黄昇左手手前に座る女武者である。既に鎧を身に着けている。女としてはかなり大柄だが、乳房に沿って両胸が丸く突き出し腰の細くくびれた特別誂えの鎧が女である事を強調している。美人ではないが表情がきりっと引き締まっているので意思が強くきっぱりした印象を受ける。反面、気が強く強情そうでもある。忍びの曹全とは違い、この女は見たままの性格である。女ながら江軍に並ぶ者のない剣客、董蘭香(とうらんか)。剣技には天賦の冴えを見せるが、協調性がないので集団戦では力を発揮せず、指揮官としても不適であり、留守居とあいなった。軍議に参加しているのだから留守居の中では重臣なのだが、役職も侍大将ではなく警固番頭および剣術師範である。女武者は城代に詰め寄った。

「鬼神通の仕掛けを解き明かし、戦場でこれを用いる事、各地の領主が先を争って研究しております。後れを取ってはなりませぬ」

「しかし城を落とされては元も子もないだろう」

 笑いながらそう言ったのは女武者の隣に座る身体の大きな男である。蓬髪を額と頬にかけたごつごつした顔は意外にも優しい目で微笑んでいたが、彼を見た者はそんな表情など目に入らない。何とも迫力ある身体の量感に圧倒されてしまうのである。戦が間近いというのに鎧も直垂も身に着けず、擦り切れた浴衣一枚で座っていた。体の大きさだけなら、山賊の住処で映美が相手にした大男の方が大きい。しかし全身を鎧う大きな筋肉は剛健なだけではなくしなやかさを予感させ、男が単なる力持ちではない紛れもない戦士である事を見る物に感じさせずにはおかない。ただ胡坐をかいて座っているだけでも身体の芯から溢れ出て来る活力が男の周囲を陽炎のように取り巻いて揺らめいているのが見えるようなのだ。僅かに身動きしただけでも筋肉のうねりは大型肉食獣の力感に満ちて不気味なほどであった。男の腹の中には何か温泉のような物があって、そこからこんこんと熱い力が涌き出ているように思えた。大きな獅子がうずくまっているようだった。今は寛ぎ穏やかに微笑んでいるが、一度動き出せば比類なく危険な怪物である事は誰が見ても直観した。名は捨丸(すてまる)。捨て子故に姓はない。何人かの武将に仕え、姓を与えると言われた事も何度かあったがなぜか頑に拒んだ。あらゆる武芸に通じ戦士としては最強の部類であり、大らかな人柄故に人望もあったがやはり指揮官としては無能であった。

 女武者と捨丸が留守居となったのは偶然ではない。主(あるじ)の江泰英は、あまりにも能力の偏った二人を戦場で効果的に使う事ができず、少々持て余していたのである。戦場では少数の天才的武芸者よりも、凡庸であっても良く訓練された多数の兵士の方が効果があった。捨丸の余裕のある顔が小面憎く、女武者は食って掛かる。

「城も鬼界衆も奪われてはならぬ」

 女武者の剣幕に気付かぬように微笑んだまま捨丸は頷いた。

「そうだな」

 捨丸は女の顔を覗き込むようにした。女武者は大きな獅子のような男と目が合うと途端に動揺し頬を赤らめて顔を背けた。気の強そうな毅然とした所がなくなり、身体に通っていた芯が融けてぐにゃりとなった。女武者董蘭香が捨丸に恋着しているのは誰の目にも明らかだったが、捨丸は気付かないような顔をしている。もしかしたら本当に気付いていないのではないか。まさかと思いつつも他の三人はそうも思う。蘭香の恋慕は滑稽なほどはっきりと態度に現れており、余程の朴念仁でない限り気付かぬ筈はない物であった。三人は捨丸がその余程の朴念仁ではないかと疑っているのである。朴念仁の容疑者は穏やかな微笑を林進に向けた。

「して我等はどのようにいたす」

 林進の知略は経験豊富な老城代を凌ぐほどであったが、その傲慢な性格を城主に疎んじられ、今回も留守居の憂き目を見ている。城主ばかりではなく、彼の慇懃無礼な振舞いは城内の誰もが嫌ったが、寛容な人柄故か捨丸だけは林進の人を小馬鹿にしたような態度も意に介さずその知略に敬意を払った。城の者たちはやはり、見下されているのに気付いていないのではないかと疑っている。林進は捨丸にすぐに応えず曹全に聞く。

「荻軍来るの報せは進軍中の我が軍に伝わったか」

 凡庸な印象の忍者大将は僅かに頭を下げた。

「は。石動山頂の狼煙台から明りによる合図がござりましたれば、先ずは滞りなく。夜が明ければ鳩が使えまするので、到着の時刻などのより詳しい様子が判りまする」

「夜飛ぶ鳩が欲しいな」

 と捨丸が言うと老城代は口を歪めて笑った。

「梟か蝙蝠でも手懐けるか」

「このような時こそ鬼神通は有用なのでござる」

 と林進が言うと皆はっとした顔になった。林進が続ける。

「それはともかく、我が軍本隊が引き返して来て挟み撃ちにすれば、荻の兵どもが如何に勇猛だとて高々二千四百、打ち勝てぬはずがござりませぬ。ならば、我等は撃って出ずに引き籠り、本隊到着まで持ち堪える事が肝要でござる。到着の時刻はおそらく明日昼過ぎ、多少の支障があっても夕刻には戻って参るでござりましょう」

「それまで如何にして持ち堪えるかじゃの」

 城代の言葉に林進は頷く。

「御意」

 女武者が腕を組んで言う。

「城山は険しいから横手から攻める事は難しい。敵は門を破ろうとするであろう。大手門と搦め手門、両方同時に攻められるとちと面倒だな」

 林進はまた頷く。

「大手門には戦車を陣取らせる」

「戦車屋敷は賊に破られたと聞いたが」

 と蘭香が言うとこれには曹全が応える。

「屋敷の者は皆討たれましたが戦車は無傷でございます。壊そうにも鉄の車では仕様がなかったのでござりましょう」

 蘭香は頷いた。

「ならば城兵は搦め手門に集めましょう」

 捨丸がゆっくりと言う。

「そうするとやはり障りとなるのは忍び込んだ曲者」

 林進が言う。

「奴らの目的は二つでござる。鬼界衆の子供を救い出す事、味方を城内へ引き入れる事」

 ありがちな事だが江側の諜報者は敵の数を少な目に見積もっていた。見た物から推測する際に希望が入ってしまうのである。荻軍の兵力を本隊二千余り、森に潜む別働隊四百と読んでいたが、実際には本隊二千五百、別働隊六百である。しかし、城兵四百に対して寄せ手三千余は有利なようだがそうでもない。十慶城は山上にあるため、投石機や大型弩などの攻城兵器を運び上げる事が困難で、短期間に陥落させるには十倍の兵力を持ってしても難しかった。城内から味方を導き入れなければ荻軍の勝利はまずあり得ない。城代が頷いた。

「すると現れる場所も限られるの。大手門と搦め手門、そして石牢じゃ」

 林進が言う。

「御城代様にはこれにあってお指図を頂くとして、石牢を曹全殿の忍者組に守っていただこう」

「はっ」

 と言って忍者大将が平伏すると、捨丸が頷いた。

「ならば大手門は拙者と蘭香殿でお守りいたそう。門前には戦車が陣取るとなれば二人で充分。宜しいかな蘭香殿」

「はっ? は、はは、はいっ。はいっ」

 女武者は恋しい男の口から自分の名前が出た瞬間からとろんとした顔をしていたが、呼び掛けられるとうろたえたような顔をして素っ頓狂な声を出した。

「それでは」林進は太刀を掴むと立ち上がった。「私(わたくし)は兵を率いて搦め手門を守るといたそう」

「皆の物、ゆめゆめ怠りなきよう」

 立ち去ろうとする者たちの背中に老いた城代が言うと、四人は一斉に振り返って頷いた。

「御意」

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